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銀翼のキセキ ―空を封じられた世界で―  作者: 刹那メシ
第四章:青き力

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第9節:亡霊の白い羽根

 霧が立ち込めているのだろうか。辺りは一面真っ白であった。妙に平面的な白い闇が、私の周りを取り囲んでいた。私は、ここで何をしているのだろう?

「……ラスティ……」

 どこからか、声が響いた。母のような、慈しみに溢れた声音であった。しかし、母ではない。母なら、私のことを「ヴァリス」と呼ぶはずだ……

「ラスティ」

 二度目の呼び声に、私は振り返った。背後には、白いドレスを身に纏った少女が立っていた。

「クリス?……」

 三ツ編みを解いた彼女の赤い髪は、吹いてもいない風に吹かれて、ゆっくりと揺らいでいた。穏やかな光を湛えた美しい鳶色の瞳が、じっと私を見つめた。

 やがて、艶やかな薔薇色の唇が、かすかに微笑んだ。彼女は、腰に結ばれたドレスの長い端をそっとほどいた。肩先から、白い布が音もなく滑り落ちた。

 ドレスにも増して白い裸身が、私の目の前に現れた。彼女の、汚れのない瑞々しい肉体は、その全身から馨しい芳香を発しているようで、私の頭の芯を痺れさせた。クリスは、露わになった豊かな胸元を隠すこともなく、微笑みながら私に近付いた。

 違う。これはクリスではない。彼女はこんなことをするような子ではない。私の潜在的な願望が具象化しただけだ……心のどこかで、覚醒した私が呟いた。

「……さあ……」

 本物ではないクリスが、呆然と立ち尽くす私に手を差し延べた。私の思考は、膠化したように意識の表層にへばり着いて、考えようとする私の意志から、その滑らかさを奪っていた。ふと、私は彼女の白い手を見た。折れるほどに繊細な指先には、その指に負けない長い爪が、いつの間にか生えていた。私は鈍い驚きを覚えた。それは、私の肌を突き刺す鋭さを持ってはいたが、その艶のある鮮やかな桜色は、棘を隠す薔薇(エスメーラ)の花のように、狭窄した私の心を奪った。

「……どうしたの? さあ……」

 クリスは微笑んだ。薄く開いた唇からは、八重歯と言うには長すぎる歯が覗いていた。牙?……心に、ようやく疑念が湧き上がった。風に揺れる燃えるような前髪の間からは、天を衝くような白く長い角も生え出している。

 人だ……心の隅にいるもう一人の冷静な自分が呟いた。彼女の姿は、主に雷の矢によって撃たれる以前の人の姿であるに違いない。……何故、クリスはそんな姿をしているのだろう?……

「さあ、手を出して、ラスティ。一緒に行きましょう」

 二本の牙を見せる彼女の微笑みに、妖しさはなかった。胸から腰、太腿へと、美しい曲線を描く彼女の肢体も、魅力的ではあったが、官能的ではなかった。彼女は、いつも私に見せる、屈託のない輝かんばかりの笑顔で誘った。……どこへ行こうというのだろうか?

「……先に行くわね」

 クリスが言った。次の瞬間、彼女の背中に、巨大な翼が広がった。目も眩むような純白の翼は、風を孕んで、銀の光を振り撒くように大きく震えた。クリスの姿は、主と見紛うばかりの神々しさで、鈍化した私の意識を灼き尽くした。全身が光芒を放っているようであった。 彼女は羽ばたいた。体がふわりと宙に舞い上がった。

「さあ、ラスティ、いらっしゃい……」

 そう言うと、クリスは光の降り注ぐ天へと昇っていった。待ってくれ!……心は叫んだが、体は動かなかった。大地が突如ぬかるみと化して、両足の自由を奪っていた。クリスの姿は瞬く間に小さくなり、光の中へと消えていった。輝きに満ちる天からは、彼女の背中に生えた白い羽根が、泡雪のようにヒラヒラと舞い落ちてきていた……


 私は飛び起きた。白い闇は消え、辺りには薄暗い空間が広がっていた。ツァフィア号の船室のベッドの上だとわかるまでに、しばらくの時間がかかった。

 夢か……額の汗を拭おうとした私は、痛みに声を上げた。手には包帯が巻かれていた。そうだ、昨日の救世団の凶刃と龍の降天で……私はこの程度で済んだが、ラムは左大腿骨骨折と、右肩を九針縫うという重傷を負った――リーデンブロイ伯爵を始めとする救世団の刺客達は、『黒鱗』の青銅の牙の前に、一人残らず帰らぬ人となっていた――。医師が博士担当の人でなければ、途方に暮れるところであった。彼は、彼女の身元や、刺青を隠した額のバンダナについては、深く詮索しなかった。しかし、ラムは完治するまでの一ヶ月間、テレシアス病院への入院を宣告された。

