第3節:龍の眠る日
閲覧室の窓際の机で、博士は傷んだ本の修繕をしていた。受付のクリスの声で私の来訪に気付いた博士は、うんざりしたように息をついた。
「毎日毎日、君もしつこいね……」
机の前に立った私とは目を合わせずに、博士はボソリと言った。
「博士のお許しを得るまでは、何日でもお伺いします」
私が言うと、博士は肩をすくめた。
「……何故そうまでして、君は私の研究を手伝いたいのだ?」
私は椅子に腰を下ろした。
「では、逆にお伺いします。何故、私に研究のお手伝いをさせては頂けないのでしょうか?」
博士は、はがれた背表紙に糊を塗る手を休めた。
「言っただろう。真理を追究したいと君は言うが、そもそも真理とは、時として人の命まで奪うものなのだよ。天を見たまえ!」
博士は両手を広げた。
「……頭上は厚い雲の天蓋で覆われ、その下を凶暴な風の龍が飛び回っている。その中に飛び込むことがいかに無謀なことか、君にわからんはずはあるまい。そして何よりも、人が空を飛ぶことは罪なのだ。君を待っているのは栄光などではない。主の怒りの雷の矢と、末代まで続く呪われた運命だよ。君はそれでも構わんのかね?」
私は唖然とした。
「そんな、博士の言葉とも思われません」
「ほう、何故だね。私を無神論者とでも思っていたのかな?……だが、それは君の想像に過ぎない。そうだろう?……」
言葉に詰まった私の顔を、博士は笑みを浮かべて覗き込んだ。私は完全にあしらわれていた。……駄目だ。何としても説得しなくてはならない。どこかに取り付く島があるはずだ。博士は私を試そうとしているのだ。そうでなければ……私は、ここ数日間の会話を思い返してみた。……すべては私の自分勝手な想像に過ぎないのか――そんなはずはなかった。想像のはずは……想像?……
博士は不審に思ったことだろう。私は不敵な笑みを浮かべていただろうから。
「……そうです。すべては想像に過ぎないのです」
私は静かに言った。
「主の怒りも、雷の矢も、末代までの呪いも、すべては神説典に書かれていることであって、我々はそれを信じているに過ぎないのです。神説典の持つ事実は、それが二千年の昔から、多くの人々に読まれ信じられてきたということだけであって、そのことが、その内容を真実だとする根拠には全くなり得ません。神説典とはいえども、それはあくまで本の領域を出ることはないのであり、人々は、主の存在を想像しているに過ぎないのです!」
私は机の上に身を乗り出した。
「私が博士の研究を信じるのは、そこに信ずるに足る根拠があるからであり、信ずるに足るものを信じることが私の信念だからなのです!」
どうだと言わんばかりに、私は拳を叩きつけた。この一撃が、相手の牙城に楔を打ち込んだことは間違いなかった。この角行を私に突き付けたのは、他ならぬ博士自身なのだから……
しばらくの沈黙があった。しかし、やがて博士はニヤリと笑った。私はギクリとして身を引いた。
「……自分の考えに陶酔するのはいいが、安易に本心を曝け出すものではないよ。真理は、時として正義ならざるものだからね。もし、私が深い信仰を持つ者だったら、君は間違いなく牢獄に放り込まれただろう……」
そう言うと、博士は指についたままの糊をゆっくりとタオルで拭いた。
「……まあ、しかし、悪くない反論ではあるな……」
タオルを置くと、博士は私を見つめた。レンズの奥で、灰色の瞳が楽しそうに輝いていた。
「……博士、それでは?!……」
思わず立ち上がろうとした私を、博士は制した。
「待ちたまえ! 問題は何も解決していない。雷の矢や末代までの呪いが想像の産物だったとしても、風の龍の存在までを否定することはできんよ。それは確かに在るのだから」
「そのことでしたら大丈夫です……」
私は、自分自身をも説得するように力を込めて言った。
「……博士は『龍の眠る日』というのをご存じでしょうか?」
「『龍の眠る日』?」
博士は眉をひそめた。それは、私の切り札であった。
「そうです。私の祖父が集めた、風の龍に関する資料の中には、百五十六年に一度、大気上層の気流が止まるという記述があります。百五十年前に禁書になった、哲学者アルナ=オートリュースの本にも、同じような記録が残っていました。もしこれが真実ならば、次に龍が眠るのは聖暦三一三二年の丁の月、つまり、来年の春ということになります!」
