第12節:誰がために
車は止まった。我々はそのライトの中に照らし出されていた。やがて、中からは屈強な男達が現れた。
もう駄目か……私の心は絶望の淵に浸された。
しかし、それは監察局の制服姿ではなかった。その盛り上がった肩の筋肉と、野太い声にはどれも覚えがあった。誰だったろうか?
「博士?! ラムさん?!」
クリスが弾かれたように叫んでいた。馬鹿な、二人は入院しているはずだ……
「君達、こんな雨の中で一体何をしているのかね?」
しかし、その声は確かに博士であった。
我々に駆け寄ってくる人影がぼやけた。不意に夜になったように、目の前が暗く沈み込んだ。
「ラスティ君?!」
博士の呼ぶ声が、深い水の底から聞こえてくるような気がした。何が起こったのかわからぬまま、意識は薄れていった……
* * *
「もうだいぶ下がったようですね」
額に手を載せながら、ラムが言っていた。
「……ここは? 」
尋ねた後で、私はツァフィア号の船室に横になっていることに気が付いた。天井に海図が貼ってあった。
「ラムさん、どうしてここに? 入院しているはずでは?」
枕元でタオルを絞る彼女の脇には、松葉杖が置かれていた。間違いない。まだ治ってなどいないのだ。
「私ならもう大丈夫です。何もせずに病院で寝ている訳には行きませんから」
ラムは、ギブスをつけた左足を叩いてみせた。
「あの……クリスは?……」
「彼女なら、ついさっきまでクロネッカ様に付き添っていたのですが、今は部屋で休んでいます」
ラムはタオルを絞った。
「そうですか……。済みません、怪我人のラムさんに看病してもらうなんて……」
「いいえ。直撃でなかったとはいえ、落雷を受けたのですから。しっかり休んで、早くお元気になって下さい」
冷たいタオルが載せられた。
「ああ、そういえば、クリスがクロネッカ様に謝っておいて下さいということでした。してはならないことをしてしまった、と言っていましたけど……何かあったのですか?」
私は瞼を閉じた。
「いえ……別に……」
「そうですか……」
彼女はそれ以上は尋ねなかった。
「あと何日ですか?」
「『龍の眠る日』までは二十日です」
「それで、作業の方は?」
「ええ、ザウラクの作業員達が手伝ってくれているお陰で、順調に進んでいます。どうか御心配なく……」
「鉄工所の作業員が?!」
私は驚いて身を起こした。脇腹がうずいた。
「しかし! しかし、そんなことをすれば彼らも!……ラムさん、あなたにならわかるでしょう?!」
そう、私に力を貸したために、彼女は深い傷を負ったのだ。またいつ刺客達が襲ってくるかもわからない。しかも、それを陰で操っているのは聖摂院なのである。私を殺すためなら、どんな手段でも使ってくることだろう。
ラムは一瞬自分の右肩に目をやったが、しかし、その表情が曇ることはなかった。
「彼らは信じているのです。クロネッカ様が、新しき時代の門を開くダイリット・サールであることを」
頭を振った私は息をついた。
「ですから、私はそんな大それた存在などではないのです」
「ですが、彼らの信ずる『心』までを否定することはできません。私も同じです。私はクロネッカ様を信じています」
微笑んだ彼女は言った。
何ということだ! これほど嬉しいことはなかった。みんなが、私のために力を貸してくれる。だが、違うのだ! 私は聖人などではない。崇高な目的など、持ってはいないのだ。私一人の見果てぬ夢のために、他人が傷付くのを見るのは忍びなかった。何故私を信じる?! 私はもはや、貴族ですらないというのに!