 ……大切な人々が次々と傷付き、私の傍を離れていく……主を恐れぬ私に与えられた天罰だとでもいうのだろうか?……しかし、それでも私は諦められない。諦めることはできない。それでも……

 寝室を出た私は、艦尾の砲塔に登った。まだ夜は明け切っていなかった。暗い地平線の東の方だけが、うっすらと白み始めていた。昨日の余韻で、砂漠を渡る風は強かった。私は深く息を吸い込んだ。

 ふと、私は目を細めた。風の中に、何かが舞っていた。それも一つではない。白いものであった。雪のはずはなかった。もう丙の月だ。

 紙切れか?……ほとんど重さを持たぬかのように、それはヒラリヒラリと吹く風に踊っていた。砲塔に近付いた一つを、私は両手を伸ばしてつかみ取った。

 羽根であった。しかもかなり大きい。三十ニーリルはあるだろうか。何の鳥のものだろう?

 白く艶やかな美しい羽根は、白鳥(レダ)のものにしてもまだ大きかった。白鷹? そんな鳥がいるのならの話だが……ここに舞っているのは、全部そうなのだろうか?

 こんな光景を、どこかで見た覚えがある……そんな考えが、不意に頭の中に浮かんだ。かなり最近だったような気がするが……

 そうだ! 今朝の夢だ。翼を持ったクリスが天に昇っていった後、今のように、白い羽根が空から舞い落ちてきたのだった。そう、ちょうど今のように……

「……クリス?……」

 私は踵を返した。背後の梯子を飛び下りると、私は電灯のつかない船内を走った。そんなはずはない……そんなことはあり得るはずがないのだ!……しかし、この時の私は、『考える』という行為を見失ってしまっていた。

「クリス!」

 暗闇につまずきながら、私は叫んだ。まさか?!……博士や、ザウテルや、ラムさんや、そしてクリスまでが、私の前から去っていこうというのか?!……

「クリス! いるんだろう?! 返事をしてくれ!」

 汗がこめかみを伝った。募る不安と忍び寄る恐怖とが、私の胸を絞め付けた。声が聞こえた! 艦首の方からだった。激しい足音を立てて、私は走った。

「クリス!」

 人の気配のする船室のドアを蹴破るようにして、私はその中に飛び込んだ。その部屋が何であり、中で彼女が何をしているのか、私には考える余裕がなかった。

 いた! いつもの赤毛とソバカスの顔が、そこにはあった。が、しかし――

 クリスは短い悲鳴を上げた。半裸の彼女は、止め具をかけることができずにずり落ちそうになる胸莢(レフェス)を抱き止め、驚きと怯えが入り混じった瞳で、無礼な侵入者を見つめた。

「ごめん!」

 言うよりも早く、私は部屋の外に跳び退いていた。後ろ向きでドアを閉めると、私は喘ぐように息を継いだ。何ということだ! 婦女子の着替えを、これほど堂々と覗いてしまうとは!……鼓動が全身を震わした。差恥で、顔が灼かれるようであった。ほんの一瞬ではあったが、脳裏には、クリスのあられもない姿が鮮烈に灼き付いてしまっていた。それは、さっき見た夢の中の美しい彼女と重なって、余計に胸を高鳴らせた。

「あの、どうかされたんですか?……」

 ドアの向こうで、クリスがためらいがちに尋ねた。大声で名前を呼びながら、ノックもせずにドアをぶち開けたのだ。どうかしない訳はなかった。

「い、いや、何でもない。いてくれたらそれでいいんだ」

「でも……」

「本当にいいんだ。ごめん!」

 私は彼女の部屋を後にした。一刻も早く、そこから立ち去りたかった。人生において、これほどの失敗はまずないだろう。クリスが持つ私のイメージは、地に堕ちたはずだった。


* * *


 食卓には、気まずい雰囲気が漂っていた。

「どうぞ……」

 差し出されたミヌキの盛られた皿を受け取りながら、私はクリスの顔を窺った。鳶色の瞳は、視線が合うのを避けているようであった。

「さっきは、ごめん……」

「いえ」

 彼女は笑ったが、笑顔はぎこちなかった。

「軽蔑されても仕方のないことだけど……」

 私の言葉に、クリスは紫茶(リラ)を入れる手を休めた。

「夢を見た。背中に翼の生えた君が、僕を残して天に昇っていく夢だ。思わず不安に駆られてしまって……まるで子供のようだろう?……ごめん、許してくれ……」

 卵の黄身を睨みながら、顔をしかめて話す私を、クリスは驚いたような瞳で見つめていた。

「きっとお疲れなんですよ」

 ポットを置くと彼女は言った。

「そうかも知れないな……」

 私はナイフとフォークを手にした。席についたクリスは、手を膝の上に置いたまま、しばらく俯いていた。

「私は……」

 やがて、彼女の唇が小さく動いた。

「私は……望まれる限り、いつまでも公爵様のお傍におります……」

「え?」

 思わずナイフの動きが止まった私に、はにかみがちに微笑むと、クリスは小さな流し台へと立ち上がった。

「昨日はすみませんでした。大声で、あんなことを言うなんて……」

 私に背を向けたまま、ボールに水を溜めながら、彼女は言った。

「公爵様に言うべきことではありませんでした。つい取り乱してしまって……」

 話す彼女の後ろ姿を、私は眺めていた。水色のブラウスに、今朝の白い背中が重なった。そして、夢の中の彼女の姿も――そう、確かにあれは夢だった。現に彼女はここにいる。しかし――

