第15節:心の拠りどころ
『嵐牙』が荒れ狂っていた。もう四日になる。これほど長い降天は例がなかった。彼の狂乱振りは、いよいよ明日に迫った『龍の眠る日』の真実性を大いに疑わせた。おかげで、リウヴィル号の飛行実験はできずじまいだった。いきなり本番に臨むことになる。もっとも、明日風が止まればの話だが……
オートリュースの禁書『天と地を分かつもの』にはこうある。
『……聖暦二九七六年甲の月、龍の予期せぬ降天ますますもって多く、人々その青銅の牙を恐れて、ただ部屋の中で主に罪多き身の許しを請う。寂莫たる街角には凶兆の風吹き荒れ、天蓋は低く暗く垂れ込めて、退廃した世に魔王来襲の影を落とす。法の守護者を僭称したる監察局、世界を破滅から救済せしむため、我らが裡に潜むと覚ゆる悪の化身ダイリット・サールを倒すべしと世に叫び、恐怖に駆られ、己が安寧を願う人々、彼らが思うままに煽られて、魔王狩りに狂奔す。罪なき人次々と捕らえられ、狂気の炎にその身を焼かれる。『理』既に世界になく、渦巻く暗黒大気に満ちて、自ら禍々しき『魔』を招く。丙の月、シャウラにシュレーミルヒという青年現る。彼、アーベルの深さ森にて、天蓋のはざまに眩き光を見ゆ。これ、正に主の啓示と悟る。彼曰く、「我、主より祝福の光受けん。主、正に我をして、世を闇から救わしめんと欲すべし」。彼、彼を信ずる者を従いてカウスメディアに出向き、堕落した聖摂院を激しく糾弾す。七日後、彼、監察局に捕らわれ、世を滅ぼす魔王の烙印を押される。丙の月二十日、彼、シュテインリー広場に磔られ、正に処刑されんとした時、突如、風は止み、龍の眠った天に聖なる光溢れる。輝きは彼を照らし、集まった民衆、世界の真実を知る。彼こそ救世主であると。民衆、柵を踏み倒し、監察局の制止振り払って彼を柱上より助ける。偉大なる聖人は、百五十六年に一度現る。ポズナー、メリッシュ、アンドリュー、更にはシュレーミルヒ然り。彼ら、一様に風の龍吹き荒れる荒廃の時代に生を受け、祝福の光浴びて、主の啓示を得る。我、これを悠久なる世界の大いなる律動と考える』
聖人シュレーミルヒの時代から百五十六年たった今、風の龍の予期できない降天が続き、ザウテルは天蓋の裂け目に眩い光を見た。ここまでは、オートリュースの記述の通りであった。すべては、龍の眠る日の前兆だと考えることもできるのだ。しかし、それを保証するものはどこにもない……
作業員達は既に酔い潰れて、それぞれの寝床に就いていた。オートリュースの予言をすっかり信じているのか、それとも、不安な気分を紛らわすための宴会だったのか、それはわからなかった。
時計は午前一時を回っていた。寝室に入って、もう二時間になる。私は、ベッドの上で膝を抱えたまま、『嵐牙』に軋む錆びた船体の音を聞いていた。
初飛行の前日も、こうして眠れぬ夜を過ごしたが、あの時のような胸の高鳴りはなかった。過去を振り返ってみることもしてはいなかった。ただ、腹腔から涌き上がる震えは、私自身認めまいとはしていたが、やはり紛れもなく恐怖であった。
『死』が怖いのではない。『思うことを為せずに終わる生』が怖いのだ。明日、風の龍が眠らなければ、私の夢は潰える。いくらリウヴィル号と言えども、風の龍を破り、雲の天蓋を突き抜けられる保証はない。私に残された道は、墜落して死ぬか、処刑台の上で死ぬかのいずれかであった。
死の間際、父は『思うことを為せずに終わる生』に恐怖しただろうか。しかし、私には、父のように想いを託す者がいない。私の、いや、我々の志を継いでくれる人はいるだろうか?……クリス……ラム……しかし、彼女達は逃亡生活を余儀なくされるだろう。聖摂院に見つかれば、死は彼女達をも待っている。ザウテル……いや、彼はそんなに器の小さい人物ではない。彼は、これからの正しき世をつくっていくべき人だ……
