第2節:アルベルト=ガリオネッティ
窓のない薄暗い廊下を通り抜けて、私は書庫へと案内された。
「館長、お客様がお見えになっております」
入り口のところで、館員の少女は声を上げたが、黴臭い書庫の中からは何の返事もなかった。
「館長?」
こちらでお待ちください、と言うと、彼女は書棚の間を覗きながら、急ぎ足で奥へと入っていった。
「館長、お客様です」
やがて、一つの書棚の前で足を止めると、彼女は上を向いて話しかけた。その蔭に博士はいるらしかった。私は書庫へと足を踏み入れた。
「約束した覚えはないぞ 」
棚の後ろから、しわがれた陰鬱な声が返ってくるのを聞きながら、私は赤毛の少女の隣へと立った。
ガリオネッティ博士は、私の背丈ほどの脚立の上に立って、最上段の棚を整理していた。顎に蓄えられた白い髭と少し禿げあがった頭は、以前、学術誌『エテンリード』に載っていた時の写真と変わりなかったが、分厚いレンズの奥の瞳は落ち窪み、頬もかなり痩せこけて、頬骨が突き出していた。
「館長、こちらの方は――」
少女が紹介する前に、私は自分から言葉を発した。
「初めてお目にかかります、博士。私は、ラスティリアード=ヴァリス=クロネッカという者です。以後お見知り置き下さい」
クロネッカの言葉に、博士は一瞬私を見下ろしたが、すぐに書棚へと視線を戻した。
「……クロネッカ家の御曹子が、一体何の用だ?……」
棘のある言い方だった。私は館員の少女にチラリと目をやった。その意味を察した彼女は、では、と言って頭を下げると、書庫を出ていった。
「クリス、茶なら要らんぞ! すぐ帰ってもらうからな!」
彼女の背中に、博士はそう叫んだ。
「……博士のご研究は、『エテンリード』などでよく存じております……」
噂通りの手強さだな、と思いながら、私は話を切り山した。
「博士の著書『鳥の栄光と大気の技』も読ませていただき、大変深い感銘を受けました」
「……ほう、あの禁書を読めたのか?……なるほど、クロネッカ家の者ならば不可能ではないな……」
博士は、整理する手を休めると、脚立の上からまじまじと私の顔を見つめた。眼鏡の奥の瞳が、挑むように鋭く光った。
「……で、深い感銘を受けたと……ほう……」
そう言うと、博士は唇の端を歪めて、あからさまな嘲笑を私に浴びせかけた。
「帰りたまえ! 私は、悪魔に魂を売る気も、新興宗教の教祖になるつもりもない!」
有無を言わせぬ口調であった。これには私も気分を害した。
「博士、私はまだ何も申し上げてはいません。『観測でき得るすべてのことを観察せずして、結論を経験と推測のみに頼るのは、およそ学者らしからぬ軽率な行為』に思えますが……」
私の言葉に、書棚に伸ばそうとしていた手を止めた博士は、改めて私を見下ろした。
「ほう……ゲルディの名言か……若造が知ったふうな口をきく……どうやら、ただの放蕩息子ではないようだな」
博士は脚立の上に腰を降ろした。
「で、狂気じみた神の使いではないのなら、一体私に何の用なのかね?」
先刻よりは幾分穏やかな物腰で、博士は言った。しかし、依然瞳には警戒と拒絶の光が宿っていた。
私は一度顔を伏せ、息をつくと再び博士の顔を見上げた。
「単万直入に申し上げます。博士のご研究のお手伝いをさせて頂きたいと思い、こうして伺いました」
博士は目を丸くした。何事かを言わんとして口を聞いたが、それを言葉にすることはできず、やがて大きく息をつくと、ゆっくりと頭を振った。
「使って頂けないでしょうか?」
私は、一歩踏み出して博士の答えを待った。
「……君は、私の予想を面白いように裏切るな……」
博士は顎髭をさすりながら、奇異のまなざしで私の顔を覗き込んだ。
「私は、君を論客かと思ったよ。私の理論を非難するね……。雑誌社の連中でもなく、いかがわしい神だか悪魔だかの狂信者でもなけりゃあ、残るはそれしかないからね。それが研究を手伝いたいときたもんだ。……こりゃあ参ったね」
そう言うと、博士は眼鏡をはずし、上着の裾でそのレンズを拭き始めた。
「……君は、安息日には教会に足を運ぶのかね?」
不意に、博士はそんなことを尋ねてきた。私は、ええ、と答えた。
