第1節:友の帰還
父が亡くなってからの食事の時間は、とりわけ寂しいものとなっていた。父がいた時も、それほど賑やかという訳ではなかったが、この巨大な食卓は、私一人で食べるにはあまりに大きすぎた。
私は顔をしかめて、皿の上に載った人参をフォークでつついていた。夕食に出た人参を食べられずに母親にぶたれたという、数学者リュードベルの気持ちがよくわかる。こればかりは、どうしても好きになれなか った。噛んだ時に口の中に広がる、あの何とも青くさい甘さのどこがおいしいというのだろう。いつもなら、人参を使わないでくれる料理長のバローだったが、今日は爺やの監視の目が光っていたようであった。
そのボルツ爺やは、澄ました態度で私の後ろに立っていた。目の垂れた皺くちゃなその顔が何とも憎らしい。祖父の代から仕えているというから、もうかなりな歳なのだろうが、目も耳もまだまだ達者で、どうにもごまかしが効かないのが厄介であった。
「坊っちゃま、今日もお出かけになるので?」
人参を相手に悪戦苦闘している私の背中に、爺やはそ知らぬ声で尋ねた。私は憮然として、ああ、とだけ答えた。爺やは溜め息をついた。
「もうすぐ旦那様の喪も明けます。坊っちゃまにも、そろそろ当家の主としての自覚を持って頂かなくては……いつまでもフラフラと遊び歩かれているようでは困りますよ」
私はフォークを置いた。
「僕は、父上から一年間の考える時間をもらっているんだ。その間は、どうしようと僕の勝手だろう?」
「それは、旦那様がご存命の時のお話でございましょう。旦那様亡き今、当家の家長は坊っちゃまなのですよ。由緒正しきクロネッカ家の主となられるお方が、職にも就かず、遊興にうつつを抜かしているようでは、このボルツ=ステファン、大旦那様や旦那様に顔向けができませぬ」
戒める爺やを、私は敢えて無視した。
と、彼は右手で両目を覆った。
「ああ、嘆かわしや! あなた様のお爺様、ダイリンシュタット様は、風の龍による死者をなくすために、街のそこかしこに退避坑をお作りになり、お父君のスプレッツアード様も、諮問会の委員長として、公序良俗の安寧のためにご尽力なされたというのに、肝心の坊っちゃまは、家の財を浪費して、ひたすら遊惰に日々を明け暮れておられるとは……爺は悲しゅうございます!」
ヨヨヨヨと、奇妙な泣き声をあげる爺やに、私はうんざりして息をついた。年々、嘘泣きがわざとらしくなる。しかも、放っておくといつまでも泣き止まないのだ。
「爺や、僕は毎日遊び歩いている訳じゃない。この家にふさわしい主になるために、図書館で勉強しているんだ」
仕方なしに私が言うと、爺やは不意にグイと顔を近付けた。頬には、例によって一滴の涙も流れてはいなかった。
「それでは、博学会の大講堂の前に、王立院のハイフォルクラシア図書館があるではありませんか。何も、あんな街はずれの寂れた図書館にまで足をお運びになる必要はございません。あそこのフィルソルフィアナ図書館は、いい噂を聞きませんからな」
「どうして、あそこに行っていることを知っているんだ?!」
驚いて私は振り返った。
「爺は、坊っちゃまのことでしたら、何でも存じ上げております」
爺やは平然とうそぶいた。私は睨んだ。
「ネカルにでも後をつけさせたんだろう?!」
「……二、三日中に、ウィリアード様がお来しになるそうです。お披露目の儀式に先立って、その心構えなどをお教え下さるのでしょう。しっかりとお話をお聞き下さいませ」
話をそらすな、そう言おうとした私だったが、興味はむしろ次の話題の方にそそられた。
「叔父上がいらっしゃるのか?」
「はい。ウィリアード様も、坊っちゃまの将来については、随分とお心をお痛めのご様子でございます」
「……そうか、叔父上が……」