「……さま……」
『嵐牙』の叫びに紛れて、微かに声が聞こえたような気がした。
「公爵様……」
「はい。誰です?」
ドアの外の気配に、私はベッドを離れた。
廊下に立っていたのはクリスだった。
「すみません、こんな時間に……」
「いや、構わないよ。まだ起きてたから……どうぞ」
私は彼女を部屋へと招き入れた。
「まあ、かけて」
勧めた椅子を、彼女は断わった。
「すぐに失礼しますから……」
「そうか……で、何?」
「はい……」
俯きがちに、彼女は手にした小さな箱を差し出した。
「これを、お持ちになっていて頂きたいんです……」
「これを?」
それは、漆の剥げかけたカミル製の小箱であった。蓋に、何かの金の紋様が彫ってあった。
「開けてもいいかい?」
「どうぞ……」
私は蓋を開いた。中に入っていたのは首飾りだった。銀の鎖の先には、小さな紅い宝玉がついた。
「これは? 『紅閃』じゃないようだけど」
『紅閃』には似ていたが、それはもっと深みのある赤であった。鈍い輝きは血の色を思わせた。
「『ミロスの血涙』……母の形見です……」
「母上の?!」
クリスは頷いた。
「母は祖母から、祖母はそのまた母から受け継いだものだそうです……」
「そんな大事なものを、どうして僕に?」
私が眉をひそめると、彼女は、不意に部屋の片隅の薄暗い虚空を見遣った。
「その首飾りには、こんな謂れがあるんです。・・・・『思え、されば成らん』……」
「『思え、されば成らん』か……」
「はい。それを、明日の飛行のお守りに……」
私は苦笑した。
「気持ちは嬉しいけど、そんな大切なものを受け取る訳にはいかないよ。第一……」
そこで、私は一度言葉を飲んだ。その後を口にすると、それは現実になってしまうような気がしたのだった。
「……第一、それは無事に君の手には戻らないかもしれない……」
クリスの顔は強張った。瞳の色が揺らいだ。
「……あの日、兄はこれを持っていきませんでした。ですから……」
彼女は目を伏せた。
「君の兄さんは、君の将来を考えたのだろう。この宝玉は、君にこそ力を与えるべきだと……僕も同じだよ。これは、君の将来において役立てるべきだと思う……」
私は箱の蓋を閉じた。
「さあ……」
しかし、差し延べた小箱を、クリスは小さな手でそっと押し返した。
「……私が思うことは、公爵様や博士が思われることと同じです。私には、昇空機を作ることも、操ることもできませんが、空を飛ぶことの素晴らしさはわかります。今しか……公爵様がいて、博士がいて、ラムさんがいて、エッセンニーカ様がいて、工場のみんながいて、風の龍が眠る、今しかないんです。私の思うことを成せるのは……。私のことをお思い下さるのなら、どうかそれをお持ちください」
「クリス……」
彼女のまなざしには、静かな力があった。燐火のようにぼんやりとした、しかし、確かな熱意があった。それは、青い情熱とでも言うべきものであった。
彼女は微笑んだ。
「お戻りになったら、お返し下さい。……では、お休みなさい……」
頭を下げると、クリスは背を向けた。その華奢な背中のいとおしさに、私の心は捕らわれた。私は普通ではなかった。どうかしていた。いや、それこそが、本当の私だったのかも知れない。私は男であり、元は貴族でもあったが、それ以前に、私は人間であり、生物であった。どんな立派な考えや、崇高な志を持っていたとしても、それで『心』を縛ることはできなかった。私は怖かったのである。『思うことを為せずに終わる生』が?
いや、それほど自惚れるつもりはない。『死』そのものが、である!
