第21節:白い闇を抜けて
銀の翼の輝きは消えなかった。その光は、何かに引き寄せられるように、天の一点を指していた。その先には、雁の大群があった。
私は眉をひそめた。
「あれに続けというのか?……」
天を翔ける『銀刃』は、再び攻撃の態勢に入っていた。
死に切れなかった哀れな獲物に、とどめの一撃を加えるつもりであった。もう一度あれを食らったら、ひとたまりもない!……
だが、容赦のない風の龍は、血のような赤い瞳に憎悪をたぎらせて、リウヴィル号へと肉薄した。
龍の叫びが天に轟いた。
しかし、それは勝利の咆哮ではなく、苦悶の絶叫であった。
整然と隊列を組んだ雁の一群が、一本の巨大な槍と化して、彼の右目を突いたのであった。痛みにのたうつ『銀刃』に、雁達は弾き飛ばされた。
何だ?!……何故あの鳥達は?!……
別の一隊が、今度は彼の左目を狙った。勇敢な体当たりで、雁達は左目をも潰すことに成功した。
苦しみに悶え、怒り狂った『銀刃』は、目の見えぬまま辺りを暴れ回った。天蓋の底が大きく荒れた。
そうか……雁達は天に帰ろうとしているのだ……
神節典は言う。彼らはかつて、主の使いであったと――
『銀の翼』が指し示すのは、天への道なのか?!
導かれるままに、リウヴィル号は雲の天蓋へと飛び込んだ!
一気に視界は失われた。
雨と風とが、風防の割れた操翼席へとなだれ込んだ。
目を開けていることができなかった。
それでも、私は操翼桿を引き続けた。
上へ……上へ……ただひたすら上へ……
遠雷の中、雁達の鳴き声が聞こえた。
辺りを覆う白い嵐の中、私はふとあの夢を思い返していた。
純白の翼を背に、私を天へと誘ったクリス……現の彼女の背中には、その痕跡を残すものは何もない。しかし、それでも彼女は導いてくれる。
『思え、されば成らん』――銀の翼が天空への到達の手形なら、『ミロスの血涙』は夢を叶える強き意志の具象であり、大地への生還の切符であった。
クリス――神節典の中の主ではなく、自らの思う約束事を信じる少女。『知』の素晴らしさを知り、それを万民に伝えたいと願う少女。私の喜びに共に笑い、私の悲しみに共に涙する少女。そして、私が――
雲の天蓋は、まるで永遠に続くかのようであった。
もはや、自分が昇っているのか、堕ちているのかもわからなかった。風雨と白い闇がすべての感覚を麻痺させていた。
不意に、辺りから音が消失した。
激しく顔を打つ雨の感触もなくなった。
突如として、五感が外界から遮断されたように、あらゆる刺激が失せた。そう思った。
とうとう着いたのか?……それとも、死んでしまったのだろうか?……
いや、しっかりと脈打つ音が聞こえた。
それは、私の胸の鼓動であった。そして、大気を震わせるプロペラ音……
瞼を通しても、強い光が感じられた。
これが、ザウテルの言っていた祝福の光か……
目を開くのが怖かった。私が十数年間思い続けた世界に、ついに辿り着くことができたというのに、私はそれを見るのが怖かったのである。それは、未知への恐怖であった。
私は大きく息をした。僅かずつ、瞼を開いた。
途端に、瞳の中には光が溢れた。白い輝きが眼底を灼き尽くした。
私は慌てて顔を伏せた。まぶたの裏側では、銀の花びらが乱舞していた。
もう一度、私は目を開いた。今度は俯いたままで――
血と雨に濡れた足が見えた。床に散らばったガラスの破片がキラキラと輝いていた。私はゆっくりと顔を上げた。計器盤が目に入り、わずかに残った鋼銀製の外殻が光を反射するのが見えた。そして、私を守った二つの家宝。そしてその向こうに――
青――
いや――
そこには何もなかった。何も――
ただ、どこまでも澄み渡る、真っ青な真空が広がっていた。
私は辺りを見回した。
そこは、蒼茫たる大空間であった。
青い風がすべてを支配する、清澄にして静寂なる世界であった。
眼下には、遥かな地平まで続く、綿菓子のような雲の天蓋が白く輝いていた。そして、頭上には、鋭い光芒を放つ光の球が浮かんでいる。
蒼穹――雲海――光球――
そこには、神節典が言うような主の宮殿はなかった。しかし、それでも私にはわかった。
ここは、聖域であると――
汚れなき深き青に、私の目は痛んだ。厳粛なる沈黙に、私の耳は痛んだ。
そして何よりも、この世界の存在そのものに、私の心は痛んでいた。
雲の天蓋が覆い隠していたのは、主が住む世界ではなかった。
青い空――それは、我々の心を揺さぶる、神聖なる美しさだったのである。
ひたすらに青い大気の中を、リウヴィル号は漂うように飛んでいた。傷付いた鋼の翼が、その麗しき色彩を映していた。
全身が震えた。
果てしなく広がる青い世界がにじんだ。涙がとめどなく溢れ出していた。
訳もわからず、私はただ泣いた。
そうすることで、心が浄化されていくような気がした。
だが、本当の奇蹟は、その後に起こった。
雁が飛んでいた。
白い雲海の上を、艶やかな羽根に眩い光を映して、彼らは飛んでいた。
黒褐色の背が、銀色に輝いた。その軌跡が、無垢の白雲に銀色の筋を引いた。残像?……
蝶の翅から落ちる鱗粉のように、羽ばたく雁の翼からは光の粒子が生み出されていった。
グラフィアス?!……
長く美しい尾を持った、銀色に輝く鳥!
これが、伝説の聖鳥か!
綿菓子に振り撒かれた銀の砂は、ゆっくりと舞い落ちながら、柔らかな虹色の光を放った。
それはまさに、奇蹟を呼ぶ聖なる光であった。
地表を覆っていた雲の天蓋が、銀色の軌跡に沿って静かに裂け始めたのである!
天の蓋は次々に細かく割れ、小さくちぎれ、光球の輝きに融ける雪のように、風の中に消え去っていった。
閉ざされていた大地が現れた。
ハダル山の山頂が、不浄の地の砂丘が、カウスメディアの街並みが、イスカリアの海原が――
青い天は、すべての人々の頭上に開けた。
何ということだろう……
何ということだろう!
私は声を上げて泣いた。
胸に込み上げる想いは、すべて涙に変わっていった。
箱庭のような大地に、聖なる青さが降り注いでいる。
「……ああ、神よ……」
我を忘れて、私は頭上の光球を仰いだ――




