第2節:祝福の光
開け放った窓から吹き込む風で、レースのカーテンが揺らいでいた。ザウテルは、その前に立って大きく伸びをした。
「ウーン、麗しい風だ……」
椅子に腰掛けた私は、思わず苦笑した。
「どうですか……カストゥラにキタルファの自動車工場ができたのは、ザウテルがここを発つ前だったと思いましたけど……」
私の言葉に、ザウテルは窓から身を乗り出した。北の棟の向こうには、小さく四本の煙突が見えていた。
「ああ、あれか……角馬なしで走る車とは、キタルファのタヌキ親父め、またうまい稼ぎ口を見つけたようだな」
「全くです。おかげでこっちは、壁やカーテンがすぐに煤けてしまって……そこにかけたのも、最近取り替えたばかりだというのに……」
肩をすくめる私に、彼は振り返った。
「しかしまあ、そのタヌキ親父のおかげで、我々の生活がより便利になっているのは事実なのだろう?……結局、どんなに煤にまみれたとしても、自分の生まれ故郷が一番いいものさ」
「ふうん。妙に悟ったようなことを言うんですね 」
ザウテルは部屋の中に戻ると、椅子を後ろ向きに跨いだ。
「一年も旅を続けていれば、郷愁も掻き立てられるさ」
「そうだ、それでどうでした? 初めての『観光』は?」
「おいおい、『査察』と言ってくれよ」
私がにやけながら顔を覗き込むと、彼は怒ったように眉根を寄せた。
「……よかった、とは言えないな。八十三の総督府をまわったが、半数近くの領島で、総督や司祭の悪行の噂を耳にした」
そう呟くザウテルの顔は、急に険しいものとなっていた。精悍でありながら、どことなく憎めない二枚目半の顔を持つ彼が、そんな表情をするのは珍しいことであった。
「総督にしても簡単ではないが、司祭は、よほどの確固たる証拠がなければ、その罪を裁く術がない。聖摂院に権力が集中し過ぎた結果だ。主に仕え、その使いとして、民衆の心に平和と安寧を与えるはずの聖職者が、民を苦しめて何とする?!」
ザウテルは、拳を椅子の背に叩きつけた。常に民衆を第一に考える彼らしい憤りであった。金を民衆にばらまいては、それで慈善家を気取り、自己陶酔に浸っている愚かな貴族もいたが、彼は真剣であった。そこが、私が彼を尊敬する理由の一つでもあった。
「……そんなにひどいのですか?……」
「……ザヴィヤヴァ島では、黄金色の教会が建っていた。そこの司祭が笑いながら言うんだ。その教会を建てるのに、実に五年もの歳月がかかったと……。そこまでならまだいい。確かに、ザヴィヤヴァでは金が採れるからな。だが、その教会の裏側にまわって驚いた。そこには、粗末な板切れで作られた墓標が、まるで針の山のように立っていた。教会建設工事のために亡くなった島民の墓だというんだ。彼らも主のために死ねて幸せだろうと、奴は言いやがった。冗談じゃない! 黄金は、愚かな人間の世界においてのみ価値のあるものだ。そのために、尊い人の命を犠牲にして、どうして主が喜ぶものか?! 亡くなった島民達が幸せだと?! どの口でそんな言葉が叩けるんだ、あの阿呆は?!」
言いながら、ザウテルは興奮していた。再び怒りが込み上げてきたのだろう。その様子に、私はふと不安になった。
「ザウテル、まさか、何かやってきた訳じゃあ……」
「ああ、そいつの面を一発ブン殴ってきた」
彼は事もなげに言った。
「後で聖摂院に呼び出されるかもな……」
私は閉口した。彼の正義感を阻めるものは、この世には存在しないのかも知れない。人民には人気のあるザウテルが、貴族社会からは疎まれている理由がここにあった。
「……なあ、ラスティ……」
ザウテルは、急に声の調子を落とした。
「……お前、『永久戦争』の噂は聞いているか?」
「『永久戦争』の?……」
「ああ……更に激しさを増しているらしい」
イスカリア海を渡った遥か彼方には、巨大な大陸が横たわり、そこでは二つの国家が拮抗していた。ヴァルキュリスとベル・ロニア――彼らに、主への信仰はない。彼らが信じるものはただ一つ、己れの力だけである。『忌まわしき民』として、我が国ティレリナが国交を断ってから既に百年、その間、彼らはひたすら戦いに明け暮れていた。彼らの争いを『永久戦争』と呼ぶのは、それが神説典にある『火』の使い方を間違った国、ガザルとギルガがたどった道に酷似しているからである。『知』も『理』も捨て、『火』をひたすら破壊に用いて、五百年間戦い続けたガザルとギルガの『永久戦争』は、最後には、主が放った数百頭の風の龍と、数千本の雷の矢のために、わずか五時間で終結したという。もちろん、両国の滅亡によって……
「……ゴメイサの沖で、ヴァルキュリスの遊撃要塞を見た……島のような船体に、黒い砲門が、これでもかというくらい取り付けられていた……。俺には、それがザヴィヤヴァで見た針の山のような墓標の丘に見えたんだ。愚かな人間を地獄へと誘う、禍々しい魔王の使者のように……。教会の神聖さは既に形骸と化し、権力だけが一人歩きして、民衆の上にドッカリと腰を据えている。堕落した司祭が、民に懺悔を強いる世の中だ……終末の日が近いのかも知れないな。……『永久戦争』はその前兆であり、最大の警鐘なのでは……お前はそう思わないか?……」
