第3節:異教徒
薔薇の花が美しい庭の前には、黒塗りの車体に、黄金色の剣と翼のレリーフが施されたエッセンニーカ家の公用馬車が停まっていた。
「いいんですか、庁舎に出向かなくて? 報告があるんでしょう?」
車寄せのところで私は言ったが、ザウテルは全く気にかけていなかった。
「別にいいじゃないか。予定では明日着くことになってるんだから……」
主の存在の否定よりも、昇空機のことに、彼は予想以上に驚いていた。そして、今日もこれから講義だと言うと、自分も連れていけと言って聞かなかったのである。
エッセンニーカ家の御者ランドが、馬車の扉を開きながら恭しく頭を下げた。
「これはラスティリアード様、お久しゅうございます」
ああ、と答えながら、私はその馬車の中を覗き込んだ。そこには、ザウテルの言う異教徒が乗っているはずだった。
彼女は私に気付いた。白と青の対比が鮮やかな水兵服に、少し大きかったのだろう、赤いスカーフで腰を縛ったベル・ロニアの女性は、漆黒の瞳でじっとわたしを見つめた。その神秘的な深い輝きに、私はハッとした。
「彼は大丈夫。ラスティリアード=ヴァリス=クロネッカ、俺の親友だ」
ザウテルが言うと、彼女は顔の前で両手を合わせた。
「初めまして。イシス=ラムと申します。どうぞよろしく……」
「いや、こちらこそよろしく。ミス・ラム」
慌てて私が言ったのを聞いて、ザウテルは笑った。
「ラスティ、礼を払ったつもりだろうが、イシスが彼女の苗字だ」
「あ、そうなのか……失礼、ミス・イシス」
彼女は微笑んだ。
「構いません、どうぞラムとお呼び下さい」
落ち着いた慇懃な話しぶりであった。それは、この国ティレリナにおける教養ある女性と少しも変わることがなかった。ただ一つ、額に刻まれたT字型の刺青を除いては――
* * *
「……我が国ベル・ロニアは、実に百年の昔から隣国ヴァルキュリスと争い続けてきました……」
フィルソルフィアナ図書館に向かう馬車の中で、我々は異国の女性ラムの話を聞いていた。
「……始めは些細な境界線の問題だったそうです。しかし、やがてそれに民族的、宗教的な違いが加わって……今では、その戦いの意義さえ見失われてしまいました。我々は、ただ戦うために戦っているのです……」
彼女は眉根を寄せた。悲しみの色に満ちた瞳が、やつれた頬を一層痛々しく感じさせた。
「……向こうにも、信仰はあるのですか?……」
ためらいがちに私は尋ねた。彼女は苦笑した。
「我々にも信ずるものはあります。我々を導かれるものは、ファリオリア、『輝ける方々』という意味です。その方達は万物のすべてに宿っておられます。石には石の神が、水には水の神が、花には花の神が……。この世は、無数の神々が織り成す極めて精緻な芸術作品なのです。そして、そのすべてを治める神の王が、アルフル・サマカー、『大いなる秩序』と呼ばれるお方でした……」
そこまで言って、ラムは車窓の外を流れる街の風景に自をやった。
「……でした、というのは? どうして過去形で話すんです?」
ザウテルが尋ねた。彼女は正面に座った我々を見据えた。漆黒の瞳が、蒼き光を湛えてかすかに潤んだ。
「……今のベル・ロニアに、あの方はおられません。今や我が国を支配しているのは、邪神『乱れ』とその下僕、『闘争』や『殺戮』や『死』達です。『正義』や『義憤』はおろか、『発言』までが我々を残して去っていかれました……」
一度言葉を区切ると、ラムは込み上げる想いに堪えるように目を閉じた。
「……私は、サダルスウドというところの地下工廠で、新材料の開発に従事していました。しかし、私は意義のない戦いに加担している自分が許せませんでした。国家のやり方に、組織を作って反抗する者達もいましたが、力に力で対抗しては、良きものは何も生まれません。私は、私と同じように考える同志達とともに、国を捨てる決意をしました。私達は夜の闇に紛れて工廠を抜け出し、アルゲンテナルという港町まで走りました。そこで船を手に入れ、海へと漕ぎ出したのです。……しかし、結局助かったのは……一私一人だけでした……」
ラムは顔を伏せた。重苦しい沈黙が車内を満たした。
「……しかし、あの海の龍を乗り越える危険を払ってまで……」
私は呟くように言った。私には、彼女の言うような、民の意志には関係なく戦いに明け暮れるベル・ロニアという国の様子がうまく想像できなかった。いや、戦いを避けるために国を捨てたという彼女の存在すら、私には驚きだったかも知れない。私がベル・ロニアについて頭に思い描いていたもの、それは、女から子供に至るまですべてが戦士だった、神説典の中のガザルやギルガのような一大戦闘国家であった。しかし、今私の目の前に座っているその国の女性は、戦士にはほど遠い、憂いに満ちた澄んだ瞳をしていた。