堪えられずに、私は視線を落とした。
「彼らの好意はありがたいけど……それに甘える訳には行きません。こんなことをして、傷付くのは彼らの方なのです。ラムさんからも言ってあげて下さい。もう十分だと……」
ラムは私の顔を見つめた。黒い瞳は、無限の深みのように、私のまなざしを吸い込んだ。美しき闇――そんな感じだった。
「……誰も傷付けずに生きていけるほど、人は偉大ではない。だから、それを振り返って悔いるのではなく、これから、自分が誰のためになれるかを考えることこそ、生きることの意味なのではないか? それが『良く』生きるということなのではないか?……」
彼女の口からは、そんな言葉が流れ出した。
「ラムさん?……」
彼女は微笑んだ。
「病院で、エッセンニーカ様に言われた言葉です。……失われた十五人の同志の命を悔いるより、今自分の為せることを考えろ……エッセンニーカ様はそうおっしゃって下さいました。ですから、私はここに来たのです。クロネッカ様も、そうお考えになってはいかがでしょうか?」
ザウテルがそんなことを?!……そうだ、彼も家督を相続している以上、エッセンニーカ家に伝わる家宝の謂れを聞いたはずだ!……彼が辿り着いた『良き』生き方とはそういうことなのか!……しかし――
「しかし……私は、周囲の人を傷付け続けています。私にとって、ためにならんとする人とは一体……」
私は顔をしかめた。私は、私のためにしか生きていない!……私の為さんとしていることは、一体誰のためになるというのだ?!……
「……お父君はどうでしょう?……」
ラムは静かに言った。
「父の?!」
「そうです……志を果たすことのできなかったお父君のためにも、クロネッカ様は努力されるべきなのではないでしょうか?」
「父のために……」
父のために……
そう、私は父のために何かを為したことがあっただろうか?……
私はゆっくりと息を吐いた。
「ありがとうラムさん。何か……吹っ切れたような気がします」
「いいえ……」
彼女は安心したように微笑んだ。
そうだ。誰かのためにというのなら、私は父のために空を飛ぼう。ガイルを信じた彼の生き方の正しさを証明してみせよう。彼は言ったのだ。「自分の代わりに何事か思うことを為せ」と……だから私はそれを為す。父の遺言通り、彼の夢を成そうではないか!
* * *
格納洞の中は賑やかであっ た。
私はリウヴィル号の機首へと近付いた。
「公爵様! もう起きられてもよろしいんですかい?」
先端に跨ってリベットを打っていた作業員が声を上げた。彼がジャバだとわかるまでにしばらくの時間がかかった。
「ジャバ?! 髭はどうしたんだい?」
「ああ、これね。焼けちまったもんで、剃っちまいました」
彼は青い顎をさすった。
「そうか。……工場長はどうしてる?」
「元気にしてますよ。頭も来るってきかなかったんですが 、左腕そっくり脱皮しちまいましたでしょう。まだ新しい皮ができていないそうなんで、遠慮してもらいました。頭がいるとうるさくていけねえ。その点、ラムさんなら、賢いし、優しいし、別嬪だし」
ジャバは、広げられた設計図の前で指揮を取るラムを見遣った。
「いいねえ……俺もあんな嫁さんが欲しいもんだ……」
目尻を下げる彼に、私は笑った。彼は、彼女が異教徒であることを知っているのだろうか?
「ジャバ、実は、機首をこんな風に変えて欲しいんだ」
私は、フックのついた機首の修正図を差し出した。
「へえ。何か取り付けるんですかい?」
彼は図面を睨んだ。
「ああ、ちょっとね」
「へい、わかりました!」
「済まないね、迷惑ばかりかけて」
「いえいえ、とんでもない! どうせ暇ですから」
私が頭を下げると、ジャバは慌てて手を振った。
「それにね、あっしにゃあ難しい話はわかりませんが 、公爵様のお気持ちは、何となくわかる気がするんです……」
彼は目を細めた。
「やるなって言われりゃあ、やりたくなっちまうのが人間の性分なんじゃあないですかね。あっしも小さい頃はそれでよくお袋に怒られた……ただね、今度の相手は神様だ。お袋にケツぶたれんのとは訳が違う。こりゃ、勇気がなけりゃあできることじゃありませんぜ。尊敬しますわ」
感慨深げに彼は呟いた。
「でも、ジャバもそれに一枚噛んでいるんじゃないのかい?」
私が指摘すると、彼は額を叩いた。
「そういやそうでした。神様よ、あっしに罰を当てないでおくれよ!」
「馬鹿が! 神様は忙しいんだ。おめえのやることなんかいちいち見ておられるか!」
そう言ってやってきたのはバードだった。
「それに公爵様はな、おめえみたいな、丸太ん棒のようにうすら単純なお考えなんかされてねえんだ。もう少し考えてものを言え!」
仲間を罵ると、バードは私を見た。彼は顔をしかめた。
「公爵様、実はちょっとまずいことになりまして……」