彼は、冗談とも本気ともつかない声で淡々と語った。
一陣の風が吹き込んで、私の首筋を撫でていった。その時の身震いを、私は恐怖だとは思いたくなかった。
「……だが、我々は、まだ見捨てられた訳ではない」
ザウテルは立ち上がった。
「……ラスティ、これから話すことは他言無用だ。できるな?」
「な、何ですか、急に……」
戸惑う私をよそに、周囲に人気のないことを確かめた彼は、近くの長椅子に腰を下ろした。
「……帰港の途中で嵐に遭ったことは話したよな。……あれは半端な嵐じゃなかった。『黒鱗』並みの暴風が吹き荒れ、山のような大波が、俺の乗った「ガルディラ」号に襲いかかった。船員達は、『白鱗』がやってきたと喚いていた。知ってるだろう? 海底に潜み、上を行く船を丸呑みにするという伝説の怪物。船乗りは、今でもその存在を信じているらしいがな。……とにかく、それはひどい嵐だった。俺ももう駄目かと思ったよ。しかし、ガルディラ号は持ちこたえた。さすがはダイロンバールが造った船だ。……そしてその時、俺は見たんだ……」
ザウテルは、そこで一旦言葉を区切った。興味をそそられた私は身を乗り出した。
「見たって、何をですか?」
「……何だと思う?」
彼はそう言うと腰を上げ、窓際へと立った。その意味ありげな背中に、私は眉をひそめた。
「一体何を見たんですか? 教えて下さい」
天を仰いだザウテルは、グイと顎を突き出した。
「……あの、雲の天蓋の向こう側をさ……」
?! 私は自分の耳を疑った。馬鹿な?! ザウテルは私を担ごうとしているのだ!
「……冗談、ですよね?」
「いいや、本当だ。本当に、俺は天蓋の向こう側を見た……」
背を向けたザウテルの声は真剣だった。それでも、私は信じられなかった。グイと肩を引っ張ってこっちを向かせたなら、彼は口の端を吊り上げながら、『ほうら、引っ掛かった』と言うに違いない。そんな考えを拭い去ることができずに、私は彼へと近付いた。
「……嵐が去り、穏やかになった海の上で、俺は見たんだ。厚く垂れ込めた雲の天蓋が、静かにゆっくりと左右に裂けるのを……俺は、主の世界を垣間見た!」
彼の言葉に、私は立ち竦んだ。心を覆った猜疑心の殻を、急速に頭をもたげた好奇心が打ち破っていた。
「……本当、なんですね?」
「ああ、確かに俺は見た。……俺自身信じられなかったが、それでもやはり、俺は見たんだ!」
何かを言おうとして口を開けた私だったが、言葉は出て来なかった。口の中が乾いてしまっていた。舌が痺れたようになり、言うことを聞かなかった。そしてそれ以上に、私の思考は混乱していた。何を言うべきか? 今、最も知りたい、最も簡単な言葉を、私は喉の奥から何とか絞り出した。
「……で、どうでした?……」
口にすると、それは何とも平凡な、馬鹿にしているとさえ思えるような響きを持っていた。ザウテルは振り返った。
「白い閃光が俺達の目を灼いた! そこは、光り輝く世界だった!……あ、いや、そうじゃない。世界は光そのものだった!……俺達は、天蓋から差し込む神々しいばかりの光の中にいた!」
彼の青い瞳は、感動で潤んでいた。
「……それは、時間にすればほんの五分程度だったが、俺達は、天蓋が口を閉じた後も呆然と甲板に立ち尽くしていた。……誰もが、自らのその経験を夢ではないかと 疑ったが、しかし、事実は変えようがなかった! 確かに俺達は見たんだ!」
再び風が吹き抜けていった。
二人は立ち尽くしたまま、しばらく口をきかなかった。静寂が、二人の間を過ぎていった。
「俺は、自分自身に自惚れるつもりはない」
先に口を開いたのはザウテルだった。
「……俺は立派な人間ではない。民衆は、俺のことを『青の貴公子』と呼んで慕っているが、俺は、彼らのために家の名までを捨てることはできない。しかし、他の貴族が陰で言っているように、俺は礼節を弁えない、エッセンニーカ家始まって以来の放蕩息子でもある。俺は、富と権力とを批判しながら、それに必死でしがみついている愚か者だ」
「そんなことはありませんよ、ザウテル」
「いや、そうだ。……だが、考えれば考えるほど、俺はある一つの結論に辿り着いてしまうんだ。俺の目の前で、雲の天蓋が開いたのは何故か? あれほどの嵐の中から、俺が生還できたのは何故か?……なあラスティ、俺は、俺が見たあの光は、神説典の言う『祝福の光』であるような気がして仕方がないんだ……」
「『祝福の光』?! あのアンドリューが浴びたという?!……」
「ああ、聖人アンドリューが主から受けた、あの聖なる光だ……」
ザウテルは、再び私に背を向けた。
「馬鹿げているだろう? 別に笑ってくれても構わない。だが、俺にはどうしても、あの光が、主が俺に示した何らかの啓示であるように思えるんだ。世の中が終末の日へと近付いていく中、それを食い止めるために、主は俺に希望を託されたのではないかと……。主は、俺が持つ宿命に気付いておられるのかも知れない……」
私は、言葉を返すことができなかった。私は主など信じてはいなかった。そのことを、ザウテルは知っていただろうか?