戸口へと向かう彼女の後を追うと、私は背後から抱き締めた。
「公爵様?!」
驚きの声を上げるクリスに構わず、私は彼女を胸の中に引き寄せた。
「……ごめん、クリス……しばらくこのまま……」
私は囁いた。いや、呻いた。
そんなことをしていいはずはなかった。したからといって、どうなるものでもなかった。しかし、それは精一杯の恐怖への抵抗であった。じっとしていては、全身を蝕まれてしまうような気がした。それなら、相手はクリスでなくともよかったのだろうか? 彼女は私の生還を信じている。それは束の間ではあるとしても、必死に信じようとしている。だから、私は彼女を抱き締めた。私が生還できると信じる根拠はどこにもない。しかし、彼女は信じている。彼女が信じるからこそ、私は自分を信じようと思った。信じたいと思った。私の根拠は、腕の中にあった。
そうか……彼女は私の『心』の拠りどころだったのかも知れない……博士は知識の、ラムは技術の、ザウテルは力の拠りどころであったように、クリスは私の『心』を支えていたのではないだろうか?……私なんかはとても……以前、彼女はそう言った。しかし、彼女だからこそ、私は……
腕を解いた私は、身を固くした彼女をゆっくりと振り返らせた。
クリスは、うっすらと霞のかかったような瞳で、私の顔を見返した。その時――
それはあまりにも唐突だった。
目の前に、高熱にうなされて見た夢の中での、金色の髪と瑠璃色の瞳をしたクリスの姿が重なった。
そうだ、あれは五大英雄の伝説だ。私でない私が助けたのは、王女ミロスフィナではなかったか?! 何故それがクリスに見えたのだろう?
体に電撃が走った。ミロスの血涙だと?! 何故そんなものをクリスが持っている!
「クリス!」
私は、彼女の肩を思い切りつかんでいた。
「君は……君はもしかすると!」
鼓動が高鳴るのを抑えることができなかった。
「来るんだ!」
彼女を連れて、私は寝室を飛び出した。
博士に……博士に知らせなくては!
廊下に雑魚寝している作業員達を飛び越えて、私は走った。慌てるクリスの声も、私の耳には入らなかった。
「博士! 博士!」
船室のドアを、私は激しく叩いた。やがて、うつろな目で博士が顔を出した。
「ラスティ君、一体何事かね?」
「実は博士、落ち着いて聞いて下さい! クリスはもしかすると、王女ミロスフィナの血を……ほら、ミルスプリングスというのは、『ミロスを継ぐ者』という意味に取れるじゃありませんか!」
勢い込んで話す私に、博士は冷めた目を向けていた。
「まあ、落ち着きたまえ。君は一体何が言いたいのだ?」
諭すような博士の言葉に、私は不意に現実に引き戻されたような気がした。
私はクリスを振り返った。彼女も、私の取り乱し方に戸惑いを隠せずにいた。
体から力が抜けて、浮いていた心が地面についた。
私は後頭部に手をやった。
「……い、いえ。何でもありません。済みませんでした。お騒がせしてしまって……」
何故そんな風に思い込んでしまったのだろう。それを事実だとする根拠など、どこにもないというのに……
いや、そうではない――私は思った。クリスは、クリスであるに違いなかった。ならばそれでいい。今更、千年前の伝説を持ち出すこともないだろう。彼女が誰の血を引いていようが、どんな身分であろうが、私には、彼女の存在こそが喜ぶべき第一のことであるのだ。
「どうかしていました。何かこう、舞い上がってしまって……自分でもよくわからなくなっていたんです」
苦笑する私に、博士は近付いた。
「……眠れないのかね?」
灰色の瞳が、胸の裡を見透かすように覗き込んだ。
「ええ」
観念して私は頷いた。博士は笑った。
「何も心配することはない。カルカが予言していただろう? 明日の飛行は必ず成功するよ」
「しかし?!……」
反論しようとした私を、博士は制した。
