第2節:力を尽くしてこそ
「どうなんですか?」
私の問いに、医師は眼鏡をかけ直した。
「過労によるものですね。大丈夫、十日も安静にしていれば治りますよ」
「そうですか、十日……」
手放しでは喜べなかった。博士の体が第一ではあったが、時間はそれほど寛容ではなかった。
「公爵様、裁判での御発言、お聞きしました。私は公爵様を信じております」
気が付くと、医師は思いがけないことを口にしていた。
「何のお役にも立てないとは思いますが、せめて、博士のことは私どもが責任を持って看護致します。御安心下さい」
徴笑む医師に、私は戸惑いを感じずにはいられなかった。
「そうですか。よろしくお願いします」
「いえ!……あの、公爵様……」
彼は、歳に不相応な恥じらいを見せた。
「何か?」
「その……握手をしては頂けませんか?」
私は拍子抜けした。五十近い男性が、二十四の青二才に求めるようなことではなかった。
「……構いませんよ……」
差し出した右手を、彼はしっかりと握り締めた。
「ありがとうございます!……では、失礼致します」
医師は、足取りも軽く廊下の向こうへと歩き去った。その後ろ姿に苦笑いしながら、私は病室へと戻った。
「済まんね……」
私の姿を認めると、博士は弱々しく呟いた。
「裁判での心労が祟ったんですよ。しばらく安静にしていれば、すぐに治るそうです」
私は椅子に腰をかけた。
息をつくと、博士は白い天井を見上げた。
「きっと罰が当たったのだ……」
「そんな弱気なことをおっしゃらないで下さい。博士らしくありませんよ」
私は笑ったが、博士は天井を見据えたままだった。
「そうではない……ラスティ君、私は君をリウヴィル号に乗せるつもりはなかったのだよ」
「え?」
熱のせいで、うわごとを口走っているのだろうか?……
「君に命を賭けさせる訳にはいかなかった。やはり君はクロネッカ家の当主なのだ。世界が君を必要としている。昇空機に乗るのは、世に何の柵も持たぬ私でなければ……」
「しかし……あの日、図書館で、博士は私のことを『共同研究者』と呼んでくれましたよ」
私は動揺を感じずにはいられなかった。
「……あれは、方便だったのかも知れん……」
博士の淡々とした口調は、妙な真実味を持って私の耳に届いた。
「しかし、博士にはクリスがいるではありませんか! 彼女はどうするんです?!」
博士は目を閉じた。
「……彼女名義の口座を作っておいた。博学会時代に、私が開発した小型エンジンによる特許料百十三オルクギネッツが入れてある。君にとっては大した金額ではないだろうが、それが、私が彼女にしてやれることのすべてだ。私が死んでも、しばらくの間彼女が生活に困ることはないだろう……」
「確かに、それだけあれば、一生生活に困ることはないでしょう! しかし、そういうことではないはずです!」
私は立ち上がっていた。
「……わかっている……」
博士は微笑んだ。
「私は間違っていた。今回のことで、それがよくわかった……」
灰色の瞳が窓の外を見つめた。
「……世界は君を必要としている。それは確かだ。ただ、それに答えるために、君は飛ばなくてはならない。それが君の使命だ。私はそれを阻もうとしていた。だから罰を受けたのだ……」
私は眉をひそめた。
「あの予言を信じられるのですか?」
「おかしいかね? しかし、君は何故主を信じなかったのだ? 空を飛ぼうという君の夢を、主が阻んでいたからではないのかね? 今、主は君と共にある。信じない理由は、どこにも見当たらないように思うが?……」
「しかし……」
思いあぐねる私の顔を、博士は見つめた。
「私のことはもういい。さあ、行きたまえ! 銀の翼と栄光が君を待っている。時は止まってはくれんぞ。力を尽くしてこそ、予言は現実のものとできるのだ。私もすぐに行く。さあ!」
心強い言葉だった。胸の裡から、希望の熱泉が湧き上がってくるような気がした。そう、私には成すべきことがある! そのために、私は生き長らえているのだ!
だが――
リューダー卿の突然の死が、未来に大きな影を落としたことは否めなかった――
* * *
春風が吹き抜ける渡り廊下で、私は意外な人物と対面した。
「叔父上?! どうしてこちらへ?」
しばらく見ないうちに、叔父は急に老け込んだようであった。髪にも白いものが混じっていた。
「アルキュオネを連れ戻しに来たのだ。そしたら、車寄せでお前の馬車を目にしてな。看護婦に訊いてきた」
叔父の語り口は穏やかであった。彼はまじまじと私の顔を見つめた。
「少しやつれたな……」
「叔父上の方こそ」
私の視線につられて、自分のこけた頬に手をやった叔父は苦笑した。
「どうだ? 少し歩かんか?……」
テレシアス病院の中庭は、萌え出たばかりの緑が目に眩しかった。
「ダランベール侯爵から話があった。甥に娘を近付けるなと。どんな教育をしているのかと怒鳴られたよ……」
美しく刈られた植木の間を歩きながら、叔父は話していた。
「では、やはりリーデンブロイ家と?」
「いや、縁組の話は向こうから断わってきた。魔王の従妹など要らぬそうだ……。私が来たのは、あの子の身を案じたからだ。有罪が確定したからには、例え傍系であってもクロネッカ家、世間の無思慮な連中に、どんな仕打ちをされるかわからんからな……リューダー卿の話は聞いたか ?」
叔父の話が忌まわしい話題に触れて、私は息苦しさを覚えた。
「はい……」
「自殺のはずはないだろう。となれば……」
心の腐食するような沈黙があった。
「私の心配していることは、アルキュオネにもわかっていると思う。逆らいはしないだろう」
重苦しく呟くと、叔父はベンチへと腰を下ろした。
「しかし、私はエッセンニーカのことを誤解していたのかも知れん……奴が、お前のためにあんなことまでするとはな……。アルキュオネは奴の心根を見抜いていたのだな……」
ざわめくメリクの枝葉を見上げながら、叔父は自らの甘さを悔いるように苦笑いを浮かべた。芝生に舞い落ちた桜の花びら達が、風に揺らいでいた。
「……これからどうするのだ?」
視線を合わせぬまま、叔父は尋ねた。
「作りかけの新型昇空機があります。まずはそれを完成させます」
「不浄の地でか?」
私は一瞬答えに迷った。
「はい」
「そうか……」
風が吹く度に、桜の花びらが、まるで波のように緑の草の砂浜へと打ち寄せていた。
「……お前に一つ頼みがある……」
桜の舞いに目を細めながら、叔父はゆっくりとその言葉を口にした。
「何でしょうか?」
その頼みは、気ままな主が起こした、ちょっとした奇蹟に等しかった。私の顔を見つめると、叔父はこう言ったのだ。
「私に、その昇空機を見せてくれないか?……」




