第20節:「今こそ我が問いに答えよ!」
私は、反射的に操翼桿を右に倒していた。
機体が激しく揺れた。左翼の先端のすぐ向こうに、強烈な風の層があった。気流の激しい乱れが、従翼から操翼桿を通して私の体に伝わった。
馬鹿な?! 風の龍は眠ったのではないのか?!
氷の結晶が激しく風防を打った。翼の上はうっすらと白く曇っている。霜が下りているのだ。私は背筋に寒気を覚えた。
『銀刃』か?!
風の層は通り過ぎた。どうする?!
龍の咆哮が轟いた。後ろに抜けた極低温の気流の渦は、右側へと回り込んで、鋼の鶏に噛み付かんとしていた。その先端に光る赤い眼が、絶好の獲物を鋭く睨んだ。何故だ?! 何故そう見える?! 風の龍は、単なる大気の流れのはずだ?!
しかし、リウヴィル号に迫る風の塊は、明らかに破壊の意志を示していた。先端が大きく上下に裂け、主の領域を侵そうとする愚か者を、その腹の中へ飲み込むつもりであった。
私は辛くもその顎を逃れた。右の補助傾翼の先端がちぎれ飛んだ。だが、『銀刃』はそれで諦める気は全くないようであった。
長くうねる体が、逃げ道を塞ぐように、リウヴィル号の周りに渦を巻き始めた。剥がれ落ちる鱗が、雹となって降り注いだ。
私は操翼桿を握り直した。
もはや後戻りはできない。となれば……進むのみ!
ペダルを踏み込んだ。エンジンが果敢なる稔りを上げた。
それは、鶏の鬨の声であった。人間の雄叫びであった。『知』の咆哮であった!
純粋な主の技ならば、風の龍如きに負けるはずはない! 主の単なる下僕に敗れるはずはない! 人間は、その裡に主の力を秘めているのだ!
真正面から、『銀刃』の獰猛な瞳が近付いた。私はペダルから足を離さなかった。
「さあ来るがいい、風の魔物め!」
リウヴィル号は、彼の口の中へと飛び込んだ。
鋼銀製の機体が悲鳴を上げた。
巌のような重さが、一気に操翼桿にかかった。
外殻が、糊で貼り合わせた紙のように、次々と剥がれ、ひしゃげ、裂けた。強靭な骨格が限界までたわみ、超硬材のボルトが何本か弾け飛んだ。
大波に揉まれる木の葉でも、これほどの力を想像することはできなかっただろう。氷のつぶてに混じって、剥離した外殻と、吹き飛んだボルトの頭が視界を覆った。ガラスの風防が打ち砕かれた。
飛び散った破片が、強烈な風に乗って矢のように私を襲った。
一際大きな、美しく透き通った断片が、私の右肩に深々と突き刺さった。
鋭い痛みと、壁と化した風圧、肌を切り裂くような凍気に、私は思わず操翼桿を離してしまっていた。
勇猛な鋼の鶏は、深手を負ってその戦う意志を失った――
耳元で、風を切る音が聞こえていた。
堕ちている……ぼんやりとわかった。
体中が痛んだ。操翼席には、ガラスの破片と私の血が飛び散っていた。辛うじて操翼桿を掴んでいる左手も血で滑った。右腕は全く動かなかった。
プロペラは何とか回っていた。しかし、私もリウヴィル号も満身創痍であった。機体を引き起こすだけの力は、もう私にはなかった。
私は死ぬのか……
やはり、我々の『知』の力は、主の地平を目指すにはまだまだ遠く及ばないのか……
目の前で、赤いものが風に躍っていた。
血か?……
いや、それは、私が首から下げた『ミロスの血涙』であった。
そうだ! 彼女にこれを返さなくては! 私は彼女とそう約束したのだから!
私は、シートに打ち付けられていた右肩を強引に引き抜いた。もはや痛みはなかった。震える右手を、私は操翼桿に伸ばした。まるで他人の手を操るように、右腕は言うことを聞かなかった。痺れる指先は、桿に触れてもほとんどそれを感じなかった。
私は、左手で右手に桿を握らせた。
そして、持てる力のすべてで、私は操翼桿を引いた。
だが――目の前には、依然として砂の海原が広がっていた。
リウヴィル号は、もはや重力の思うがままであった。
駄目だ! 力が足りない!……
ふと、私は機首を見つめた。外殻があちこち剥ぎ取られ、骨格が剥き出しになっている中でも、一対の銀の翼はしっかりと持ち堪えていた。家宝か……
私は、心のどこかでその謂れを信じていたのかも知れない。だからこそ、私はそれを取り付けたのだ……
「銀の翼よ!」
私は叫んだ。
「銀の翼よ! お前に秘めたる力があるのなら、今こそ我が問いに答えよ! 私は『良き者』なのか?! それとも『悪しき者』なのか?! どちらだ!」
――リウヴィル号は落下を続けていた。
息をつくと、私は笑った。
「……これが答えか……」
私は目を閉じた。
恐怖はなかった。やれることはすべてやった。夢はついに成らなかったが、思うままに生きることができただけでも、私は幸せだろう。かけがえのない人々とも出会えた。フィルソルフィアナ図書館を訪れてからの八ヶ月、その間には、私の一生分の価値があった。悔いはない――
……ごめん、クリス……
その時だった。
突然、周囲がざわめいた。鳥の羽音だった。
一体どこから現れたのだろう、雁の大群がリウヴィル号の周りを飛んでいた。
天に向かって――
驚くことは更に起こった。
まるで、仲間の来訪に呼応するかのように、機首につけた銀の翼が輝き出したのだ! 全く熱を持たない、まさに虹のような色彩を放つ翼は、目を瞠る私の前で、眠りから目覚めたように体を震わした。大気が捻った。
光度を増した銀の翼は、次の瞬間、大きく羽ばたいた――そう、羽ばたいた!
リウヴィル号は一気に姿勢を立て直した。
視界に雲の天蓋が入った。
そうか……
私は悟った。
これが……お前の出した答えか……
私はペダルを踏み込んでいた。
私は……私は……
それは、喜びではない。自信でもない。それは、決意であった。
「いざ、天へ!」
鋼の鶏には、再び命の火が点った。