「君の言いたいことはわかっている。しかし、よく聞きたまえ。……太古の昔、世の中は、今以上に未知なことで溢れていた。何故一日には昼と夜があるのか? 何故潮には満ち引きがあるのか? 何故生物には生と死があるのか?……大雨が降り、未曾有の大洪水が起こっても、人々にはそれが何故かわからなかった。だがもし、それが人智を超えた存在のなせる技だとしたら……生贄を捧げて彼の怒りを鎮めることで、その洪水は収まると人々は考えた。海の向こうから攻めてきた蛮族が、嵐によって全滅しても、人々にはそれが何故かわからなかった。だがもし、それが偉大な存在のなせる技だとしたら……彼に対して祈り、敬意を払うことで、自分達は守ってもらえると人々は考えた。……『知らない』ということは、即ち『恐怖』なのだよ。生きていく上で、恐怖は大きな障害となる。だから、人は知ろうとした。知ることで、『心』の安寧を求めようとした。そのためには、知り得ぬことまでも知らなくてはならない。そこに神が生まれたのだ……」
博士はそこで一旦言葉を区切り、その意味が胸に浸透するのを待った。
「今、あの神託を信じることで、君の『心』に安寧が訪れるのなら、君はそれを信じるべきだよ。主はそのために存在するのだから……」
「『心』の安寧ですか?……」
「そうだ」
博士は力強く頷いた。
何かが、弾けたような気がした。私は主を信じないと言った。『全知全能』という肩書きを持った、倣慢な支配者を受け入れるつもりはないと考えていた。それは、彼が私の夢を阻んでいたからに他ならない。今更、彼が私の味方をしてくれたからといって、私は主を信じる訳にはいかなかった。何故なら、私は主を信じないと言ったからである。
だが、ザウテルが言うように、人間は偉大な存在ではない。欠陥だらけで、身勝手な生き物だ。ならば、私は主を信じてもいいではないか。主は、我々の『心』の安寧から生まれた。彼は、全知全能でも、慈悲深い訳でも、峻烈な訳でもない。第一、彼は存在などしないのだ。しかし、そういう肩書きで、彼は人々の口に上る。主とは、言葉のようなものだ。『りんごは赤い』と言われれば、我々は赤いりんごを想像するが、『赤い』という言葉そのものは、別に赤い訳ではない。言葉に色や形などはない。しかし、情報を伝える手段として、それは確かに存在する。主も同じだ。それは、『心』に安寧を与える一つの手段なのだ。私が彼を信じまいと、途中でその信念を変えようと、彼は怒りなどしない。彼には人格などないからだ。彼に人格を与えるのは私であり、私の主は、私の『心』の安寧のためだけに、私によってその存在を許されている。主は、私によって与えられた人格に従って、私の『心』を導いているのだ。ならば、私は彼を信じよう。不完全な自分よりも、完璧な彼を信じよう……
「どうかね? 眠れそうかね?」
私の心の動きを察したように、微笑みながら博士は尋ねた。
「ええ、多分」
力強く私が答えると、博士は満足そうに頷いた。
「よろしい。四時間後には夜が明ける。勝負はそれからだ。それまではゆっくり休みたまえ」
「はい、わかりました。お休みなさい」
「ああ、お休み……」
私とクリスは、博士の部屋を後にした。
「クリス」
廊下を歩きながら、私は言った。
「僕は、博士がいてくれて本当によかったと思っている。博士だけじゃない。ラムさんや、ザウテルや、工場長や、作業員のみんなや、リューダー卿や……そしてクリス、君も」
彼女は驚いて私を見つめた。
「そんな?! 私は何も……」
言いかける彼女の肩を、私はしっかりとつかんだ。
「クリス。あの首飾りは、必ず君に返すよ」
クリスは瞳を見開いた。
鳶色の宝玉は、溢れる泉に濡れ光った。彼女は唇を噛んだ。
「……はい……」
震える声で、彼女は頷いた。涙を湛えたソバカスの顔が、小さくほころんだ。




