第17節:風の吹く窓際で
次の日、私は使用人のすべてを大広間に集めた。執事のボルツ、料理長のバロー、メイド長のアリア、御者のワズン……総勢三十名の使用人達は、複雑な面持ちで私の言葉を待っていた。
「今日ここに集まってもらったのは他でもない……」
私は切り出した。
「もうみんな知っていると思うが、裁判で、私は有罪と裁かれた……」
使用人達は、一様に顔を伏せていた。大気が密度を増したかのように、我々の頭上に重くのしかかった。
「……しかし、私は自分の信じる道を曲げるつもりはない。刑の執行ギリギリまで、私は、私の運命と戦うつもりでいる」
私は力強く言い切った。爺や達は沈黙を守っていた。
「世間の風当たりは厳しくなるだろう。例えクロネッカ家に仕える者であっても、謗りや蔑みを受けることになる。私は、その苦しみをみんなに味わってもらおうとは思わない。これは私自身の問題だからだ」
話しながら、私は口を噤む彼らの顔を見回した。
「……よって、本日を以て、使用人全員に暇を出そうと思う。これまでよく我がクロネッカ家に尽くしてくれた。礼を言う。本来ならば、今後の務め先を紹介するべきなのだろうが、何分私は貴族界から追放された身……みんなに新しい職場を提供するだけの力は、既にない。わかってくれ……。ボルツにこれまでの手当と銭別を渡してある。各自受け取るように。それでしばらくは暮らしに困ることもないと思う。私からは以上だ。早速、荷物をまとめてほしい……」
私はそれだけ言って、大広間を後にした。背後で、声にならない声が沸き上がるのに構わず、私はドアを閉ざした。
いつもとは違う、寂しげな装いを見せる白い廊下を、春風が渡っていった。前髪がそよいだ。私は目を細めた。
肩の荷が一つ降りた……そんな感じだった。明日からは、この広い屋敷に私だけが残ることになる。まあ、それもいいではないか……
私は歩き出した。靴音が、静まり返った屋敷の中に響いた……
* * *
風には、草の匂いが感じられた。書斎の窓を開け放った私は、父の愛用した椅子に腰を下ろして、全身で風を浴びていた。静かだった。時折、外の大通りの並木から、桜の花びらが舞い込んできていた。ふと、私は壁に掛けられた肖像画に自をやった。
第三十三代クロネッカ家当主ダイリンシュタット=ドゥエール=クロネッカ。私の祖父であった。民衆を風の龍の恐怖から救った偉大なる人物。家の財を惜しげもなく使い、このカウスメディアの街に千を超える退避坑を築いた真の慈善家。しかし、祖父としての彼を、私はよく覚えていない。気難しい人物であったということは、うっすらと記憶に残っている。今の家の有り様を見たら、彼は何と言うだろうか?……そして父は?……
父は、祖父のような偉業を為した人物ではなかった。若き頃には、放蕩息子と囁かれたこともあったと聞く。父は、ある意味では不幸だったのかも知れない。彼は「スプレッツァード」ではなく、「ダイリンシュタットの息子」として認識され、常に祖父と比較されていた。
私はふと考えた。父の夢は何だったのだろうと……そう、私は父と、夢について語り合ったことはなかった。父は、私の夢を聞こうなどとはしなかった……「お前が決めた事なら、お前の好きにするがいい……」……この椅子に座り、眼鏡の奥から、上目使いにそう呟くのが父の口癖だった。それは、あるいは祖父とのことがあったからかも知れない。臨終の際に、父は私にこう言い残した。「息子よ、思うことを為せ」と……父は、自分の人生において何を為したかったのだろうか?……
私は机の引き出しを開けた。中には通帳が一冊入っていた。父が私用に設けた口座であった。父が亡くなった後、遺品として出てきたものの一つである。受け取り入は、ファンドラとだけ記されていた。愛人というのが、一番安易な発想であった。しかし、私は敢えてそれを確かめようとは思わなかった。父には父の生き方がある。それが、祖父と比較される苦悩の、ささやかな捌け口だとしたら、私は、そのことでことさらに父を責めようという気にはなれなかった。通帳は、聖暦三一二三年己の月二十八日を最後に、その後は振り込まれることも、引き出されることもなかったようであった。
