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銀翼のキセキ ―空を封じられた世界で―  作者: 刹那メシ
第一章:白き知

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第5節:最大の問題

 流体力学の祖、デイビット=ディアデムが発見した真理は、次のようなものである。

『圧力を密度で割ったものと、流速の二乗を二で割ったものを足し合わせたものは、いつでも等しい値をとる――ただし、重力項は無視してある――』

 つまり、どういうことかというと、同じ流体の中でも、流速の大きいところでは圧力は小さくなり、逆に小さいところでは圧力は大きくなる、という訳だ。

 例えば、顔の前に、極めて軽いタリタの実でできた玉を二つ、糸でぶら下げる。その二つの玉の間に、息を吹きかけてみる。きっと、玉は互いに近付くだろう。これは何故か? それは、玉の間に流速を与えることによって、その部分の圧力が大気圧よりも低くなり、玉が外側から力を受けるからだ。

 この原理を応用したものが、博士がまだ博学会に籍を置いていた時に発明した、ガリオネッティ・アルスハイル翼型である。この翼は、真上から見た魚が体を僅かに曲げたような断面をしている。これを流れの中に置いた時、盛り上がった翼上面では、へこんだ翼下面よりも流速が大きくなる。ということは、圧力が低くなる訳であるから、翼には上向きの力が発生する。これを揚力という。ガリオネッティ・アルスハイル翼型とは、揚力を維持したままで、流体からの抗力を最小限に抑える、最も効率のよい翼断面であった。

 その翼から後ろに梁を張り出させると、博士は、その先端にプロペラを描いた。

「……今度は、このような構造物を考えてみよう。これは、起風機によって後ろ向きに風を起こし、その反動によって前に進む。相対流れは後ろ向きであるから、起風機の出力低下を心配する必要はない。ではラスティ君、このガリオネッティ型昇空機は果たして飛ぶだろうか?」

 博士は私の顔を覗き込んだ。私は以前の博士の忠告に従って、慎重に答えた。

「……飛ぶ可能性はあると思います」

 博士は満足そうに微笑んだ。

「よろしい、いい答えだ。では、その不確定要素になっているものは何かね?」

「まず重量です。翼の揚力が起風機の重さに勝っていなければ、その構造物は舞い上がることはできません。それに、構造物の強度も問題です。先端の起風機の重さに耐えられるような梁でなくてはなりませんし、翼にかかる抗力に打ち勝てるような翼材でなくてはならないと思いますが……」

「その通り、実にいい答えだ。重量と強度、これが、私の考える昇空機の実現への鍵を握る二大要素なのだよ。より軽く、より丈夫に――この相反する条件をどうやって満たすか? それが、我々に課せられた最大の問題だ」


* * *


 その日の講義も終わり、博士は館長室へと戻っていった。

 私は大きく伸びをした。ここ数日聞は瞬く間に過ぎてしまった。これほど真剣に講義を聴いたことはなかった。修学院では、私は仮にも真面目な生徒とは言えなかっただろう。一般教養の講義の時間に、私はその内容と同じ教科書を開いていたことがなかった。他に読みたい専門書は山ほどあったからである。教室の最前列で化学反応式を読み耽る私に、倫理学の教授は溜め息混じりにこう言ったものだ。「ラスティリアード君、君は沈黙の暴力という言葉を知っているかね?」と……

 書き留めたノートを整理すると、私は、今日も部屋の隅にいたクリスへと声をかけた。

「今日も、とても有意義な一日だったよ。クリス、君はどう? 退屈しなかった? 」

「いえ、そんなことはありません、公爵様。とても勉強になりました」

 そう答えた彼女の瞳は、お世辞とは思えないほど生き生きと輝いていた。……変わった子だ……私は思った。そういえば、彼女は、私が初めて図書館を訪れた時にも、受付でリュードベルの本を読んでいたはずだった。知識の追求に喜びを感じる女性は、貴族の中にもそうはいない。私は、このクリスという少女に興味を惹かれた。

「……クリス、君に一つ頼みがあるんだ……聞いてくれるかい?」

 ふと考えて、私はこう切り出した。

「それはもう、公爵様がおっしゃることでしたら……」

 真撃なまなざしで、彼女は私を見つめた。

「……僕といる時は、クロネッカ家の後継ぎとしてではなく、一個の人間ラスティリアードとして接してほしいんだ。公爵様と呼ぶ必要も、敬語を使う必要もない。博士と同じように、ラスティと呼んでくれて構わない。僕は、君と友人として付き合いたいんだ」

 クリスは澄んだ鳶色の瞳を見開いて、信じられぬという顔をしていた。

「……そうしてもらえないだろうか?……」

 命令口調にならぬよう、私はできるだけ柔らかな物腰で言った。

 しばらく呆然としていたクリスは、やがて不意に顔を伏せた。その時、彼女の顔に浮かんだ苦悩の表情を、一瞬とはいえ、私は見逃すことはできなかった。

「……申し訳ありません……そればかりはご容赦下さい。……他の事でしたら何なりと……どんな無理難題でもお受け致します。ですから、どうかそれだけは……」

 声を震わせて、クリスは何度も頭を下げた。私は慌てて彼女の肩をつかんだ。

「ごめん、クリス! 君をそんなに苦しめるつもりはなかったんだ。僕はただ、君と距離を置かずに話がしたくて……ただそれだけだったんだ……ごめん!」

 不用意な発言で、彼女を強制的な選択に追い込んだことを、私は心の底から後悔していた。彼女が、私のことを公爵様と呼ぶのは、形式的な礼儀ではなく、それが彼女の本心だからなのだろう。そんな尊敬を受ける覚えは全くなかったが、しかし、この子は本当に純粋な子なのだということは十分にわかった。いや、ひたむきという言葉が合っているかも知れない。

 私が差し延べた手に気付いたクリスは、慌てて跳び退いた。

「そんな、私が……私が悪いんです、私が……。公爵様に謝られてしまったら、私一体どうしたら……」

 恥じらいと困惑の表情で、クリスは顔を伏せた。

「ラスティ君!」

 背後でした博士の声に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。この誤解されかねない状況をどうやって説明すべきか? 私が一番最初に考えたのはそのことだった。

 しかし、博士はクリスの潤んだ瞳には気付いた様子もなく、私に向かって楽しそうに微笑みかけた。

「どうだね。君さえよければ、一緒に夕食でも食いに行かんかな?」

「えっ、ええ。僕は構いませんよ!」

 この場を収拾しようと、私は息急き込んで答えた。

「クリス、君もどうかね?」

「……いえ、私は……」

「いいじゃないか、クリス。君もおいで!」

 断ろうとした彼女を、私は強引に誘った。彼女をこのまま帰してしまうのはよくない、そんな考えがあったからである。

クリスはしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。

「よし、決まりだ。二人とも早く身支度をしたまえ」

 博士は目尻に皺を寄せると、嬉しそうに手にしたステッキを振り回した。

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