不意にザウテルは振り返った。
「済まない、馬鹿なことを言った。やはり人に話すべきじゃなかった。忘れてくれ、愚かな考えだ……」
「そんなことはありませんよ……」
慰めたつもりだったが、私のその声には力がなかった。
ザウテルは部屋の中に戻ると、椅子を戻し、その上にドッカリと腰を下ろした。
「いいんだ……しかしラスティ、お前もいずれは、お前の持つ宿命を知ることになる。それだけは言っておくよ」
「僕の持つ宿命?……」
「なあに、ものの例えさ。それより、大切なのはこれからだ」
ザウテルは、それ以上『宿命』について語る気はないようであった。
「……嵐が去り、天蓋が閉ざされた後の海の波間に、俺達は漂うものを見つけた。それは板切れにしがみついた人間だった。急いで引き上げた俺達は驚いたよ。その人は、長い黒髪が美しい若い女性だった。そしてその蒼ざめた額には、Tの字に似た刺青が彫ってあったんだ」
「額に……刺青?……」
私は眉をひそめた。ザウテルの言っていることが、よく理解できなかった。
彼は囁くように言った。
「わからないか?……異教徒だよ。海の向こうの大国、ベル・ロニアの国民だ……」
「ベル・ロニアの?!」
私は思わず声を張り上げた。
「シッ! 声がデカい!」
慌ててザウテルは辺りを見回した。私は肩をすくめた。
屋敷の中は、至って静かであった。
「……どうやら、『永久戦争』からの逃亡者らしいんだ」
「『永久戦争』からの……」
「ああ。仲間達と船で亡命しようとしたらしいんだが、やはり海の龍には勝てずに……彼女だけが奇蹟的に助かった訳だ」
「……そうですか、ベル・ロニアの人を……それで、その逃亡者というのは?」
私が尋ねると、ザウテルはその青い瞳でじっと私を見つめた。
「……まさか、このティレリナに連れてきたんじゃあ?!……」
驚く私の顔を見て、彼は苦笑した。
「……ああ、そうだ。……この屋敷の庭に停めた馬車の中にいる……」
「どうしてまた?!」
「どうしてったって仕方ないだろう。そのまま海に捨ててくる訳にもいかんし……」
「それはそうですが……もし監察局に見つかりでもしたら……」
ザウテルは息をついた。
「だから見つからないようにするさ。早いうちにな……」
「しかし……」
言おうとする私を ザウテルは制した。
「例え信ずるものは違っても、人の命の尊さに変わりはない。そうだろう?……それに俺には、天が裂けたことと彼女を助けたことが、あながち無関係ではないようにさえ思えるんだ……」
彼の青き瞳は、遥か遠くに霞む確かなるものを見つめているようであった。
……主が気付かせようとしている彼の宿命か……
私は考えていた。私は、主についてザウテルと話し合ったことがなかったのではないだろうか。幼い頃友達に謗られて以来、ガリオネッティ博士と会うまで、私は主のことを口には出さなかった。確かそうだ。主の存在を否定しながら、それでも私は安息日には教会に行き、食事の前には祈りも捧げた。私は、それが非常に潔くないことのように思えてきていた。理由はわかっている。ザウテルだった。彼の思いがけない発言が、私の心を動揺させていた。私も言わなくては! そんな衝動が心に衝き上げた。それが、真実を告白した彼に対する、誠実さの証しであるような考えに、私の心はすっかり捕らわ れていた。彼は私を非難するかも知れない。しかし、それでもいいではないか。それは私の偽らざる考えなのであり、夢でもあるのだ。彼ならわかってくれるかも知れない――そんな思いが心のどこかにあったのかも知れなかった。……それが大きな過ちであることに、私は気付くはずもなかった。
私は、ザウテルの替わりに窓際へと立った。
「……ザウテル、実は、僕にも大切な話があるんですよ……」
私の金色の前髪をそよがせる風は、あくまでも穏やかだった。