私は、私の思うことを為して生きている。私は幸せと言えるかも知れない。しかし、私の思うことは、世の中においては正しいことではなかった。クロネッカ家直系の子孫は、私の代で絶えることになるだろう。私自身、そのことを悔いとは思わなかったが、連綿たるクロネッカ家の先祖のことを思うと、少しだけ胸が痛んだ。しかし、後はアルキュオネが盛り立てていってくれるはずであった。ことによったら、その伴侶はザウテルであるかも知れない……
ドアがノックされていた。爺やだった。
「全員に渡したか?……」
通帳を引き出しにしまいながら、私は尋ねた。
「いいえ……」
「じゃあ、早く渡してくれ」
「いいえ……」
私は眉をひそめた。
「いいえ、とはどういうことだ?」
「……受け取る者は一人もおりません」
爺やは言った。私は席をたった。
「一人もいない?」
「はい。お暇を頂きたい者は、一人もおりません」
「何を言っているんだ、ボルツ?!」
私は驚いた。
「私は、みんなの意見を聞こうと言ったのではない。家長として命令したのだ!」
「……その御指示には従えませぬ」
爺やは、きっぱりと言い切った。
「ボルツ?!……」
開いた窓へと目をやった爺やは、遠い天を見つめた。
「……旦那様は、小さい頃には病弱なお子であられました。亡き大奥様はそのことを憂い、旦那様を屋敷の外に出そうとはなさいませんでした。しかし、旦那様は、旺盛な好奇心をお持ちでした。旦那様は、お元気な時には屋敷中を歩き回られて、ご覧になるものすべてに目を輝かせられました。時には、我々使用人の部屋にまで入って来られたこともございます。やがて、大きく逞しくなられてからも、そのお振舞いはお変わりになりませんでした。下男達と球技に興じられたり、厨房にお入りになって料理の仕方に御指図なされたり……爺は心の休まる暇がございませんでした。ザウテル様の影響も多分にあったとは思いますが……」
「そんなこともあったな……」
私は笑った。
「……私には、息子も孫もおりません。ですから、私の手をお煩わしになる旦那様は、まるで実の孫のようでございました。旦那様がローゼンブラッド修学院に合格された時、私は我が事のように喜びました。発表の日までは、眠れぬ夜も続きましたから……私だけではございません。使用人として蔑むこともなく、一個の人間として接して下さった旦那様を慕わぬ者は、我らの中には一人としておりません。我らは、旦那様の手となり足となって、死ぬまで働く所存でございます。手や足は、頭なくしては生きてはゆけませぬ。旦那様のお心に一片のお慈悲がございましたなら、手足を切り捨てることばかりは、何とぞ御容赦下さい!」
爺やは深く頭を下げた。目尻に光るものがあった。
「……爺や?!……」
爺やが泣いていた。初めてであった。私は心を揺さ振られた。
「……わかった……」
しばらくして、私は言った。
「みんなには、これまで通り働いてもらう。そう伝えてくれ……」
爺やは顔を上げた。皺だらけの顔が更にくしゃくしゃになっていた。
「ありがとうございます!」
「ただし!」
駆けるようにして書斎を出ていこうとした爺やを、私は呼び止めた。
「……これからの食事には、二度と人参を入れないように」
爺やは笑った。
「旦那様、それとこれとは話が別でございます……」
書斎のドアが閉じられた。
……私は、一個の人間として接しようとして、彼らに接していた訳でなかった。何の偉業も為していない私が、尊敬のまなざしで見られることが、私には不思議でならなかったのである……
私は窓辺に寄りかかった。たった一つ、わかったことがあった。それは、胸の中一杯に広がって、それだけでは足りずに喉元へと込み上げた。私は奥歯を噛みしめた。中庭の風景が、陽炎のように歪んだ。私は幸せである。その想いは、私の目から溢れて、頬を伝わっていった。
それは、恥ずべきことだったのかも知れない。しかし、風の吹く窓際で、私はしばらく、涙の流れるに任せていた……




