第10節:「嫌です……」
やはり、私は主に嫌われているらしかった。その日の夜から、私は高熱を出した。掌の傷口から雑菌が入ったようであった。化膿止めを飲んだが、なかなか熱は下がらなかった。博士だけでなく、私自身も裁判でかなり参っていたのかも知れない。
そして、私は夢を見た。私がいた。しかし、私は私ではなかった。私は箙を背負っていた。隣にはザウテルがいた。彼も、今の彼ではなかった。熊の毛皮を着た、屈強な男であった。他にもう二人、顔のはっきりしない男がいた。そして、我々四人に何かを話しているのが、燃えるような赤い髪をした美男子であった。その凛々しい琥珀色の瞳は、どこかで目にした覚えがあったが、どうしても思い出せなかった。五人は、何かの決意に燃えていた。何かを成そうとしていた。彼らは必死であった。やがて、どこかの洞窟から、五人は一人の美少女を救い出した。その光り輝く長い金髪と、怯えたような瑠璃色の瞳に、私はクリスを見た。どうしてかはわからない。ただ、何の疑いもなく私はそう思った。五人は喜んでいるようであった。しかし、次の瞬間、身を切るような凍気が襲い、私は倒れた。手足の感覚が薄れていった。意識が遠のいた……
額だけが冷たかった。関節が軋むように痛んだ。
何時だろう? 私は身を起こした。額から落ちたタオルを拾おうとしたが、肘から先は言うことを聞かなかった。まだ駄目らしい。
ベッドの隣りでは、椅子の上でクリスが寝息を立てていた。微かに口を開いた彼女のあどけない寝顔を、私はしばらく見つめた。そういえば、初めて出会った時にも、彼女は居眠りをしていた。七ヶ月ほど前になるだろうか。もう随分昔のような気がした。あの時は、こうなることなど夢にも思っていなかった。私の道を阻むものはただ一つ、風の龍だと信じて疑わなかった。博士の言う通り、私の自信には根拠がなく、決意には覚悟がなかったのかも知れない……。しかし、あの時の志を忘れた訳ではない。夢は今でも持ち続けている。そう、今だからこそ……
クリスは目を覚ました。
「あっ、公爵様、起きてらしたんですか?」
「ああ、今し方ね……」
彼女は毛布の上のタオルを拾い上げた。
「何時かな?」
「五時前です」
五時か……そんなに眠っていた訳ではないようだ……
「お加減、いかがですか?」
「ああ、だいぶ良くなったよ……水をもらえないかな? 喉がカラカラだ」
「はい、今持ってきます!」
クリスは急いで部屋を出ていった。水差しなら枕元にあるのだが……
私はベッドから足を下ろした。グラスをつかもうとしたが、ガラスの容器は指の間を滑った。握力がまるでなかった。溜め息が漏れた。
「どうぞ!」
クリスが持ってきたのは、金属製のコップだった。
「それは?」
「果汁です。作っておきました」
彼女は腰を下ろした。
「あの……お持ちになれますか?」
私は肩をすくめてみせた。
「飲ませてもらえると嬉しいんだけど……」
「は、はい……わかりました……」
俯きがちに答えて、彼女は椅子を寄せた。コップが差し出された。私は口を近付けた。唇に触れるコップの縁はひんやりと冷たかった。
「ちょっと待った!」
私は体を引いた。
「はい?!……何でしょう?」
「これ……何の果汁だい?」
「はい……リーブと、アンナと、ジェナロと、ピオと……それから人参です……」
! やっぱりそうか……私は深く息をついた。
「クリス、僕をいじめないでくれよ……」
しかし、彼女は眉根を寄せた。
「お嫌いなのはわかりますが、滋養をつけて頂かないと、早くお元気になれませんから」
私は、コップの中の橙色に濁った果汁を覗き込んだ。口の中が酸味を帯びた。
「……滋養、か……」
「どうか我慢なさって下さい」
クリスのまなざしは真剣であった。私の身を気遣ってのことか……そんな目をされては、頑なに拒絶する訳にも行かなかった。
「……そうだな……せっかく作ってくれたんだから……」
私は呼吸を整えた。
「じゃあ……一気にいかせてもらうよ」
「はい! わかりました!」
クリスは、重大な仕事を言付かったような顔をしていた。恐らくは私もそうだったろう。橙色の敵が近付いた。
落ち着け……毒をあおる訳ではないのだ……辛いのは一瞬だけだ……
私はコップを勢いよく干した。舌の感覚を遮断させた。しかし、顎の付け根は鋭く引きつった。
「み、水を!」
「は、はい!」
この時ほど、水を清澄な飲み物だと思ったことはない。私は喉を鳴らしてグラスを空けた。
「はあ……やっぱり駄目だ……」
身を屈めて、私は息をついた。
「大丈夫ですか?」
「さあ? あんまり自信がないな……」
顔をしかめる私に、クリスは肩を震わせて笑いを堪えていた。
「ご、ごめんなさい……ちょっと……」
