第16節:翻る雷の紋様
夜が、明けた――
『嵐牙』は去った。しかし、憧憬の丘の上では、小さな赤い三角旗が勢いよく翻っていた。風はまだ止まなかった。
格納洞の中から、鋼の鶏は姿を現した。流れるような五本の稜線が鈍く光った。重量百十ガールの機体は、二台の自動車に曳かれて助走路の北端に載せられた。
「よし。ラスティ君、乗り込みたまえ。最終チェックを行う」
検査表を手にリウヴィル号に近付いた博士は、機首先端の銀の羽根に気付いた。
「ん? これは何かね?」
私は微笑んだ。
「我が家に伝わる家宝です。今日の飛行のお守りにと思いまして」
「ほう、家宝ねえ……」
博士は眼鏡をかけ直して、まじまじと『銀の聖翼』を見つめた。
「しかし、これは鋼銀製ではないのかね?」
「ええ、多分そうです。主が五大英雄に遣わした鋼の鷹の一部らしいのですが……」
「ほう……」
博士は目を円くした。
「……では、我々は主のつくり給うた素材を使っていたことになるのか」
左に張り出した羽根をなぞりつつ一人感慨深げに頷く博士を、私は搭乗用の梯子に足をかけながら、笑って見ていた。
「右側はないのかね?」
「私の家に伝わっているのは左側だけです」
「そうか……しかし、いずれにせよ、これは天への手形になるかも知れんな……」
博士の視線を追って、私も天を仰いだ。乳白色の雲の天蓋は、風の龍によって大きく波立っていた。私は目を細めた。
「そうですね……」
* * *
操翼席に座ってから、既に二時間が過ぎようとしていた。主翼、従翼、方向舵、エンジン、燃料、油圧、すべてに異常はなかった。待つのは状況だけだった。リウヴィル号の周りに集まった作業員達の視線は、一人の例外もなく、憧憬の丘の上に翻る三角旗に注がれていた。緊迫した空気が、ガラス製の風防を通して私の肌を刺した。旗を睨む彼らのまなざしには、強烈な想念が感じられた。『止まれ!』――その想いは、大気をも硬質化させていた。静寂が、それに更なる鋭さを加えた。
私は――私は少し違っていた。白い天蓋を背にして風に躍る赤い旗に、私は美しさを感じていた。何故そう思うのかはわからない。昨夜の恐怖は、『嵐牙』と共に心から去っていた。今、私の裡にあるのは恐れでも、かと言って自信でもなく、興奮ですらなかった。それは、夕暮れに一瞬だけ訪れる凪の水面のようであった。すべての感情が薄らいだようであった。別に悟りを開いた訳ではない。ただ、心に薄いベールがかかったようであった。それは、極度の危機に直面した時の、心の防衛機能なのかも知れなかった。しかし、とにかく私の心は落ち着いていた。やるべきことはすべてやった。あとは、『主』なるものにでも任せる他はなかった。
「何だ、あれは?!」
突然、静寂は破られた。一人の作業員の声に、人々の目は東の地平へと向けられた。砂煙が上がっていた。黒い塊が、地平線を蝕む黴のように蠢きながら左右へと広がった。やがて、その中から突き出たものが、風に翻る旗だとわかった時、憧憬の丘には戦慄が駆け抜けた。
「ありゃあ、聖摂院だ……」
紫地に金の雷の紋様は、紛れもなく聖摂院監察局の旗印であった。黒い群影は、鎧牛に跨った数百騎の僧兵軍と化して、大気を震わし始めていた。
「何であいつらがここに?!」
「とんでもねえ大部隊だぞ!」
地平を埋め尽くす大軍勢に、作業員達は恐慌に陥っていた。博士は梯子を駆け上がった。私は風防を開いた。
「ラスティ君!」
博士も動揺を隠せなかった。こけた頬が粟立ち、肌は色を失っていた。
「来ましたね……」
私は顔をしかめた。
「しかし何故だ?! 期限までにはあと五日もあるというのに!」
呻くようにして、博士は頭を抱え込んだ。
「……彼らも、盲信的な主への帰依者ではなかったということですよ……」
軍勢を見つめながら、私は呟いた。博士は驚いて顔を上げた。
「どういうことかね?!」
「彼らにも、科学的検証を行う目があったということです。彼らも知っていたのですよ。今日が『龍の眠る日』であることを……彼らが多くの科学者を捕らえ、その著書を焼いたのは、科学者の考えが神節典に反することだったからではなく、それによって、彼らの掲げる絶対無比の権威の象徴、神節典のメッキが剥げることを恐れたからではないでしょうか? 彼らの力の拠りどころはただ一つ、主に仕える者ということにあるのですから……彼らにとっては、真理は否定すべきものではなく、隠蔽すべきものだったのですよ」
私の言葉に、博士は唇を噛み締めた。
「……なるほど……神節典の偽りの言葉を守るためにも、我々に成功されてはまずいということか……」
百リルほど先で進軍は止まった。中央の一人が前に進み出た。紫の胴衣に銀の甲胃は、大司教アールマカク=シントール卿であった。
「ラスティリアード=ヴァリス=クロネッカ、いや、大魔王ダイリット・サールに告ぐ! 貴様の企てはわかっている。工場の作業員達を洗脳し、自らの尖兵として街に送り込もうというのだろう。だが! そんなことは我々が許さん! 主の御名において、全世界の破壊などという貴様の狂った野望を、ここに打ち砕いてくれる!」
雄叫びが上がった。僧兵達の士気はかなり高まっているようであった。無理もない。彼らは本当にそう信じているのだ。この出陣が、偽りと汚れに満ちたものであることを知るのは、恐らくは大将であるシントール大司教と、その隣で手綱を取る氷の裁断者、マイローウィッツ卿だけであった。
「あれが彼らの大義名分ですよ……」
私は肩をすくめてみせた。
「どうするね?! 龍はまだ眠らんぞ!」
博士は眉間に皺を刻み込んだ。
私はゆっくりと息をついた。
「……飛びます……」
「えっ?!」
博士は驚いて聞き返した。
「彼らも空までは追ってはこれないでしょう。空に上がって、風が止まるのを待ちます」
「しかしラスティ君!……リウヴィル号の燃料は、どんなに頑張っても五十分しか持たんぞ! その間に止まらなかったら?!……」
私は微笑んだ。
「その時はその時です……私が飛び立ったら、博士達は監察局に投降して下さい。そしてこう証言するんです。自分達は、今までダイリット・サールに操られていたのだと……」
「ラスティ君、君は?!」
目を見開いた博士は、私の決意を知って言葉を失った。
「これが、我々の取り得る最善の道です……どうか、研究の継続を……風の龍にも屈することのない強靭な昇空機を作って下さい」
口を噤んだまま苦悶の表情を浮かべる博士に、私はゆっくりと頷いてみせた。
その時だった。
「ラムさん?!」
クリスの叫び声が上がった。自動車が一台、監察局の軍列に向かって走り出していた。
「ラムさんが一人で!」
蒼い顔で、クリスはすがるように私を見つめた。
「何をしようというのだ?! 異教徒とわかれば殺されるというのに!」
呻く博士に、私はハッとした。そうだ、あの時の彼女の言葉は!……
私は座席の上に立ち上がった。
「駄目だ、ラムさん! あなただけの力ではどうにもならない! やめるんだ!」
「どういうことなのかね?! ラスティ君!」
慄然として、私は博士を振り返った。
「彼女は死ぬ気です!」




