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第1節:フィルソルフィアナ図書館

 私が博士のもとを訪れたのは、父の葬儀から一ヶ月ほどたった、初夏のある昼下がりだった。

 街のはずれにある大きな鉄工所の脇を通り抜けると、鉄屑の山の向こう側に、ミルリアナの並木道がひっそりと私を待っていた。そこを更にしばらく歩いたところに、その図書館はあった。

 (カラ)の絡み付いた門柱には、「フィルソルフィアナ図書館」と刻まれているのが辛うじて読み取れた。私はそこで一度立ち止まり、世間からほとんど忘れ去られたような、ダイスプリル様式の古びた図書館舎をしばらく見上げていた。

 やがて、私は錆び付いた入り口の蝶番を札ませて、その中へと足を踏み入れた。途端に、幼い頃から馴れ親しんだ古い書籍の匂いが、私を包み込んだ。

 閲覧室に人気はなかった。工場の圧延機の振動にかすかに震える窓。きちんと整えられたままの机と椅子達。どうやら噂は本当のようであった。しかし、注意すると、机は埃をかぶった様子もなく、閲覧室の隅々にもよく手入れが行き届いているのが見て取れた。

 私は、きれいに拭かれた机の間を通って、書棚の前へと足を運んだ。一番手前の列には、分厚い歴史書が並べてあった。背表紙を見るともなしに眺めながら、私は博士の姿を探して書棚の奥へと入っていった。

 しかし、結局見つけることはできず閲覧室へと戻った私は、ふと、受付の人影に気付いた。ハッとして近付いた私だったが、そこに座っていたのは、写真で見た白髪の老人ではなかった。『クリス=ミルスプリングス』と書かれた名札を付けた、赤毛の三ツ編みの少女は、居眠りの真っ最中であった。ソバカスのある鼻の上からは、今にも眼鏡がずり落ちそうになっていた。

 彼女の膝の上には、読みかけの本がページを開かれたまま載っていた。どんな本を読んでいるのだろうかと、私はそれを覗き込んだ。

 十五、六の少女の姿に、私は無意識のうちに甘酸っぱい恋愛小説を期待していたのだろう。しかし、膝の上にあったのは、ガウゼ=リュードベル著の『数学における真理の力』であった。私は驚きの溜息を漏らした。私の家の書斎にも、リュードベルの本は何冊かあった。『数学における真理の力』は私も読んだことがある。しかし、少女が好んで読むような面白い話では決してない。数学の絶対性と種々の公式をわかりやすく説いたものではあったが、修学院を目指す者でもなければ、読んだところで何の感銘も得られるものではなかった。

 人の気配に、少女は目を覚ました。私の姿を認めると、彼女は慌てて居住まいを正した。リュードベルの分厚い本が膝から落ちる。よだれが垂れてはいまいかと思わず手が口元へいき、そこで私と目があった彼女は、頬を赤らめて顔を伏せた。

「何かお探しですか?」

 床に落ちた本を拾い上げると、気を取り直して彼女は微笑んだ。

「アルベルト=ガリオネッティ館長にお会いしたいのですが……」

 私が言うと、その若い館員の顔は俄かに曇った。

「失礼ですが、館長にどのようなご用件でしょうか?」

 つい今しがたの柔らかな対応とは打って変わった、冷たい氷のような彼女の口調に、私は戸惑った。

「博士のご教授を賜りたいと思って足を運んだのですが……」

「雑誌の取材でしたら、すべてお断りしております」

「私は雑誌社の者ではありませんよ 」

「でしたら、身分をハッキリさせて頂かないと、館長にお取り次ぎする訳には参りません」館員の少女は頑なであった。自分の寝姿を見られたことが、彼女を意固地にさせてでもいるのだろうか。

「……わかりました……」

 息をつくと、私はスーツの内ポケットからバッチを取り出した。ここにくる前にわざわざはずしておいたものだったが、この際仕方がなかった。

 少女は、盾に翼の生えたクロネッカの金の紋章を見て跳び上がった。

「大変失礼致しました! まさかクロネッカ家の方とは存じ上げなかったものですから……誠に申し訳ございません!」

 ソバカスの少女は、青くなって何度も頭を下げた。すっかり恐縮してしまっていた。やはり匿名で通すべきだったかと、私は少し後悔した。クロネッカの名を聞いたものは、たいてい今の目の前の彼女のように、畏まって頭を下げる。高貴なお方にはそれが当然なのだと、爺やは昔から言っていたが、私には自分の高貴さが理解できなかった。私は、社会に対して何の貢献も、ただ一つの偉業も為してはいないのだ。私と、目前の少女とを分かつものがあるとするなら、それはせいぜい財産の大きさぐらいだろう。だとすると、我々が平民と呼んでいる人々は、私の財産に対して頭を下げているのだろうか。若い頃から、そう考えるたびに私はうんざりした。そしてまた、『私』という人格にではなく、『クロネッカ家の』私という肩書に頭を下げなければならない人々に、私は憐みを覚えていた。

「お取り次ぎ願えますか?」

 黙っていてはなかなか謝罪が終わりそうにないので、私は自分から切り出した。

「ハ、ハイッ! それはもちろんです!」

 少女はハッとして顔を上げた。

「館長は今、書庫の方におりますので。ご案内致します!」

 彼女が指した右手には、暗い廊下が奥へと続いていた。

「ありがとう」

 そう言って、私は、緊張ですっかり固くなっている少女に、同情の想いを込めて微笑みかけた。

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