第1節:思惑と陰謀
残された時間はあと一ヶ月――四十二日。いや、正確には三十七日だった。しかも、二日は既に過ぎている。期限内にリウヴィル号を完成させなくては、執行猶予をもらった意味がなかった。
私は、洋服タンスの中から取りあえず必要な衣類を鞄へと詰め込んでいた。よほどの事がなければ、一ヶ月間屋敷には帰らないつもりであった。
ドアがノックされて、メイドが入ってきた。口の閉まらない鞄に悪戦苦闘している私を目にした彼女は、慌てて駆け寄った。
「旦那様、そういうことは私共にお任せ下さい」
「いや、これくらい自分でできるさ」
私は断わったが、鞄は取り上げられてしまった。
「二つに分けられた方がよろしゅうございますね」
押し込まれた衣類を取り出しながら、彼女は言った。その後ろ姿を、私はしばらくの間見つめていた。
「リリィ……」
ふと自分でも気付かぬうちに、私は彼女の名前を口にしていた。
「はい?」
手を休めて、彼女は振り返った。後ろで束ねた浅葱色の髪の房が揺れた。
「……いや、何でもない……」
庭師とメイドとの間に生まれた彼女は、私と同じ二十四年間をこの薔薇屋敷で過ごした。彼女にとっても、ここは我が家であった。私はそれを奪うことになるのか……
「これでいかがでしょうか?」
並んだ二つの鞄に、私は頷いた。
「ありがとう、助かったよ」
「いいえ」
彼女は八重歯を見せた。
「ところで、何か用事があったんじゃないのかい?」
私が言うと、彼女は飛び上がった。
「そうでした! 只今、近衛府のアマルティア様がお見えになっております。お知らせするのが遅れました! 申し訳ございません!」
リリィの忘れっぽさは、メイド長アリアの頭痛の種であった。仕え始めて五年にもなるというのに、とアリアは嘆いているが、リリィにしてみれば、別に呆然としている訳ではなく、目の前に起こった新しい仕事に集中するあまり、それ以前のことが頭から吹き飛んでしまうらしかった。私にとっては、それがとても微笑ましく思えた。特に、今はそうであった……
* * *
近衛府と聞いて、朱の胴衣に金の甲胃を身につけた将校を想像していた私だったが、どうやらお忍びのようであった。白の乗馬服に黒いブーツの来客は、しかも女性であった。その顔は、新当主として王への謁見を許された時に、宮廷で目にした覚えがあった。
短く切った亜麻色の髪の女性は頭を下げた。
「近衛府第二将位マユーリ=アマルティアであります。公爵に対し、このような姿でお目にかかる無礼をお許し下さい」
「構いません、私は爵位を剥奪された身ですから。二、三日中には、環座会の方から正式に通告があると思います」
アマルティア卿は驚いて顔を上げた。
「そうでありましたか。それは……」
「まあ、どうぞおかけください」
我々は腰を下ろした。
「本日は、王の代理で参りました。今回の事件とその判決につきましては、王もお心をお痛めになっておいでです」
「このように世間に混乱を招いてしまい、本当に申し訳なく思っております」
私は頭を下げた。
「いえ、そうではございません」
そう言った卿は、意外にも微笑みを浮かべた。
「王は、聖人カルカの書いた原稿に興味をお持ちになられ、現在王立院の各局を通じて調査をお始めになっておいでです。王は、もし神説典の記述が偽りのものであり、ヴァンデミアトス=リューダー司祭が言われたように、空を飛ぶことが罪ではないのなら、かつて一度だけ空を飛ぶことを主に許された五大英雄の末裔であるクロネッカ家こそが、再びその栄光を手にするにふさわしい者であるとおっしゃっております」
「王がそのようなことを?!」
アマルティア卿は頷いた。
「できることならば、王室の権限によって公爵をお助け申し上げたかったのですが、二百年の間守られ続けてきた法を犯す訳にはいかず、刑の執行を一ヶ月引き延ばす程度にしか力及ばなかったことをお謝り申し上げるよう、言付かって参りました」
私は思わず腰を浮かせていた。
「では!……猶予期間中、自由な行動が許されているというのも?!」
「はい」
そこで、卿の眉宇は翳りを見せた。
「恥を忍んで申し上げますが、近年、聖摂院の唯我独尊・傍若無人振りは目に余るところがあり、王立院の各局もその権限を脅かされつつあります。王室も例外ではございません。かつて、王家のため、国のために命を賭して戦ったクロネッカ家に対し、このような形でしか御支援申し上げられぬこと、何とぞ御容赦下さい」
