第18節:守護神と紅閃
朱の胴衣に金の甲冑の近衛軍は、助走路と憧憬の丘を迂回して、僧兵軍の前へと迫った。先頭に立ったのは、以前王の言葉を伝えにきたマユーリ=アマルティア第二将位であった。
「何故近衛府が動いたのだ?!」
歯軋りするマイローウィッツ卿を、ザウテルは鋭く睨んだ。
「クロネッカとガリオネッティの死刑執行日まではあと五日ある。それまでは、何人も彼らの自由を束縛してはならぬというのが、法廷の下した判決だ。裁きの剣は絶対! これを犯したものは、例え監察局であっても厳しく罰すべし!……これが王の勅命だ!」
近衛兵達の駆る角馬は、ザウテルの後ろに隊列を成した。
肩から大きく張り出した金の鎧をきらめかせながら、アマルティア将位は進み出た。
「シントール卿並びにマイローウィッツ卿、貴公らは二つの罪を犯している。一つは、法廷の裁きを無視し、逃亡以外の被疑者の行動に下渉せんとしたこと。今一つは、聖摂院の法を犯し、不浄の地へと足を踏み入れたことだ」
氷の裁断者は、怒りに醜く顔を歪めた。
「今はそんなことを言っている場合ではない! 相手は世界を崩壊させんとする大魔王ダイリット・サールだ! 人の法など適用するものか?!」
アマルティア将位は眉をひそめた。
「これは異なことを……『法とは主がお定めになりしもの、いついかなる時においても絶対である』……法廷での貴公のこの言葉が、貴公を氷の裁断者たらしめていたのではないのか?」
「ならば貴殿らはどうなのだ?! 貴殿らとて、不浄の地に入っている! 法を犯しているではないか!」
マイローウィッツ卿はかみつくように叫んだ。
しかし、アマルティア将位は、涼やかな表情で腰から一枚の書状を取り出した。
「ここに教皇の認可がある。教皇は生ける法、我々には、主の御加護があるのだ」
卿は血走った目を見開いた。
「馬鹿な! 教皇の認可だとォ?!……」
ザウテルがしたり顔で頷いた。
「王に掛け合って頂いたのだ。真のダイリット・サールの出現が現実のものとなれば、聖摂院の長である教皇は死を免れ得ないだろうと……。教皇は喜んで書状にサインを下さった」
女性将位は哀れむようなまなざしを投げかけた。
「貴公らは、蜥蜴のしっぽにされたのだ……」
「……駄目だ。もう、終わりだ……」
色をなくした顔で、鎧牛の上の大司祭はガックリと肩を落とした。
「おのれ、あの老いぼれめ!」
マイローウィッツ卿は兜を地面に叩きつけた。
「誰の!……誰のお陰で今の椅子に座れると思っているのだ?!」
銀髪が振り乱された。大声で喚き散らすその姿に、もはや氷の裁断者の面影はなかった。
「まあ、そういうことだ。貴様は知っていたのだろう? 『何人も、彼の訪れを妨げることはできない』……ダイリット・サールが降臨するまで、そこでおとなしく待っていることだな」
地面から槍を引き抜くと、彼は凱旋する英雄のように悠然と取って返した。
昇空機の周りに呆然と立ち尽くしていた作業員達は、やがて歓喜の声を上げた。
「やったぜ! 聖摂院を黙らせちまった!」
「さすがは青の貴公子様だ!」
私は操翼席から飛び降りて、彼の元へ駆け寄った。
「ザウテル!」
馬上の彼は白い歯を見せた。
「どうだ? 少しは役に立ったか?」
「ザウテル……」
それ以上、言葉が見つからなかった。私はただ、彼を見た。
作業員達も、我々の周りにどっと詰め掛けた。
「そうだラスティ、お前に渡すものがある」
ザウテルは、鞍の後ろから四十ニーリル四方の木箱を取り出した。
「まずはこれだ」
その箱には見覚えがあった。
「まさか……」
彼は頷いた。
「我がエッセンニーカ家に伝わる家宝、『銀の神翼』だ」
「『銀の神翼』?!」
「そうだ。我が家名エッセンニーカは、もともとはアンセス・ネキア、即ち『右の翼』に由来している。その訳は……もうわかるだろう?」