それは、私自身確信の持てるものではなかった。しかし、もうそれを説得に用いない訳には いかなくなっていた。
博士は、驚きの表情で私を見つめた。
「……オートリュースの本にそんなことが?」
「はい! どうぞお確かめ下さい」
私は、持ってきた鞄の中から、家の書庫の片隅に眠っていたアルナ=オートリュースの禁書、『天と地を分かつもの』を取り出した。博士はそれを奪うようにして受け取ると、私がしおりを挟んだページを開いた。
「……風の龍の恐ろしさはよくわかっています。しかし、その龍が眠るとなれば、空を飛ぶことも決して不可能ではないのではないのでしょうか?!」
文面を食い入るように見つめる博士に向かって、私は深く頭を下げた。
「博士、改めてお願いします! 私に研究のお手伝いをさせて下さい! 確かに、私の自信には何の根拠もないかも知れません。しかし、それでもなお、私は空を飛びたいのです!」
……沈黙が流れた。私は、机の木目をにらんだまま、ひたすら博士の答えを待った。
パタリと、オートリュースの本が閉じられた。
「……君に一つだけ尋ねる。君は、何故空を飛びたいのだ?……」
やがて、博士は言った。私は顔を上げた。
「……それが、私の求める唯一の夢だからです……」
私を見つめる博士の瞳を私はじっと見返した。分厚いレンズに、思い詰めた私の顔が映っていた。
「……いい瞳だ……」
一文字に結ばれていた博士の口元が弛んだ。
「……君には負けたよ……」
「では?!」
思わず私は立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、閲覧室の静寂を破った。
「しかし! 私は博学会を辞職した身だ。この図書館にしても、だいたい察しの通りでね。研究といっても、満足にできる保証はないよ」
博士は眉間に皺を寄せたが、私は全く気にはかけなかった。スーツの内ポケットに、数日前から入ったままになっていた一枚の紙切れを、私は博士へと手渡した。
「これは?」
「父が私に残してくれた遺産の一部です。それを、研究費としてご自由にお使い下さい」
「?! し、しかし君、この小切手の額面は?!」
博士は、紙面に書かれたゼロの数にすっかり動揺していた。
「科学の発展に貢献できるとあれば、お金も本望でしょう」
何度も金額を確かめ直す博士に、私はウインクしてみせた。呆れ顔で私を見ていた博士だったが、やがて大きく息をつくと苦笑した。
「やれやれ、君も大した放蕩息子だよ」
「……かも知れませんね……」
私も笑った。
小切手を大事そうにポケットにしまい込むと、博士は右手を差し出した。
「まだこちらからは名乗っていなかったな。アルベルト=ガリオネッティだ。よろしく、……ええと?」
「ラスティリアードです。ラスティと呼び下さい」
私は、博士の節くれだった手をしっかりと握りしめた。
「そうだった。よろしく、ラスティ君。今から君は、私の共同研究者だ 」
「こちらこそよろしくお願いします、博士」
熱い波動が、繰り返し胸に込み上げてきていた。今まで読んだどんな小説でも、これほど感動したことはなかった。これは想像ではない。博士の手が、今、私の手の中にある。そして博士は、私のことを共同研究者と呼んだのだ。今までの人生の中で、これほどのことが果たしてあっただろうか。私は、今初めて、自分がこの世に生を受けた意味を知ったような気がしていた。
「ただ、もう一度だけ言っておく。この研究は、死を意識せずにできるものではないのだ。それをくれぐれも忘れないでもらいたい。いいね?……」
「はい!」
真剣な表情で念を押す博士に、私は力強く頷いた。
「よろしい。では、これからのことについて考えるとしよう。しばらく待っていてくれたまえ。片付けてくるから……」
博士は、机の上に広げられた本を重ねると、それを持って書棚の奥へと入っていった。私は右手を見た。そこに残る微かな温もりは、私の夢を現実に変えてくれる、奇蹟への招待状であった。
「失礼します……」
赤毛の館員クリスが、紫茶のカップを机の上へと置いた。
「ああ、ありがとう」
興奮覚めやらぬ声で、私が言うと、彼女はニッコリと微笑んだ。
「よかったですね」
その柔らかな笑顔は、思わず見とれるほど輝いて見えた。