彼女の淡い水色のまなざしは真摯であった。そこには、まるで彼女自身の思いであるかのようなひたむきさが宿っていた。しかし、それはクリスのものではない。逆境に耐え忍ぶのではなく、自ら運命を切り開かんとするような強さがあった。王に忠誠を誓うが故の、騎士としての思いの強さであるのだろう。
「王の御尽力には感謝の言葉もございません。何としても、我が行いの正しさを証明してご覧に入れます」
私の宣言に、アマルティア卿は嬉しそうに微笑んだ。
「求める心に偽りがないのなら、見事門を開いてみせよ……これが王の御言葉です。公爵の御成功を、私も陰ながらお祈り申し上げております」
* * *
揺れる馬車の中で、私は考えていた。ティレリナ王室は、千年前の約束を未だに守ろうというのか。もちろん、それだけの理由からではないだろうが、彼らが力を貸してくれたのは事実であった。私は因縁めいたものを感じ始めていた。『彼の訪れを妨げることはできない』……カルカの書の一節が、ふと思い出された。墜落した聖摂院……知恵は博土、技はラム、志はクリス、力はザウテル、そして良心の炎はリューダー卿か……当てはめようと思えばできないことではなかった。すると、私は『門を開く者』であり、妨害にもかかわらず空を飛ぶことに成功した私は、そのことで聖摂院を崩壊へと導くのか……
「馬鹿馬鹿しい!」
私は頭を振った。紙に記されるのは過去だけで十分だ。達成できるとわかっていることに挑むことに、どんな意義がある。私の未来は私自身のものだ。歩く前についた足跡など、誰が踏もうとするものか。……第一、私はそんな偉大な存在などではなかった。
窓の外に、焼け落ちたザウラクの鉄工所が見えてきた。
ああしてしまったのはこの私だ。私は、多くの人々の犠牲の上に立っている。この血塗られた手で開けるような時代の門なら、その先に広がる世界は、決して好ましいものではないだろう。私は天を目指す。それは、自らの心の安寧を求めるからなのだ。これほど利己的な救世主がいるだろうか。
馬車が止まった。壁にヒビの入った、古い平屋の前であった。車を降りた私は、煤けたドアをノックした。
「博士、お迎えに上がりました 」
返事はなかった。ノブに手をかけると、ドアは自然に開いた。蝶番が札んだ。
「博士、ラスティリアードですが……」
私は薄暗いリビングを覗き込んだ。家宅捜索が入ったままのはずだったが、博士がやったのだろう、部屋の中はきちんと片付いていた――というより、全く変わっていた。天井は綺麗に漆喰が塗られ、壁にも明るい色の壁紙が貼ってあった。テーブルも椅子もソファーも、以前部屋の中にあったものはすべて新調してあった。真新しい黒檀のテーブルの向こうに、博士は立っていた。
「博士……」
私が声をかけると、博士はゆっくりとこちらを振り向いた。その瞬間、私はただならぬ気配を感じ取った。
「……ラスティ君……」
すっかり血の気の失せた顔で、呻くように博士は言った。微かに震える手には、新聞が握られていた。不安に駆られて、私は博士のそばへ駆け寄った。
「どうしたんですか?」
尋ねる私を見返す灰色の瞳には、尋常でない戦慄の光が広がっていた。
「今朝の……新聞は読んだかね?……」
「いえ、まだですが……」
「見たまえ……」
皺だらけの新聞が差し出された。
紙面に印刷された大きな活字に、一瞬、辺りは暗黒の闇に閉ざされた。
『リューダー司祭、投身自殺』
背筋が大きく震えた。全身が栗立った。
『丙の月二十六日、卿はカラウリア島行きの船のデッキから海に身を投げ……』
その後は視線が泳いで、記事の内容はまったく頭に入らなかった。
「……馬鹿な?!……」
あまりの驚愕に捕らわれて行き場を失ったその言葉を、私は無理やり喉から押し出した。口の中に、血の臭いが広がった。
「そんなはずはない! 司祭が自分の命を断つはずが……第一、何故そんなことを!」
開いた口から喚き声が迸るのを、私はどうすることもできなかった。リューダー卿が、自殺など!……彼は、一ヶ月後の私の飛行を楽しみにしていると言ったのだ! そう言っていたのだぞ! それを!……まさか!
「……口を、封じられたのだ……」
喘ぐようにそう言った博士は、不意によろめいてテーブルに手をついた。
「博士?!」
そのまま床に倒れ伏した博士に、私は手にした新聞を投げ出した。
「どうしたんです、博士?! 大丈夫ですか?!」
抱き起こした博士の痩せぎすの体は、驚くほど熱かった。
「博士、しっかりして下さい!」
私の声にも、博士は弱々しく呻くだけだった。
「ワズン、ちょっと来てくれ!」
沸き上がる恐怖に身を震わせて、私は叫んだ。




