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第4節:三人だけの講義

 次の日、朝食が済むと、私はフィルソルフィアナ図書館へと赴いた。

 相変わらず人気のない閲覧室では、館員のクリスが、物置から脚のついた黒板を引っ張り出してきていた。

「おはようございます、クロネッカ公爵様」

 私に気がつくと、彼女はニッコリと微笑んだ。

「おはよう、ミス・ミルスプリングス」

「そんな! クリスで結構です」

 彼女は慌てて手を振った。頬が朱に染まった。

「じゃあ、僕もラスティでいいよ」

 私は笑って言ったが、彼女は急に真顔になった。

「それはいけません!」

 思いがけないクリスの真剣なまなざしに、私は戸惑いを覚えた。

「おはよう、ラスティ君!」

 元気な声が背後で響いた。博士だった。

 博士は、くたびれた白衣を身に纏い、右の脇には、何やら道具の入った木の箱を、左手には、埃をかぶった旧式の送風機を持っていた。にこやかに微笑む頬のこけた顔は、昨日までとは打って変わって、見違えるほど精気に溢れていた。

 博士は黒板の前へと立った。私は手近な机に腰を下ろした。

「さて、ラスティ君。君が私の共同研究者となるからには、私の研究をよく理解してもらわなくてはな。よってしばらく講義をさせてもらうことにするよ。……あっ、クリス!」

 一礼して立ち去ろうとした彼女を、博士は呼び止めた。

「……君にも聴いてほしい」

 私は驚いて博士を見つめた。こんな人目にはばかることを、ただの館員に?!……しかし、博士は私の異議の視線に黙って頷いた。私は、戸惑っているクリスに目をやった。

「……で、でも、私なんかが……」

 困ったように、クリスはチラリと私を見た。

「なあに構わんさ。いいだろう、ラスティ君?」

「え?!……あっ、はい!……」

 突然同意を求められて、私は慌てた。……博士がいいと言うのなら、きっと大丈夫なのだろう……

 私は隣の席の椅子を引いた。

「どうぞ、こちらへ……」

「そんな! 私は後ろの方で結構です!」

 クリスは、急ぎ足で閲覧室の隅の方へ行くと、一番後ろの席に腰を下ろした。

 ……そこまで行くことはないだろうに……やはり、身分の差を気にしているのだろうか……困惑と同情の視線を向けた私と目が合うと、彼女は済まなそうに顔を伏せた。

「……よろしいかな?」

 博士の声に、私は前へと向き直った。

「では、まずこれから見てもらおう……」

 そう言うと、博士は、箱の中から木でできた風車を取り出した。その辺りの玩具店ででもすぐ手に入りそうな、ごく普通の風車だったが、羽根(ネキア)は一枚しかなく、その反対側には、骨木の先に小さな粘土玉がついていた。おそらく、羽根と同じ重さに調整してあるのだろう、机に置くと羽根は水平のまま止まった。博士は、その前に送風機を置いてコンセントを差し込んだ。

「説明の必要はないね? ただの風車だ」

 博士は送風機のスイッチを入れた。モーターが回り出すと、風車は風を受けてカラカラと回った。

「こうして風を受けると風車は回り始める。だから風車と言うのだが……」

 説明の必要はないと言いながら、博士は何やら楽しそうに、わかりきったことを話していた。

「ではラスティ君、風車は何故回るのだろうか?」

 博士は私の顔を覗き込んだ。まるで初等院の授業のようだと、内心苦笑しながら私は答えた。

「それは、風車の羽根が、風の方向に対し仰角を持っているからです」

「その通り。羽根の持つ仰角が、この風車を動かしている。何故なら、水平な羽根や垂直な羽根なら決して回転することはないからだ」

 言いながら、博士は深く頷いた。

「しかしだ、それだけでは十分な条件は与えられていない。分かるかな?」

 この質問には答えに詰まった。仰角のほかに、回転する要素があるというのだろうか?……眉をひそめる私に、博士はニンマリと笑った。

「……クリス、君はどう思うかね?」

 博士は、不意に部屋の隅のクリスへと声をかけた。突然のことに、彼女は慌てて立ち上がった。

「はい!……えっと……その……あの……」

 彼女はチラリと私を見ると、目を伏せて、答えるべきかどうかためらっているようであった。

「別に気を遣うことはない。君が思ったことを言ってみたまえ……」

 博士は優しく言った。

「……あの……風が……風があるからでは、ないでしょうか?……」

 蚊の鳴くような声で、彼女は答えた。

 思いもつかないような答えを期待していた私は、思わず拍子抜けした。クリスには悪いと思ったが、私はその時、失望の色を隠し切れていなかったかも知れない。だからこそ、私は、次の博士の言葉に驚かざるを得なかった。

「よろしい。その通りだ」

 私は自分の耳を疑った。よろしい?!……『風があるから』が『よろしい』なのか?!