「……でも、どうしてそれを僕に?」
彼は、リウヴィル号の機首に取り付けられた左の翼、『銀の聖翼』に目をやった。
「同じだよ。お守りだ」
「しかし、『銀の神翼』はあなたのためにあるはずです」
ザウテルは笑った。
「俺は、俺のためにこれをお前に渡すんだ。俺のことを思うなら、素直に受け取ってくれ」
「ザウテル……」
私は彼の青い瞳を見返した。彼の目にも、昨夜のクリスと同じような、静かな熱意がこもっていた。
私は、胸の中に溢れていく想いを吐き出すように、ゆっくりと息をついた。
「わかりました。預かります」
箱から取り出した羽根のように軽い『銀の神翼』を、私は機首へと取り付けた。一対の銀の翼は、まるで磁力でも持っているかのように吸い付き、その継ぎ目すら見えなくなるほど、しっかりと噛み合った。
「これでよし……」
私が呟いた時だった。喚声が上がった。
僧兵軍が近衛軍に襲いかかったのであった。
「奴の幻術に惑わされるな。相手は近衛軍などではない。人間の皮を被った化け物だ。倒せ! 薙ぎ払え! 大魔王を血祭りにあげるのだ! 世界の破壊など許すな! 主の力は我らにある!」
マイローウィッツ卿が狂ったように叫んでいた。黒の法衣と金の甲冑が入り乱れ、槍と剣とが激しく打ち鳴らされた。
「クソ! 奴め、保身に我を忘れたか!」
舌打ちしたザウテルは馬を回した。
「ラスティ……」
不意に、彼は背中で言った。
「……お前の家督相続の日、壷の中に『蒼輝』を入れたのは……この俺だ」
「えっ?!」
私は真剣に自分の耳を疑った。ザウテルが『蒼輝』を?!……それは、まさに予想だにしなかった可能性であった。何故?! とっさに出かかったその言葉を、私は無理やり噛み殺した。何故――そう尋ねることは、私の甚だしい自惚れであることに、辛くも気付いたからである。彼は『蒼輝』など入れない……そう思うこと自体が、私の思い上がりであった。
私は彼の言葉を待った。ザウテルは息をついた。
「……俺は、既に五大貴族に伝わる家宝の謂れを知っていた。だから、お前の空を飛びたいという夢を聞いた時、俺はすぐに『銀の神翼』を思い浮かべた。エッセンニーカが『右の翼』なら、『左の翼』は恐らくクロネッカ、つまりお前だ。お前がいずれ手にするのは、きっと『銀の神翼』の片割れだろう。だがどうだ。それはあまりにもお前の夢に近すぎる。お前の決意の固さを知って、俺は確信した。お前がその家宝を手にしたなら、お前はきっとそれを試すだろう、と。それは翼なのだ。空を飛ばんとする者が、栄光を与えるという宝の翼を見て、それを自らの守護神だと思わないはずはなかった。だが、それは遍くものへの守護神ではない。『良き者には栄光を、そうでなき者には死を』。その翼は死をも約束している。お前の目指していることが、『良き』ことではなかったなら!……俺は、お前に家督を継がせる訳には行かなかった。その家宝を手に入れさせる訳には行かなかった。例え、反対の『蒼輝』を入れるのが、俺一人だとわかっていたとしてもだ……。お前には嫌な思いをさせた。済まないと思っている……」
彼は、そこでしばらく口を噤んだ。
「……だが、今はわかっている。俺が嵐の中で生き残り、雲の天蓋が裂けるのを見、異教徒ラムを救ったのは何故か。『銀の神翼』に込められた俺の宿命とは何なのか。……俺は、お前の力となるために、この世に生を受けたのだ!」
そう言うと、彼は振り向きざま、何かを投げてよこした。私は慌ててそれを受け取った。
それは『紅閃』であった。
「クロネッカ家の新しき当主と、時代の門を開くべく降臨したダイリット・サールに、主の祝福を!」
左手を高く掲げて、彼は叫んだ。
「では、ザウテル=フィルノア=エッセンニーカ、いざ参る!」