その時だった。一人のメイドが食堂へと入ってきた。
「お食事中失礼致します。只今、エッセンニーカ様がお見えになっておりますが、いかが致しましょう?」
私は思わず立ち上がっていた。
「ザウテルが?! 帰国は明日じゃなかったのか?」
通せ、という前に、食堂のドアが荒々しく開かれた。
「帰って来たぞ、ラスティ!」
戸口に現れたのは、身長二百ニーリルはあろうかという巨躯を持った青年だった。逞しい筋肉質な体は、隣に立ったメイドより頭二つは大きい長身にも関わらず、ひょろりとした貧弱な感じを微塵も与えなかった。盛り上がった肩の上には、青い目をした彫りの深い顔立ちが載り、その引き締まった顎と頬とは、乱れたままの青髪から続いた無精髭で覆われていた。彼は、私の姿を認めると、その太い腕を広げて駆け寄ってきた。私も席を立っていた。
「お帰りなさい、ザウテル! 早かったですね。どうでした、初めての大航海は?」
「ああ、それが十日ほど前にひどい嵐に襲われてな。危うく遭難しかけたよ」
「それは大変でしたね」
言いながら、我々は抱き合った。ザウテルの顔を見るのは、実に一年振りだった。
ザウテル=フィルノア=エッセンニーカ――ここカウスメディアでも、最も古く、由緒のある五大貴族はエッセンニーカ家の若き当主。今年二十八歳になるはずの彼は、査察団団長として、イスカリア海に浮かぶ大小五百の島々のうち、主要領区八十三の島を巡り、総督・司祭の管理体制を調査していたのである。船の遭難で早くに両親を亡くしたため、世間に揉まれ、苦労することの多かった彼は、悲劇の神童と呼ばれ、民衆には人気が高かった。今では、その身分の区別なく気軽に民と接する態度から、貴族らしからぬ貴族として、『青の貴公子』の名で親しまれている。『青の』というのは、ザウテルが青色の服を好んで身につけていたからであり、また同時に、それは第四階級の色でもあった。そして、私にとっての彼は、頼り甲斐のある良き兄とでもいうべき存在であった。
「……ザウテル、その髭、伸ばすつもりなのですか?」
「ああ、これか。これは我が家に伝わる航海の時の験担ぎさ。無事に帰れたら剃ることになっているんだが、まずはここに来たかったものだからな。……父君のこと、大変だったな……」
「いえ……」
肩をつかんで話す我々にゆっくりと近付くと、爺やは恭しく頭を下げた。
「ザウテル様、お久しゅうございます。お役目御苦労様でした」
「おお、ボルツ爺。元気そうで何よりだな」
「ありがとうございます。ザウテル様、せっかくおいで頂いたのに恐縮ではございますが、ただ今、ラスティリアード様はお食事中でございますれば、お話は後ほどにということに……」
爺やは、どうしても私に人参を食べさせるつもりらしかった。私は爺やに見えないように、ザウテルに向かって左目をつぶり舌を出した。幼い頃からのその暗号の意味を察して、彼は右目でウインクした。
「ラスティ、お前に話したいことが山ほどあるんだ! ここじゃ何だから、お前の部屋に行こう!」
「あっ、ザウテル様?!」
慌てて引き留めようとする爺やに構わず、ザウテルは私の肩に手を回すと、ドアに向かってグイグイと歩き始めた。
「ごちそうさま、爺や」
「……だそうだよ、ボルツ爺」
戸口で振り返ると、我々二人は、追いかけてくる爺やの前で勢いよくドアを閉めた。
「……まさか、まだ人参が駄目だったとはな……。まだまだ餓鬼だな」
「あれを食べるくらいなら、子供のままでも構いませんよ」
廊下を歩く二人の後ろからは、その子供に逃げられた爺やが、腹立ち紛れに関係のないメイドに怒鳴りつける声が聞こえてきた。立ち止まると、ザウテルは叫んだ。
「爺、年寄りの八つ当たりは体に毒だぞ!」
私は大声で笑った。