「待って下さい、博士。風があるのは当然のことじゃあありませんか!」

 私は抗議の声を上げていた。風車は風があるから回る――そんな結論は、まだ学院に上がらない子供でも出せるではないか!……

 博士は、その言葉を待っていたと言わんばかりにニヤリと笑った。

「ほう……では聞くが、風がなくても風車は回ることができるのかな?」

「それはできるはずがありません。風車は、風を受けて回るから風車なのであり、風車は、風のあることを前提として回っているのです」

 私の言葉を、博士は大袈裟に頷きながら聞いていた 。

「ラスティ君、君の言うことはもっともだ……ただし、一般人としてならの話だがね」

 そう言うと、博士は図書館の天井を見上げた。

「……『常日頃、常識と言われているものにこそ、真理は隠されている』……哲学者オートリュースの言葉だ……」

 一人頷いて、博士は私に視線を戻した。

「いいかね、学者にとって、当然という言葉は存在しない。目に見える現象を、当然のこととして済ましてしまうのは、学者の卵が陥りやすい陥穽だよ。考えてみたまえ。雨滴が落ちるのを当然のことと考えていたなら、ハルペルドは重力を発見できなかっただろう。……以後、気をつけたまえ」

 果たして、それは注意だったのだろうか――そう、博士にしてみれば、それはやんわりとした注意だったのだろう。私にしても、それは注意だとわかっていた。しかし、その時の私の感じていたものは、紛れのない心地よさであった。やはり、博士は『博士』と呼ぶにふさわしい人なのだ。そして、私は今、その人に教えを請うている……改めてそう認識する度に、私の胸は高鳴っていた。

「さて、風があり、風に対して羽根が仰角を――まあ俯角でもいいが――とにかく角度を持っているなら、風車は回ってくれるのだろうか?」

 腰に手を当てると、博士は私とクリスの顔を交互に見た。だが、博士の忠告に従っても、もう風車の回る要素はないように思われた。

「わからんかな? もう一つの要素は、羽根が、軸に滑らかに拘束されているということだよ。いいかね、風があり、羽根が角度を持っていても、軸にしっかりと固定されていたなら、風車は回れるはずがないだろう?」

 博士は、カラカラと乾いた木の音をたてて回る風車に手をかけて、その回転を止めた。

「問題は、羽根が全く拘束されておらず、完全に自由に振舞えるとしたら、一体どうなるかということだ」

 軸から羽根を抜き取ると、博士は、木箱から取り出したおもちゃの車の屋根にそれを差し込んだ。旗を立てたようになった車は、机の上に置かれた。

「今、この羽根は、二次元的には全くの自由だ。机の上ならどこにでも滑っていける。これに風と角度を与えたらどうなるか……」

 博士は車から手を離した。羽根のついた小さな車は、送風機の風を受けて、机の上を静かに走っていった。

「……このように、羽根は直線運動をする。風車が回るのは、羽根が軸によって回転にその運動を拘束されているからであり、羽根は何も回りたくて回っている訳ではないのだ」

 そう言うと、博士は白墨を手にした。

「この黒板の上方を天と考えてほしい。今、風が左から右へと水平に流れているものとする」

 博士は、黒板の左端に何本かの矢印を描いた。

「……この中に、風の方向に対し適当な仰角を持った、三次元的に完全に自由な羽根があるとする。ただし、仰角は固定されたままだが……」

 黒板の中央には、傾いた羽根の断面が描かれた。

「この時、羽根の下方には風が当たり、その運動量の変化が、羽根下方の法線方向に力を発生させる。これは、風車が回る理論に全く等しい。ただし、軸に拘束されていないこの羽根は、直線的な軌跡を描いて天へと舞い上がることになる訳だ……」

 博士は、黒板の羽根に、上に向かって大きな矢印を描き加えた。その矢印の向きに、私の胸はときめきを覚えた。

「……簡単ではあるが、これが、空を飛ぶための最も基本的な理論だ。何も、鳥と同じように羽ばたく必要はない。車にしても、獣と同じように四本の肢を持っている訳ではないのだから……。デヴィーサイドの滑空機も、同じ理論に基づいていた……」

 博士は、そこでしばらく口を噤んだ。

 デヴィーサイドのことは、私もよく知っていた。主への最初の反逆者ガイル=デヴィーサイド――人は、彼のことをそう呼んだ。彼は、人間が主によって翼を奪われてから、初めて空を飛んだ人物だった。彼のその行為に、聖摂院は大混乱に陥った。しかし、彼は法廷に引き出されることはなかった。何度目かの飛行で、彼は、風の龍の牙によってその人工の翼をもぎ取られてしまったからである。翼を失った彼を待っていたのは、中世の有名な物理学者ユーロス=ハルペルドが発見した、重力という冷酷なる現実だった。彼の死について、聖摂院はこう言及した。「彼がただ一つ証明したこと、それは、主に逆らうことの無謀さである」と……

 デヴィーサイドは、博士の良き友人であったと聞いている。学術誌『エテンリード』でも、二人が肩を並べている写真は何度か見たことがあった。彼の死は、博士にとってどんなにかショックであったことは間違いなかった。それが、私の申し出に対し慎重であった理由なのかも知れなかった。

「……ただ、デヴィーサイドの滑空機は、風があるという要素を自然の力に頼っていた。それでは、真に自由に空を飛べるということにはならない。ではどうするか?……答えは簡単だ」

 博士は送風機の上に手をかけた。

「風を起こす送風機を、機体に括りつければいいのだ」

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