ラムは顔を上げた。
「……海の龍?……ああ、ベルエシス海を横切る大海流のことですね……はい。ヴァルキュリスに亡命したところで、状況は何も変わりはしないでしょう。また戦争の道具として扱われるのです。それならば、例え大海流に翻弄されようとも、争いのない国へ――そう思ったのです。ここティレリナは、神のお導きのもとに、全国民が平和に暮らす幸福の国だと聞いていましたから……」
「ティレリナが? 」
私はザウテルと顔を見合わせた。この国はそんな言われ方をされているのか……
不意に馬車が止まった。サンロシアス通りの角であった。図書館までにはまだ距離がある。
「旦那様、教皇の影向です」
御者の知らせに、ザウテルはうんざりしたように肩をすくめた。
「やれやれ、戻る早々これか……」
彼は扉を開いた。
「ラムさん。すみませんが、馬車から降りてもらえませんか? 教皇が我々の前を通るようです」
「はい?」
事態がよく飲み込めずに、ラムは聞き返した。
「教皇は、主が人間の姿を借りて地上に降臨したもの、その前を横切ることは許されていないのです」
私が説明を加えた。彼女の黒い眉がひそめられるのがわかって、私とザウテルは苦笑を浮かべた互いの顔を見た。
「愚かしい話とは思いますが、この国では法によってそう定められているのです。教皇や大司教の行列の前では、いかなる者も地面に跪いてその通過を待たなくてはなりません。どうか我慢なさって下さい」
「そんな、我慢だなんて……わかりました」
私の言葉に、彼女は慌てて笑顔を作った。
イオ・テリオ通りとサンロシアス通りが交差する十字路には、赤い布飾りの付いた槍を手にした黒衣の僧兵が数人立っていた。それが教皇影向の合図であった。交通は既に遮断され、道には自動車や馬車、それに多くの民衆が溢れていた。その様々な身分の人々に混じって、私達は通りの石畳の上に跪いた。
やがて、教皇の一団を先導する二台の赤い自動車がやってきた。その後ろに、純白の角馬八頭に引かれたきらびやかな馬車が続いた。真紅の車体には、メッキではない本物の金と銀とで絢爛たるレリーフが施されていた。馬車だけではない。美しい毛並みの角馬の馬具にまで、数々の宝玉が埋め込まれている。あの馬車一式で、一体何人の貧しき人々が厳しい冬を凍えずに過ごせるだろう。影向に出会う度に思うそのことを、私はまた考えた。
偉大な主がそれを思わないはずはない。教皇が現し世における主であったのは、遥か昔の話であった。しかし、主の形骸に対してでも、我々は跪かなくてはならない。神の子たる聖摂院に背くことは、法が許さないからだ。この国の最大の過ちは、過ちを正せないところにあるのかも知れない。
突然、馬車の窓に向かって石が投げられた。地面に伏した群衆を蹴散らすよう にして、一人の少年が逃げていった。ボサボサの髪とボロボロの服は、恐らく貧民街で暮らしている孤児か何かなのだろう。追いかける僧兵に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせて、少年は角の小路に消えた。
「ラムさん……」
椿事にざわめく人々の中で、ザウテルは呟くように言った。
「これがこの国の現実だ。神の名を語る強大な権力が、世の中に貧富の差を生み、正義の意味をねじ曲げている。そんなうわべだけの平和でも、あなたは幸福だと思うだろうか?」
しかし、顔を上げた彼女の表情は意外に明るかった。
「生きているということは、何にも勝る幸福ではないでしょうか? 生きていればこそ、私達は幸せを手に入れることができるのですから……」
「そうですか。ならばいいのですが……」
ザウテルは息をついた。
「しかし、この国では、あなたが思うほど死は遠い存在ではないかも知れませんよ……」
その声音には、錆を舐めたような苦い響きが感じられた。
* * *
鉄工所の前で馬車を降りた我々は、人気のないミルリアナの並木道を歩いていた。ラムも一緒であった。通りの馬車に残しておくのは不安だとザウテルが言ったからだが、私にはこっちの方がよほど不安だった。
ラムは、初めてゆっくり目にする異国の風景に心を奪われているようであった。恐らく、港に着いてすぐ馬車の中に押し込まれたのだろう。風にざわめくミルリアナの枝を見上げる彼女の瞳は、生き生きと輝いて見えた。それは、本来の二十五歳の女性が持っている瑞々しい生のきらめきであった。……我々には平凡に見えるこの世界も、彼女の目には、どれほどの価値あるものとして映っているのだろうか?……