 彼女は昨日の刺客のことを知らない。私とラムの怪我は、当然風の龍によるものだと思っているはずであった。救世団が私の命を狙っていることを、クリスには知られたくなかった。それは、あまりにも刺激が強すぎる。それでなくとも、私に下された罰は、彼女にとって十分に衝撃的なのだ。彼女に余計な心配をかけさせる訳には行かなかった。また、昨日のような刺客が現れることがあれば、彼女を守ってやれるのは私しかいない。私は懐に手をやった。そこには、今朝用意した護身用の短剣が忍ばせてあった。

 彼女までを失うものか……

 生地の上から、私は柄を握り締めた。

「そうだクリス、朝食が済んだらちょっと手伝ってくれ。発電機を修理する。この手じゃあ、うまくできる自信がないからね」

 強い決意を胸の中に隠した私は、平静を装って話しかけた。


* * *


「昨日はひどい嵐じゃったの」

 舷窓を降りると、突然声がした。思わず私は身構えたが、声の主がそんな警戒など必要としない人物であることに、すぐに気付いた。

「おはようございます、シェダル殿」

 息をついた私は、予備のプロペラを抱え直すと頭を下げた。クリスも道具箱を持って降りてきた。

「お陰で、杖がどこかへ飛んでいってしもうた。困ったもんじゃ」

 シェダルは笑った。それほど困った風でもなかった。

 彼は、この不浄の地の一体どこに住んでいるのだろう。風の龍の降天にも耐えるくらいだ、掘っ立て小屋のはずはあるまい。岩場の洞窟か何かか?……それに、食事はどうしているのかも不思議であった。彼と出会って既に半年以上になるが、この隻眼の老人には謎が多過ぎた。

 ふと思い付いて、私は尋ねた。

「シェダル殿は、ここに住むようになって三千年たつと博士から伺いましたが?」

「そうじゃな。それぐらいはたっておるじゃろうな」

 彼の笑顔に内心息をつきながら、私は続けた。

「今朝方、風に舞う白い羽根の群れを見ました。かなり大きなものです。何の鳥のものか、ご存じありませんか? 」

 シェダルは左目を瞠った。

「ほう……あれをご覧になったか……」

「ご存じなんですね?」

「うむ。それは、シンの亡霊じゃ」

「シンの? 亡霊?!」

 私は眉をひそめた。あのシンの事か?!……

「そうじゃ。主の怒りを受け、辛苦に満ちた生を送ったシンの魂が、失くした白い羽根となって、かつての彼の王国の周りを漂い、世を彷徨っておるのじゃ……」

 険しい表情でシェダルは言った。

「まさか?! 私は、その羽根をこの手にしたんですよ!」

 そう、取り乱した時にどこかにいってしまったが、私は確かにそれをつかんだ。

 彼は私の顔を見つめた。

「クロネッカ殿、目に見えるものだけが、世のすべてではない。例えば、お主らが求めておる真理はどうじゃ? 栄光は? 誇りは?……それらは決して手には触れられぬが、しかし確かにある。逆も同じじゃよ。触れるからといって、それが(うつつ)のものとは限らぬ。世の中には、目には見えても実のないものが数多くあるからのう……。目を閉じても現は見え、覚めていても夢を見ることはできる。夢と現とは紙一重じゃ。この二つを分かつもの、それはその者の意志ではないのかな。意志弱き者には夢で終わることでも、意志強き者には現とできる。それをお忘れにならぬことじゃ」

「意志の……」

 シェダルの言葉は、深い重みを持って胸の中に納まった。あの白い羽根は、私のふとした気の弱さが招いた幻だったというのだろうか?……

「おっと、おしゃべりが過ぎたようじゃの。風車の修理があるのじゃろ? さあ、行かれよ。ワシは失礼するとしよう」

 黒いボロを翻して、シェダルは風の中を去っていった。

 意志の強さが、夢を現実にできる……私は考えた。もしそうなら、迫り来る冷酷な現実を、強い意志の力で夢に変えることもまた可能なのだろうか……

「公爵様?」

 クリスが私の顔を覗き込んでいた。

「ああ、ごめん。行こうか?」

「はい」

 我々は歩き出した。私が見た夢は、夢のままで終わってくれるのだろうか? それとも……そして、私には、現実としなくてはならない夢もあるのだ。

 丙の月三十一日。期限は確実に迫っていた。

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