「僕にとっては人生の一大事だったんだけどな……」
私がふざけると――いや、実は半分は本気だった――彼女はついに吹き出した。私も笑った。何か、そういう気分だった。何故かはわからない。ただ、心の底から笑いたいと思った。永遠に笑っていたいと思った。
だが、それは叶わなかった。
クリスは不意に口を噤んだ。膝の上に置かれた小さな手が、固く握り締められた。
「クリス?」
私は眉をひそめた。彼女の周りに、空気が重く立ち込めていくのがわかった。
「……このまま……」
か細い声で、彼女は呟いた。
「このまま、時が止まってくれたらいいのに……」
「クリス……」
「置いてきます」
急に立ち上がった彼女は、コップを持って部屋を出ていった。
……時が止まってくれたら……そう呟いた時のクリスの瞳には、今までにない深遠な悲しみの色があったような気がした。彼女が恐れているのは、法廷の下した単なる期限ばかりではない。
彼女には、いつも笑顔でいてもらいたいと思った。それは私の身勝手だろう。よくわかっている。しかし、彼女の悲しげなまなざしは、私の心をも不安にさせる。彼女は何を想っているのか?……私はそれを知りたかった。痛切に、そう感じていた。
* * *
自分の体の一部だというのに、手は全く動かなかった。金槌を握ることすらできなかった。歯がゆさを通り越して、私は腹立ちさえ覚えていた。
「公爵様!」
格納洞の入口で、クリスは声を上げた。顔色が蒼ざめていた。
「まだ横になっておられなくてはいけません!」
彼女は駆け寄った。
「どうして丸二日も眠っていたことを教えてくれなかったんだ! あと二十八日しかない。博士が戻られるまでに、できるだけ作業を進めておかないと……」
「でも、そのお体では!」
「そうだクリス、僕の右手に金槌を縛り付けてくれ。そうすれば何とか……」
彼女は唇を噛み締めた。
「頼むクリス。僕一人ではどうしようもないんだ」
「……できません……」
顔をそらして、彼女は言った。
「そんなことはないよ。ほら、こうしてここに……」
「できません!」
クリスは、そばにあった金槌を後ろに投げ捨てた。鉄板を敷き詰めた洞内に金属音が反響した。
「クリス?!」
「まだ熱も下がっておられないのに……御無理をなさって、もっとお悪くなりでもしたら……」
俯いた彼女の白い眉間には、深い皺が刻み込まれていた。
「クリス……」
私は、感覚のない手で彼女の肩をつかんだ。
「僕の身を心配してくれるのはありがたいけど……所詮、一ヶ月後には死ぬ体なんだ。だから、その前に、僕は自分の正しさを証明したい。頼むクリス、言うことを聞いてくれ」
彼女はゆっくりと顔を上げた。瞳には涙が溢れ返っていた。
「ね?」
私自身、彼女の泣き顔を見返すのは辛かった。私がおとなしく寝ていることで、彼女の涙が乾くのならそうしてやりたかったが、そういう訳には行かなかった。
「……嫌です……」
震える唇から返ってきた言葉に、私は目を瞠った。
「クリス?!」
「嫌です」
溢れる涙が頬に筋を引きながらも、彼女ははっきりと言った。
「嫌です……嫌です、そんなの……」
クリスは私の胸にくずおれた。
「クリス!……」
シャツにしがみつきながら、彼女は泣きじゃくった。
「……嫌です……嫌です……」
繰り返し繰り返し、彼女は言った。胸元が冷たく濡れた。
わかった……いや、既にわかっていたのかも知れない。彼女の持つカーヴィルアリスの瞳は、私に向けられたものだということを……。しかし、心のどこかで、やはり私は身分のことを考えていた。彼女が想いを押し殺していたように、私もそれをはぐらかしていた……
いや! 私は頭を振った。本当はどうなのだ? それは偽りなきものなのか? 一時の気の迷いではないのか? 死を前にして、そう思い込んでいるのではないのか?
クリスの髪の甘い香りが、私の胸を震わした。彼女をきつく抱き締めたい衝動に駆られた。
違う! それは本心ではない! この状況に酔っているだけだ……私がそう思うのは、相手がクリスだからではなく、女性だからだ!……
クリスはひたすら泣き続けていた。体中の水分を残らず絞り出すように、彼女は泣いた。私は――私はなす術もなく、ただ黙っていた。私はどうするべきだったのだろう?
しかし、答えを出す前に、世界は破られた。
突然の閃光が、白く照らし出された洞内に三つの影を映した。
一瞬の静寂の後、凄まじい雷鳴が轟いた。急激に明るさを失っていく洞の裂け目の外に、白装束の男が立っていた。胸に刻まれた赤い龍頭の紋様が、切り裂かれた白い肌に噴き出す鮮血のように目に映えた。彼の手には禍々しい長大な剣が握られていた。
悪寒が走った。
「クリス、逃げるんだ!」