「……ガリオネッティ博士といえば、確か熱機関の大変な権威だったように記憶しているが……」
ザウテルは髭をさすった。
「ええ。五年前に引退して、今ではここの図書館の館長をなさっています」
並木の向こうに見えてきた図書館の館舎に、ザウテルは足を止めた。
「……なるほど。いかにも隠者の館という感じだな……」
図書館の入口ではクリスが待っていた。
「おはようございます、公爵様。今日はお休みになられるのかと思っていました」
私の姿を認めて、彼女は駆け寄ってきた。私はギクリとした。ラムのことがあったからである。
「いや、ちょっと『友遠方より来たる』でね」
私の隣りでザウテルが頭を下げると、クリスは驚いて跳び下がった。
「エッセンニーカ公爵様?!……査察からお戻りになっておられたので?!」
「ええ、今朝港に着いたばかりです。ええと?……」
「ああ、紹介します。こちら、クリス=ミルスプリングス。クリス、こちらは……もうわかっているよね。青の貴公子様だ。それから……」
私は一瞬ためらった。
「……こちらは、彼の友人のラム=イシス……」
ラムは、今度は手を合わせることはせず、黙って頭を下げてくれた。クリスは彼女の額の刺青に気付いたはずだったが、それを顔には出さなかった。
「初めまして、ミス・ミルスプリングス。どうやら友人がお世話になっているようで……」
ザウテルが言うと、クリスは慌てて手を振った。
「そんな、こちらの方こそ!……あの、お目にかかれて光栄です、エッセンニーカ公爵様」
しきりに恐縮する彼女に、私は声をかけた。
「クリス、実はこのザウテルが、どうしても博士の講義を聞きたいと言っているんだ。受けさせていいものかどうか、博士に尋ねてきてくれないか?」
「お願いします」
ザウテルが付け加えた。
「あの……それが……館長はおられないんです……」
「博士が、いない?」
ええ、と言って、クリスはザウテルとラムにチラリと目をやった。察した私は、図書館の入口へとクリスを連れていった。
声が届かないだけの距離をとったことを確かめてから、クリスは言った。
「……館長は、昇空機の実験場所の下見に出かけられました。私も、公爵様がおいでになったら一緒に来るようにと……」
「実験場所?」
初耳であった。いつの間に……
「で、その場所というのは?」
「はい……それが……」
クリスは声のトーンを落とした。
「……不浄の地なんです……」
不浄の地?!……これには私も驚かされた。
「……どうしてまた、そんなところに?……」
彼女に顔を寄せると、私は囁いた。
「……あそこでしたら、人目につくこともありませんし……」
それはそうだが……よりによって不浄の地とは……
私はザウテルとラムを振り返った。ラムはともかく、ザウテルは何と言うだろう?……主から祝福の光を受けたと考えている彼のことだ、不浄の地へ行くなど、とんでもないことであるに違いなかった。
「……どうしましょう?……」
心配そうにクリスが尋ねた。私は唸った。……適当な理由をつけて帰ってもらおうか?
……いや、しかし!……
私は、ゆっくりとザウテルのところへ戻った。クリスが、背後から不安な視線を投げかけるのを、私は感じていた。
「……ザウテル、博士は実験場所の下見に出かけられたそうです。どうしますか?」
息を整えてから私は言った。ザウテルは眉を動かした。
「実験場所? 遠いのか?」
「……ここからだと一オルクリルほどですが……」
彼は笑った。
「馬車なら一時間で着く。よし、そこへ行こうじゃないか!」
「……ただ、場所に問題があるんです……」
俯きがちに私は言った。
「何だ、馬車では行けないようなところか?」
「いえ……」
そこで、私は息をついた。彼はどんな顔をするだろうか?……
「……実験場所というのは、不浄の地なんです」
ザウテルは息を呑んだ。引き締まった精悍な顔立ちに、蒼い陰が落ちた。隣にいたラムは、その様子を不思議そうな面持ちで見つめていた。
しばらくの沈黙の後、やがてザウテルが言葉を発した時、しかし、その声音は意外なほど落ち着いていた。
「……で、お前は行くつもりなのか?……」
「……え?……ええ……」
半ば唖然としながら、私は答えた。しかし、本当に私を驚かせたのは、次の一言だった。
「……そうか。だったら俺も行こう……」




