第15節:判決
判決公判の日の朝、私はテレシアス病院へと寄った。廊下で花瓶を手にしたアルキュオネと会った私は、すぐに彼女の頬に気付いた。
「どうしたんだ、それ……?」
苦笑いした彼女は、赤くなった頬を手で隠した。
「……昨日、ザウテルの叔父様とちょっとね……」
「ぶたれたのか?」
私は顔をしかめたが、彼女は気にかけた様子もなかった。
「まあね……世の中これだけ人間がいるんだもの、全部が全部、ものわかりがいい人って訳にはいかないわ」
「……すまない……」
頭を下げる私の肩を、彼女は軽く叩いた。
「ラスティが謝ることじゃないわ。あなたはあなた、私は私でしょ?」
開かれた窓から、春風が吹き込んだ。桜のほんのりとした甘い香りが、病院の白く長い廊下に漂った。
「……今日は、行くから……」
不意に声の調子を落として、アルキュオネは呟いた。
「叔父上は?」
私の問いに、彼女の瞳の色に陰が落ちるのを知って、私は答えを悟った。
「……そうか……」
* * *
「すっかり春の装いだな……」
窓の外に見える、川向こうの桜の並木を眺めながら、ザウテルは呟いた。
「いよいよ今日か……」
「はい……色々お世話になりました」
ザウテルは慌てて私の顔を見た。
「おいおい、まるで黄泉路に旅立つような台詞じゃないか」
私は笑った。
「判決次第では、二度とここには来れないかも知れませんから……」
「弱気になるな!」
彼は険しい表情で力強く言った。
「リューダー卿の話は新聞で読んだ。聖人カルカの原稿によれば、聖摂院はお前の行く手を阻めないそうじゃないか。それを信じろ!」
「僕が『門を開く者』であるという証拠はどこにもないんですよ……」
そう言った私の肩を、ザウテルはしっかりとつかんだ。
「とにかく信じろ! 嘘でもいいから信じるんだ! お前が自分の夢を信じ、博士の言葉を信じたように……。信じることで、道は開ける。いいな?」
彼の真撃なまなざしが、私の胸を熱くさせた。ザウテルは私を信じている。それだけでもよかった。私には偉大な人徳などなかったが、それでも私のために力を尽くしてくれる人のいることに、私は感謝せずにはいられなかった。
目を瞬かせながら、私は微笑んだ。
「ありがとうございます……」
ザウテルは豪快に笑った。
「なあに、礼なら戻ってからたっぷりとしてもらうさ!」
* * *
傍聴席の中段には、金色の甲冑で身を固めた数人の近衛兵に守られて、ラサラス王までが姿を見せていた。私が一礼すると、王は厳めしい表情で黙って頷いた。
ロージェスタ嬢の隣にはアルキュオネが座っていたが、彼女の言った通り、廷内に叔父の姿はなかった。
諮問委員長のマーヴィン=グランジャン卿が、判決文をアルギエバル=ロゼット裁判長へと手渡した。ロゼット卿は文面を睨んだまま、しばらく口を噤んでいた。
「判決を言い渡す」
やがて、彼の声が法廷に響いた。
「被疑者ラスティリアード=ヴァリス=クロネッカを、一ヶ月の執行猶予付きで、死刑に処す。同じくアルベルト=ガリオネッティを、一ヶ月の執行猶予付きで、死刑に処す」
聴衆から声が漏れた。ロージェスタ嬢は、蒼い顔でアルキュオネの肩に寄り掛かった。彼女を抱き止めるアルキュオネの顔もまた、すっかり血の気を失っていた。
「……なお、執行猶予期間中、逃亡以外の被疑者の行動の自由は、すべて保証されるものとし、彼らに対する第三者の干渉を一切禁止する。以上|
ロゼット卿は締めくくった。その言葉を確認するようにしてから、王宮の一行は立ち上がった。
死刑――その言葉は、妙に現実味を欠いた響きを持って、私の耳に届いた。死刑……一ヶ月の猶予付きで……長くても一ヶ月の命……一ヶ月もすれば殺される……どう言い換えても、私には一向に実感が湧かなかった。刑への衝撃よりも、一ヶ月という期間に対する安堵が先にあったのだろう。オートリュースの予言に間違いがなければ、三十七日後に風の龍は眠る。もし、眠らなかったら……その時は、残った五日間で十分に死の恐怖を味わえばいい。そうだ。刑の確定を嘆いている暇などなかった。
隣りに座っていた博士は、長い息をついた。きっと博士も同じ気持ちなのだろう。私は勝手に判断していた。それは、果たして安堵の溜め息だったのだろうか……
* * *
法廷の廊下で、リューダー卿は我々に頭を下げた。
「済まない、何の力にもなってあげられなかった」
「そんな、頭を上げて下さい。弁護人になってもらえただけでも感謝しています」
「そうですよ。ありがとうございました」
博士も慰めの言葉をかけた。
「リューダー卿」
冷たい声音が響いた。マイローウィッツ卿であった。私と博士に冷ややかな一瞥を投げかけると、氷の裁断者はリューダー卿へと近付いた。
「残念でしたな。あなたもこのままでは済みませんよ」
マイローウィッツ卿は、口元に無気味な氷の笑みを浮かべた。しかし、リューダー卿の緑がかった灰色のまなざしは、蒼い凍気にも気圧されはしなかった。
「好きにするがいい。三年前の『黒鱗』の降天で、私は家族を亡くしている。今は天涯孤独の身だ。以前のようには行かんぞ」
「そうですか。それは御愁傷様です……」
リューダー卿は顔をしかめた。
「フン、氷人が……そんな心など微塵も持たぬくせに……容疑をでっち上げるのなら急ぐことだな。あと一ヶ月もすれば、貴様らの拠りどころは足元から崩れ去る」
マイローウィッツ卿は片方の眉を吊り上げた。
「そうですか。それでは急ぐとしましょうか。では、いずれまた……」
彼は踵を返した。
立ち去る氷の裁断者を鋭い視線で見送ったリューダー卿は、やがて私へと向き直った。
瞳には柔らかな光が戻っていた。
「いいかラスティ君、信じる必要はない。しかし、主は君と共にある。本当の主は、信じぬ者を見捨てたりするような、倣慢で偏狭な心の持ち主ではない。主の御声を、教会や神説典の中に閉じ込めようとするのが、そもそもの間違いなのだ。主を形に成そうとした瞬間、それは本当の主ではなくなる。本当の主は、ここにおられるのだよ」
卿が指したのは、自分の胸だった。
「ラスティ君、君は君の心を信じろ。君の感じるものにこそ、主は宿っている。それを忘れないでくれ」
卿は、しっかりと私の手を握り締めた。
「ではな……」
立ち去ろうとする卿を、私は思わず呼び止めていた。
「これからどちらへ?」
卿は振り返った。
「カラウリア島に戻る。司祭として、やらなければならない仕事が山ほどあるからな。一ヶ月後には、君が飛翔する姿を見に戻ってくるよ」
微笑みを残して、廊下の向こうに小さくなる黒い聖衣姿を、私と博士は黙って見送った。
胸の奥が絞めつけられるようだった。あの人と、もっと早く出会えていたなら……それは、どうしようもない後悔であったが、それでもそう思わずにはいられなかった。
「立派な聖職者だ……」
ポツリと博士が呟いた。
「クロネッカ公爵様」
不意の声に、私は振り返った。後ろには、宣誓堂の管理員が立っていた。
「ブリザルディア公爵様より伝言です。本日午後一時、緊急の環座会を聞かれるので、宣誓堂までおいで下さるようにとのことです」