「では、神説典を読むだろう? ん?……読むだろうね?……」
博士の口調は、幼子を教え諭す親のようになっていた。
「ネック=ゲルディの名言をソラで言える君のことだ、神説典の第十一章に何が書かれているかぐらい、 覚えていると思うが……どうかね?」
「ええ、覚えています。大変有名な箇所ですから」
「よろしい。では、そこにはどんなことが書かれているのかね?」
「……人間の犯した原罪についてです……」
「それでは聞くが、私の研究を、神説典に基づいて考えるなら、どういうことになるのかね?」
私は答えに躊躇した。
「構わんよ、言ってみたまえ」
「……神説典に基づいて考えるなら……主に対する反逆です……」
博士は眼鏡をかけると、ニヤリと笑った。
「そう! まさに主に対する反逆だ!……そして、私はその罰を受けた!」
そう叫ぶと、博士は脚立の上に立ち上がった。
「……君にもう一度尋ねる。主への反逆者である私に、一体何の用なのかね?……」
脚立の上から、灰色の瞳で博士はじっと私を見つめた。既に答えはわかっているかのような顔付きであった。私は黙っていた。
「……帰りたまえ。私には仕事がある……」
静かに言うと、博士は再び書棚の整理を始めていた。私の来訪など、始めからなかったかのようであった。
「……『主の摂理は、真理の中にこそある』……」
ややあって、私は口を開いた。
「……アルベルト=ガリオネッティ……博士、あなたの言葉です・・・」
博士はハッとして私の顔を見た。
「私があなたの著書の中で感銘を受けたのは、この一文でした……」
私は、博士の目をじっと見返した。その落ち窪んだ灰色の瞳に、かすかな動揺の色が表れたのを、私は見て取っていた。
「もしそれが本当なら、追究した真理の中に、主の意志を感じ取りたい……それが私の願いです」
「……フッ、主の意志か……」
手にした一冊の本を膝の上に置いて、博士は再び脚立の上に腰を下ろした。
「……君は本が好きなようだね……」
唐突な質問であった。
「……ええ。幼い頃から、よく父の書斎に潜り込んでは、そこにあった書籍を読み耽っていましたが……それが何か?」
「では、ジノ=タンドロット著の『リーグ島探検記』も読んだだろうね?」
「ええ、かなり昔のことですが……」
「あれを読んで、君は心ときめかなかったかね? できることなら、自分もこの『マイヤー少年』のような、血沸き肉躍るような体験をしてみたいと……」
「それは思いました。自分もこんな冒険ができたなら、どんなにか楽しいだろうと……」
博士は眼鏡をかけ直すと、虚空を見上げた。
「しかしだ、本はやはり本の領域を出ることはないのだよ……」
「え?」
「よく考えてみたまえ。君は、マイヤー少年と同じようにリーグ島を探検し、そこで起きる様々な出来事を、文面から想像したに過ぎない。マイヤー少年の気持ちを理解したのではなく、想像したに過ぎないのだよ 」
「……一体、何がおっしゃりたいのですか?」
困惑して私は尋ねた。博士は私を見た。
「……君は多くの本を読んでいる。よい教育も受けただろう。己れの信念を貫くことは美しいことだとも教わった。しかし、君は貴族の者だ。君の知識は、本から得られたものであって、実体験に根差したものではない。信念を貫くことがどれほど困難を要するか、君は、真の意味で理解してはいないのだよ」
私は言葉に詰まった。確かに、博士の言うことは当たっていた。
「……しかし……しかし、私は、誹誘や中傷に屈服しない自信があります!」
反論を試みた私だったが、博士は大きく息をつくと、首を横に振った。
「君のその自信には何の根拠もない。結論を単なる推測に頼るのは軽率だよ。たとえ学者ではなくてもだ……」
返す言葉がなかった。順調に攻め込んだつもりだったが、気が付くと、自分の放った飛車で、逆に王手をかけられていた。
「……君はいくつになるね?……」
博士は、再び遠くを見る目付きになっていた。
「……二十三です……」
「そうか……人間、若い時には、誰でも多かれ少なかれ、体制や権力に対し反感を持つ時があるものだ。君の場合には、それが大空への憧れと結び付いて、『主への挑戦』という形を取ったに過ぎない。もう一度、自分が為すべきことについてよく考えてみることだね」
