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銀翼のキセキ ―空を封じられた世界で―  作者: 刹那メシ
第四章:青き力

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第10節:「嫌です……」

 やはり、私は主に嫌われているらしかった。その日の夜から、私は高熱を出した。掌の傷口から雑菌が入ったようであった。化膿止めを飲んだが、なかなか熱は下がらなかった。博士だけでなく、私自身も裁判でかなり参っていたのかも知れない。

 そして、私は夢を見た。私がいた。しかし、私は私ではなかった。私は(えびら)を背負っていた。隣にはザウテルがいた。彼も、今の彼ではなかった。熊の毛皮を着た、屈強な男であった。他にもう二人、顔のはっきりしない男がいた。そして、我々四人に何かを話しているのが、燃えるような赤い髪をした美男子であった。その凛々しい琥珀色の瞳は、どこかで目にした覚えがあったが、どうしても思い出せなかった。五人は、何かの決意に燃えていた。何かを成そうとしていた。彼らは必死であった。やがて、どこかの洞窟から、五人は一人の美少女を救い出した。その光り輝く長い金髪と、怯えたような瑠璃色の瞳に、私はクリスを見た。どうしてかはわからない。ただ、何の疑いもなく私はそう思った。五人は喜んでいるようであった。しかし、次の瞬間、身を切るような凍気が襲い、私は倒れた。手足の感覚が薄れていった。意識が遠のいた……

 額だけが冷たかった。関節が軋むように痛んだ。

 何時だろう? 私は身を起こした。額から落ちたタオルを拾おうとしたが、肘から先は言うことを聞かなかった。まだ駄目らしい。

 ベッドの隣りでは、椅子の上でクリスが寝息を立てていた。微かに口を開いた彼女のあどけない寝顔を、私はしばらく見つめた。そういえば、初めて出会った時にも、彼女は居眠りをしていた。七ヶ月ほど前になるだろうか。もう随分昔のような気がした。あの時は、こうなることなど夢にも思っていなかった。私の道を阻むものはただ一つ、風の龍だと信じて疑わなかった。博士の言う通り、私の自信には根拠がなく、決意には覚悟がなかったのかも知れない……。しかし、あの時の志を忘れた訳ではない。夢は今でも持ち続けている。そう、今だからこそ……

 クリスは目を覚ました。

「あっ、公爵様、起きてらしたんですか?」

「ああ、今し方ね……」

 彼女は毛布の上のタオルを拾い上げた。

「何時かな?」

「五(クロー)前です」

 五時か……そんなに眠っていた訳ではないようだ……

「お加減、いかがですか?」

「ああ、だいぶ良くなったよ……水をもらえないかな? 喉がカラカラだ」

「はい、今持ってきます!」

 クリスは急いで部屋を出ていった。水差しなら枕元にあるのだが……

 私はベッドから足を下ろした。グラスをつかもうとしたが、ガラスの容器は指の間を滑った。握力がまるでなかった。溜め息が漏れた。

「どうぞ!」

 クリスが持ってきたのは、金属製のコップだった。

「それは?」

「果汁です。作っておきました」

 彼女は腰を下ろした。

「あの……お持ちになれますか?」

 私は肩をすくめてみせた。

「飲ませてもらえると嬉しいんだけど……」

「は、はい……わかりました……」

 俯きがちに答えて、彼女は椅子を寄せた。コップが差し出された。私は口を近付けた。唇に触れるコップの縁はひんやりと冷たかった。

「ちょっと待った!」

 私は体を引いた。

「はい?!……何でしょう?」

「これ……何の果汁だい?」

「はい……リーブと、アンナと、ジェナロと、ピオと……それから人参(ロジット)です……」

 ! やっぱりそうか……私は深く息をついた。

「クリス、僕をいじめないでくれよ……」

 しかし、彼女は眉根を寄せた。

「お嫌いなのはわかりますが、滋養をつけて頂かないと、早くお元気になれませんから」

 私は、コップの中の橙色に濁った果汁を覗き込んだ。口の中が酸味を帯びた。

「……滋養、か……」

「どうか我慢なさって下さい」

 クリスのまなざしは真剣であった。私の身を気遣ってのことか……そんな目をされては、頑なに拒絶する訳にも行かなかった。

「……そうだな……せっかく作ってくれたんだから……」

 私は呼吸を整えた。

「じゃあ……一気にいかせてもらうよ」

「はい! わかりました!」

 クリスは、重大な仕事を言付かったような顔をしていた。恐らくは私もそうだったろう。橙色の敵が近付いた。

 落ち着け……毒をあおる訳ではないのだ……辛いのは一瞬だけだ……

 私はコップを勢いよく干した。舌の感覚を遮断させた。しかし、顎の付け根は鋭く引きつった。

「み、水を!」

「は、はい!」

 この時ほど、水を清澄な飲み物だと思ったことはない。私は喉を鳴らしてグラスを空けた。

「はあ……やっぱり駄目だ……」

 身を屈めて、私は息をついた。

「大丈夫ですか?」

「さあ? あんまり自信がないな……」

 顔をしかめる私に、クリスは肩を震わせて笑いを堪えていた。

「ご、ごめんなさい……ちょっと……」

「僕にとっては人生の一大事だったんだけどな……」

 私がふざけると――いや、実は半分は本気だった――彼女はついに吹き出した。私も笑った。何か、そういう気分だった。何故かはわからない。ただ、心の底から笑いたいと思った。永遠に笑っていたいと思った。

