第14節:アグライアの丘で
三十日振りに、私は自分の生まれた屋敷へと帰ってきた。庭には、祖父がこよなく愛した薔薇、『カレンテリア』が咲き乱れていた。不思議なものだ。二十四年間、毎年のようにこの花を見てきたが、今ほど美しいと思ったことはなかった。死を目前にするまで、世界にあるものの美しさを感じることができないというのは皮肉な話だ。それは、生きていてこそわかる喜びだというのに……
「これは旦那様、お帰りなさいませ」
玄関を入ると、爺やが出迎えた。
「留守中、変わりはなかったかい? 」
「はい、お屋敷の方は特に。旦那様の方はいかがでございますか?」
私は頷いた。無意識のうちに、顔に笑みが浮かび上がるのを感じた。
「ああ、昨日やっと完成したよ」
「そうですか。それはよろしゅうございました。ウィリアード様のお話では、何でも材料が不足していて、ブリザルディア家に頭を下げぬうちは、事が進まないということでしたので……」
「ロージェスタ嬢が力を貸してくれてね……後は、叔父の昔からの誼みで、ブラキウムで精錬してもらうことができたから」
「そうでしたか」
爺やは安堵したように微笑んだ。
「ボルツ、実はあまりゆっくりとはしていられないんだ」
私が言うと、爺やは頷いた。
「私はこれからシャワーを浴びる。その間に例のものを用意しておいてくれないか?」
「例のものと申されますと?」
「我が家の主護神だよ」
爺やは細い目を見開いた。
「『銀の聖翼』をでありますか?!」
「ああ。今こそ、あの謂れを試してみたいんだ」
「しかし旦那様、あれは!……」
言いかけた爺やを、私は見返した。彼は、私の瞳の中に決意を読み取ったようであった。爺やは苦笑した。
「わかりました。御用意致しておきます……」
「頼む」
* * *
髪を拭きながら、私は自分の部屋に入った。手入れはきちんと行き届いていた。レースのカーテンも白いままであった。だが、それは逆に、何かよそよそしい感じを与えていた。
私は窓を開け放った。風が吹き込んだ。木々のざわめきや、街の喧騒が遠くに聞こえた。ふと、私は机の上に載った写真立てを手にした。中等院に入学した時に撮ったものだった。家族で一緒に写した写真は、それが最後だった。それから一年後に母は亡くなった。
色褪せた写真に写る、はしゃいだ私と、淑やかに微笑む母と、少し緊張したような父。当時の私には、長い金髪の、若くて美しい母が自慢だった。青い瞳をした、物知りな父も自慢だった。私の髪と瞳の色は、その両親から受け継いだものであった。この時の父は、人並みには幸せだったのではないだろうか。私もようやく丈夫になり始め、反目していたという祖父も既に亡かった。妻子に囲まれた彼は、いかめしい顔付きをしてはいたが、そのまなざしは穏やかであった。
しかし、この時、既に父はガイル=デヴィーサイドへの援助を始めていた。円満な家庭だけでは、彼は満足できなかったのだ。妻の愛も、息子の尊敬も、彼の夢を求める『心』までを縛ることはできなかった。やがて、妻は亡くなり、高等院に入った息子が口をきかなくなると、彼はますます自分の夢に耽るようになっていった。
今、父はいない。そして、父と同じ夢を、私は成そうとしている。それは目前にあった。
「父さん……」
写真の中の若き日の父に向かって、私は呟いた。
「……もし、もう一度だけわがままを聞いてくれるなら……あなたの愛しむべき放蕩息子に、あなたの力を貸して欲しい……」
色褪せた父の口元は、一文字に結ばれたままだった。私は苦笑した。
「どうやら御機嫌斜めのようだね。またにするよ……」
写真立てを置くと、私は窓辺を離れた。もう時間だった。戸口のところで、ふと私は振り返った。
「……もっとも、今度会う時はそっちになるだろうけどね」
* * *
「旦那様、これを……」
爺やは、以前北の棟の一室で目にした、四十ニーリル四方の木箱を、恭しく差し出した。
「ああ、済まない」
「不浄の地まで、ワズンがお送りします」
「そうか……」
車寄せに出ると、使用人全員が両脇に並んでいた。
「これは?!」
私が爺やを振り返った時であった。彼らは一斉に頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
バローが、ネカルが、アリアが、リリィが、みんながそう言った。
「お前達……」
戸惑う私に、爺やは歩み寄った。
「旦那様、寄り道はなさいますな。お早くお帰り下さいませ……」
「ボルツ、お前……」
強張った笑顔を見せる爺やに、私は瞼の中が熱くなった。何かが喉につかえたようであった。使用人達の顔がにじんだ。
「ああ……では、行ってくる……」
涙が零れないうちに、私は馬車に乗り込んだ。
馬車は走り出した。私は窓の外を見ることができなかった。庭を抜け、門をくぐり、アティクの角に出るまで、私は馬車の天井を見つめていた。
ようやく喉の震えが収まった頃、私は御者に声をかけた。
「ワズン、ちょっとアグライアの丘に寄ってくれないか?」
* * *
丘の上からは、カウスメディアの街並みが一望できた。夜が近付き、街には灯が灯り始めていた。一面に練乳を溶いたような雲の天蓋が、いつもと変わらない街を覆っている。ラムのいたベル・ロニアに較べれば、ここは平和な街だと言えるだろう。多くを望まなければ、平穏な生活はすぐ手に入る。ここに住む人々は自分達の慎ましい幸せを懸命に守って暮らしているのだ。街の南にそびえる大聖堂に逆らわない限り、彼らの生活は保証される。主を信じている者はまだ幸福だ。しかし、信じたくない者でも、信じなくてはならない。この街の、いや、この国の平和は、所詮見せかけにしか過ぎない。聖職者は、人々に懺悔を請いながら、神節典を改鼠してでも私腹を肥やそうと画策し、人々はそれを知りつつも、逆らえずに沈黙を守っている。カルカの言う『虚偽で塗り固められた欲望の街』というのも頷けた。この街を束ねているのは、主への信仰ではなく、聖摂院への恐怖ではないのだろうか。
しかし、私はこの街を愛している。この街にあるのは、決して疎むべきものばかりではない。もし――もし、私が本当にダイリット・サールであるのなら、新たな時代の門を開くことができるのなら、この街を救えるのかも知れない。しかし――私は、この街には容れない存在であった。
「……これが見納めかな……」
私の呟きは、丘の上を駆け抜けた一陣の夕風に舞った――




