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銀(しろがね)の翼

 助走路の端は目前に迫っていた。

 その先には無限の空間が広がっている。私はペダルを踏み込んだ。

 捻りを上げるエンジンが機体を震わした。

 風を切る操翼席の視界から黒いレールが消えた瞬間、私は操翼桿を引いていた。ゆっくりと確実に、しかも力強く。

 機首の両側に張り出した昇降舵が仰角を形作るのを、私は確認しただろうか。

 不意に――いや、予期してはいたはずなのだが――体を襲った形容し難い浮揚感に、私は本能的に恐怖を感じ取った。

 水中から浮かび上がる感覚ではない。重力という『主』の力の艦を、内側から強引に打ち破った――そんな感じだった。

 そこには、許可なき者に対する世界の抵抗があったのかも知れなかった。

 支えを失う恐怖感に、操翼席の私は思わず、手足を突っ張った。しかし、すべては一瞬であった。

 荒涼とした周囲の風景が眼下に流れ去った時、心に沸き起こった歓喜が、恐怖を一気に駆逐した。

 自由!――それは、何にも勝る絶対の自由であった!

 私は今、飛んでいる!

 それは、背中に生えた翼ででも、伝説の言う鋼の鷹ででもない!

 私は、人間の持つ『知』によって、全知全能の主の束縛を逃れたのだ!

 十数年来の夢が、今、私の手の中にあった!

 怒涛のような狂喜が胸腔を、いや、全身を震わしていた。体中の血液が沸き返っているようであった。

 有り余る感動が喉元に込み上げて、迸りそうになる喜びの絶叫を、私は歯を食いしばって堪えた。

 乳白色の雲の天蓋は、目の前にあった。

 その向こうへ行きたい! 今の私にはそれができる!

 私は、地上での博士の再三に渡る忠告など、すっかり忘れてしまっていた。ともすれば、操翼方法さえ頭の中から吹き飛んでしまいそうであった。

 あの雲の天蓋の向こうへ!――まだ見ぬ世界へ行ってみたい!

 何故?!――理由は分からない。

 いや、理由などないのかも知れない。

 それは、人間の最も根源的な欲求であった。

 意義などない。必要としない。その果てには、充実感だけがあった。

 それだけであった。

 しかし、私はその誘惑を拒絶し切れなかった。

 あの、大地を覆う雲の蓋の中へ!――そう思った時であった。

 突如、機体が軋んだ。

 機外の世界が目まぐるしく渦を巻きながら流れ、風景は輪郭を失って色彩が溶け合った。

 私は完全に上下の感覚を喪失した。

 次に世界が静止した時、眼前に広がった波打つ砂の海に、私の思考は空白化していた。

 それが何を意味するのかわからず、私はただ、突然の状況の変化に動揺した。

 目の前に、さっき飛び立った地面が見えるということは……堕ちているのだ!

 そう気付いた時、砂の粒子が一つ一つ見分けられるほど、グラフィアス号は大地に迫っていた。

 私は、混身の力を込めて操翼桿を引いた。

 果たして、それは重量八百ガールの機体を引き起こすのに十分な力だっただろうか。

 地平線が見えたような気がした。

 やったか?!

 しかし次の瞬間、私の体は激しい衝撃に襲われた。

 目の前に紫色の火花が散り、まるで電球の芯が飛んだように、辺りは闇に閉ざされた。

 駄目だ……墜落してしまった……

 私は死ぬのだろうか?……

 そう思う意識も、やがて鮮明さを失い、すべては暗い静寂の中へと落ち込んでいった――


* * *


 聖なる書、『神説典』は言う。昔、人には翼があったと。

 世界を創造された主は、九日目、人を作り賜うた。そして、その最後にして最高の作品に、主は、鎧牛(リノクス)に勝る立派な角と、獅子に勝る鋭い牙と、熊に勝る強靭な爪と、鷹に勝る大きな翼をお与えになった。主は、その姿をご覧になって良しとされた。

 最初の人ネッドは、主より授かったその力を使って、僅か四十二日でこの地上を制し、獣達の覇者となった。そして、人は豊穣なる大地に王国を築いた。これは、後に『最初の都(ニュー・メディアス)』と呼ばれ、また、人が地上を治めるのに要した四十二日間は『月』と呼ばれるようになる。

 時が過ぎたある時、地上の統治に飽きた若き人の王シンは、主の御座へ行ってみようと思い立った。彼は大きな翼を広げて、天へと舞い上がった。半日かかって天の宮殿に着いた時、そこに主はおられなかった。シンは宮殿の中へと足を踏み入れた。

 そこで、彼は宝箱を見つけた。彼が蓋を開けると、中には輝かんばかりの『知』と『理』と『火』が入っていた。その美しさに、シンは心を奪われた。やがて、彼の胸には悪しき想いが湧き起こった。彼はその三つの宝を口の中に隠すと、急いで宮殿から立ち去った。

 夜が近づき始めた頃、主は宮殿にお戻りになった。そして、すぐにすべてを悟られた。主は、シンの所業に大いにお怒りになり、あと僅かで地上に着こうとしていた彼に向かって、雷の矢を投げつけられた。シンの体は、灼熱の紫炎に焼かれた。彼の角は折れ、牙は抜け、爪は剥がれ、翼は焼け落ちた。

 やがて、三つの宝を取り戻すため、主が地上に降りて来られた時、みすぼらしい姿に変わり果てたシンをご覧になって、主は憐れに思われ、宝を飲み込んでしまった彼の腹を断ち割ることは思い留まられた。主は言われた。

「シンよ、お前は犯してはならぬ罪を犯した。お前は罰せられなくてはならない。お前は、これからの時を、毛皮さえ失ったその姿で生きるのだ。お前は、夏の暑さに悶え、冬の寒さに凍えるだろう。お前が今まで治めていた獣達は、揃ってお前を襲うようになるだろう。お前に安息はなく、恐怖がお前の身を責め苛むだろう。しかし、お前が盗んだ『知』と『理』と『火』は、お前に与えよう。お前が使い方を誤らねば、お前は再び万物の霊長になれるであろうことを、私はここに約束しよう。何故なら、お前が得たものは、私の技だからだ。しかし、そうなるまでは茨の道であることもまた、私はここに約束しよう。お前は、地上の主になるのに、以前の四千倍の時間を費やさねばならない。そして、苦しみながらもなお、お前は生きるのだ」

 そうして、地上を去られた主は、大地の上に厚い雲の蓋をされ、その下に風の龍を住まわせられた。

 こうして、罪を犯した人は、大地に縛られたのである。


(神説典第十一章)

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