 だが、それは叶わなかった。

 クリスは不意に口を噤んだ。膝の上に置かれた小さな手が、固く握り締められた。

「クリス?」

 私は眉をひそめた。彼女の周りに、空気が重く立ち込めていくのがわかった。

「……このまま……」

 か細い声で、彼女は呟いた。

「このまま、時が止まってくれたらいいのに……」

「クリス……」

「置いてきます」

 急に立ち上がった彼女は、コップを持って部屋を出ていった。

 ……時が止まってくれたら……そう呟いた時のクリスの瞳には、今までにない深遠な悲しみの色があったような気がした。彼女が恐れているのは、法廷の下した単なる期限ばかりではない。

 彼女には、いつも笑顔でいてもらいたいと思った。それは私の身勝手だろう。よくわかっている。しかし、彼女の悲しげなまなざしは、私の心をも不安にさせる。彼女は何を想っているのか?……私はそれを知りたかった。痛切に、そう感じていた。


* * *


 自分の体の一部だというのに、手は全く動かなかった。金槌を握ることすらできなかった。歯がゆさを通り越して、私は腹立ちさえ覚えていた。

「公爵様!」

 格納洞の入口で、クリスは声を上げた。顔色が蒼ざめていた。

「まだ横になっておられなくてはいけません!」

 彼女は駆け寄った。

「どうして丸二日も眠っていたことを教えてくれなかったんだ! あと二十八日しかない。博士が戻られるまでに、できるだけ作業を進めておかないと……」

「でも、そのお体では!」

「そうだクリス、僕の右手に金槌を縛り付けてくれ。そうすれば何とか……」

 彼女は唇を噛み締めた。

「頼むクリス。僕一人ではどうしようもないんだ」

「……できません……」

 顔をそらして、彼女は言った。

「そんなことはないよ。ほら、こうしてここに……」

「できません!」

 クリスは、そばにあった金槌を後ろに投げ捨てた。鉄板を敷き詰めた洞内に金属音が反響した。

「クリス?!」

「まだ熱も下がっておられないのに……御無理をなさって、もっとお悪くなりでもしたら……」

 俯いた彼女の白い眉間には、深い皺が刻み込まれていた。

「クリス……」

 私は、感覚のない手で彼女の肩をつかんだ。

「僕の身を心配してくれるのはありがたいけど……所詮、一ヶ月後には死ぬ体なんだ。だから、その前に、僕は自分の正しさを証明したい。頼むクリス、言うことを聞いてくれ」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。瞳には涙が溢れ返っていた。

「ね?」

 私自身、彼女の泣き顔を見返すのは辛かった。私がおとなしく寝ていることで、彼女の涙が乾くのならそうしてやりたかったが、そういう訳には行かなかった。

「……嫌です……」

 震える唇から返ってきた言葉に、私は目を瞠った。

「クリス?!」

「嫌です」

 溢れる涙が頬に筋を引きながらも、彼女ははっきりと言った。

「嫌です……嫌です、そんなの……」

 クリスは私の胸にくずおれた。

「クリス!……」

 シャツにしがみつきながら、彼女は泣きじゃくった。

「……嫌です……嫌です……」

 繰り返し繰り返し、彼女は言った。胸元が冷たく濡れた。

 わかった……いや、既にわかっていたのかも知れない。彼女の持つカーヴィルアリスの瞳は、私に向けられたものだということを……。しかし、心のどこかで、やはり私は身分のことを考えていた。彼女が想いを押し殺していたように、私もそれをはぐらかしていた……

 いや! 私は頭を振った。本当はどうなのだ? それは偽りなきものなのか? 一時の気の迷いではないのか? 死を前にして、そう思い込んでいるのではないのか?

 クリスの髪の甘い香りが、私の胸を震わした。彼女をきつく抱き締めたい衝動に駆られた。

 違う! それは本心ではない! この状況に酔っているだけだ……私がそう思うのは、相手がクリスだからではなく、女性だからだ!……

 クリスはひたすら泣き続けていた。体中の水分を残らず絞り出すように、彼女は泣いた。私は――私はなす術もなく、ただ黙っていた。私はどうするべきだったのだろう?

 しかし、答えを出す前に、世界は破られた。

 突然の閃光が、白く照らし出された洞内に()()の影を映した。

 一瞬の静寂の後、凄まじい雷鳴が轟いた。急激に明るさを失っていく洞の裂け目の外に、白装束の男が立っていた。胸に刻まれた赤い龍頭の紋様が、切り裂かれた白い肌に噴き出す鮮血のように目に映えた。彼の手には禍々しい長大な剣が握られていた。

 悪寒が走った。

「クリス、逃げるんだ!」

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