博士は私をじっと見つめた。その瞳には、勝者の余裕が感じられた。私は奥歯を噛み締めていた。
「……君のような青年と話ができて楽しかったよ。ありがとう……」
博士は、三たび仕事に戻ろうとしていた。
何か、何か反論する手があるはずだ……私は必死に思考をめぐらせた。汗がこめかみを伝った。
「……為すべきことはわかっています……」
負け惜しみになるとわかってはいたが、私は言わない訳にはいかなかった。私は、博士を説得するためにここに来たのだ。自分が諭されてどうする?!……
今度は、博士は私を見はしなかった。
「……博士と共に、鳥のように大空を舞うことです!」
半ば叫ぶように私は言った。博士は手にしていた本を書棚へと戻した。
「……それは違うね。君の為すべきことは、クロネッカ家の新しい主として、世に恥じないような立派な人格を身につけることだ」
書棚に並んだ本の背表紙を見つめながら、博士はサラリとかわした。
「いえ! 私にとっての『私』とは、クロネッカ家の後継ぎである『私』ではなく、鳥の栄光をこの手につかまんとする『私』なのです! 空を飛ぶことで、初めて私は『私』たり得るのであって、それ以外の私には、何の存在価値も与えることはできません!」
拳を振り回して私は叫んだ。
だが、博士はあくまでも冷静だった。
「君が認めなくとも、依然君はクロネッカ家の後継ぎであることに変わりはないのだよ」
「……しかし!……」
私が更に言おうとするのを、博士は右手を上げて制した。
「……君には、死ぬ勇気があるかね?……」
「えっ?!」
「主の意志を知ることと引き換えに、君は命を捨てることができるのかね?」
「……命を?……」
思いもかけない質問に、私は面食らっていた。博士はゆっくりと脚立から降りた。
「そうだ……その覚悟がない限り、真理の追究などできはしないのだよ……」
そう言い残して、博士は黴臭い書庫を後にした。薄暗い廊下の途中にあった館長室のドアが聞かれ、そして乱暴に閉ざされた。
* * *
「お帰りですか?」
館員の少女――クリス=ミルスプリングスが、応接室の前を通った私に気付いて、中からら声をかけた。博士の言葉にもかかわらず、彼女は、テーブルの上に二人分のカップを用意していた。
「ええ、今日はこれで失礼しますが……明日、また伺います」
それは、彼女に言ったというよりはむしろ、決意の揺らいだ自分自身に向けた言葉だったのかも知れなかった。
私は図書館を後にした。自然に溜息が漏れた。考えが甘かったのだろうか……
アルベルト=ガリオネッティ――十五歳以上であれば、たとえ忘れていることはあっても、その名を知らない者はまずいないだろう。彼の発明した小型内燃機関がなければ、我々に今の生活はないと言っても過言ではない。メイトランドの紡績工場や、キタルファの自動車にしても、すべては博士の発明に依るところが大きかった。
その博士を一段と有名にしたのは、五年前の、禁書『鳥の栄光と大気の技』の出版と、その数ヶ月後の突然の博学会の辞職であった。辞職の真相については、多くの新聞や雑誌によって取り沙汰されたが、遂に博士はその理由を一言も語らずに、輝かしい世間の表舞台から姿を消していった。結局、この事件は、禁書を出版した博士に対し、聖摂院の方から博学会に圧力がかけられたのだろうということで決着がつき、やがて彼は、人々の記憶の片隅へと追いやられていった……
その博士が、死ぬ勇気と言った。真理の追究には、死を厭わぬ覚悟が必要だと……どんなことが博士にそう言わせたのか、その時の私には知る由もなかった。何故、博士が私の協力を拒絶するのか――いや、しなければならないのか。その理由がわからずに、私は頭を悩ませた。
通りに出てから、私はふと空を見上げた。
雲の天蓋は、普段にも増して低く垂れ込めているように、私には感じられた。それはまるで、私の一大決心を嘲笑うかのようであった。
……屈するものか……頭上を覆う乳白色の天蓋に挑むように、私は天を睨んだ。




