第10節:大魔王と終末の日
私は、控室の床板に開いた小さな節穴を、もうかなりの時間見つめていた。肩を叩かれるまで、私はザウテルの入ってきたことにも気付かなかった。
「そう自分を責めるな……」
長椅子の隣りに腰を下ろすと、彼は天井を見上げた。
「お前が弁護を強制した訳じゃないんだ。お前のせいじゃないさ」
ザウテルの気遣いはよくわかったが、その言葉の内容は空虚であった。私は息をついた。
「しかし、人が傷ついたのは事実です。彼らは、僕と知り合いさえしなければ、今でも平穏な生活を送れていたことも間違いありません……」
あの放火事件の後、設備を全焼したザウラク鉄工所は、親会社との契約を打ち切られた。セルジオ工場長やジャバだけではない。工場の作業員全員が職を失い、路頭に迷うことになったのだ。責任の有無を語って無視している訳にはいかなかった。
「作業員の事なら、俺の方でも何とか手段を講じる。あまり気を揉むな」
微笑みながら、ザウテルは私の肩に手を載せた。
次の瞬間、私は、彼の思いやりのこもった手を振り払っていた。すぐさま後悔の念に心をつかまれたが、もう自分でもどうしようもなかった。胸の裡に押し込めていた疑念と苦悩が、堰を切って一気に溢れ出した。
「そうじゃないんです! 僕はこんなことなど望んではいなかった!……確かに、僕が為そうとしていることは、神説典の教えに反することです。そのことで、罰を受ける覚悟はできていました。しかし! それは僕一人の問題です! 僕を庇うことで、関係のない人々が傷ついてしまうのなら……僕は!……」
私は立ち上がっていた。それは、ここ数日間私の心を苛んでいたことだった。自分の心に素直に生きる――しかし、そのために他人を傷つけてもなお、それは『良き』生き方だと言えるのか?! 自分の満足のために他人を犠牲にするなら、欲望に満ちた生き方と変わりないではないか!……私が求めていたことは、果たして本当に心の渇きだったのだろうか?……
一瞬驚いたザウテルだったが、その後は静かに私の吐露を聞いていた。彼は腕を組んだ。
「……ならばどうする? 聖摂院に頭を下げて、自分が間違っておりましたと謝るのか?お前の、空を飛びたいという夢を諦めてしまうのか?……」
私は唇を噛み締めた。
ザウテルはゆっくりと立ち上がった。
「ラスティ、よく聞け。俺がお前を弁護するのは、お前が昔からの友人だからではない。お前が、弁護するに値する男だと思ったからだ。……アルキュオネから聞いたが、叔父上とやり合っても、一歩も譲らなかったそうじゃないか。不浄の地でも、お前は最後まで俺の話を聞かなかった。ならばそれでいい。自分の信じた道を固く守るお前を、俺は信じる。もし仮に、俺の屋敷にも火が放たれたとしても、それは俺の責任だ。俺がお前を信じたのだ。聖摂院を敵に回しているお前に対して、それぐらいの覚悟がなければ、とても『信じている』などと言えるものか。お前が自分の道を信じている限り、俺はどんなことがあってもお前の味方だ。だから諦めるな。『諦める』勇気など持つな。臆病でいいんだ。いいな?」
ザウテルは、私の両肩をしっかりとつかんだ。
青い瞳には、海のような広がりと、大地のように揺るぎなき想いが、光となって宿っていた。
堪え切れない震えが、私の全身を駆け巡った。
「……ザウテル……」
館内に予鈴が鳴り響いた。彼は心強く微笑んだ。
「さあ、戦闘開始だ」
* * *
監察局側の第三の証人は、ハイスミネア=ザカール=リーデンブロイ伯爵であった。質問には、『氷の裁断者』マイローウィッツ卿が立っていた。
「では伯爵、初等院当時のクロネッカ公爵の言動についておっしゃって下さい」
浅黒い肌に、刈り上げた萌黄色の髪をしたリーデンブロイ卿は、碧色の瞳で鋭く私を睨んだ。
「あの頃、彼はしきりに空を飛びたいと話していました。そんなことは主が許さないと言っても、彼は聞き入れませんでした」
ハイスが、何故私に憎しみを抱いているのかはわからなかった。年端の行かない子供のうちならともかく、十年以上たった今でも、彼が私に向ける視線は依然として冷ややかだった。
「ある日、彼はこう言いました。シンの犯した原罪が、三千年たった今でも許されないほど重いものならば、何故主は人間を滅ぼしてしまわなかったのか。中途半端な情け心など、余計に残酷なだけだ。主は、慈悲深い支配者を気取っているだけなのだと……」
聴衆がざわめいた。リーデンブロイ卿は、薄笑いを浮かべて私を見つめていた。
ザウテルは腕を組んだままだった。仕方がなかった。彼と出会う前の事だ。ヴィカラーラ号の遭難で彼が両親を失うまで、私は彼のことをよくは知らなかったのだから。
マイローウィッツ卿は、私の前へとやってきた。梳き上げた銀髪と蒼い瞳は、まさに氷の裁断者のものであった。今日も傍聴席に姿を見せているロージェスタ嬢も同じ銀髪だったが、彼女は、草原を渡る柔らかな春風の輝きをしていた。彼は違う。雪の結晶が舞う不毛の凍原――それは、彼の監察局査問官という役職からなのか、それとも、彼自身の心が凍てついているからなのだろうか……
「今の伯爵の御発言に、間違いはございませんか?」
私は黙って頷いた。傍聴席からは、声にならない波動が沸き起こった。
「そうですか……リーデンブロイ伯爵、わざわざありがとうございました」
伯爵に頭を下げると、マイローウィッツ卿は監察局席へと戻った。
「……では次に、監察局は新たな証拠提出の準備として、ここで神説典の一節を読み上げたいと思います」
氷の裁断者は神節典を手にした。
「カルカの書、第二七三章……」
その言葉に、廷内の者すべてが等しく息を呑んだ。それは、俗に言う『終末の日』の章であった。卿は読み始めた。
「……人よ、あなたの時代は終わるだろう。あなたには、もう私の声は聞こえない。あなたは、自分に利となる虚偽を進じ、自分に害となる真実を信じないだろう。あなたは、ただあなたのためのみに悪を行い、それを善だと言ってはばからないだろう。言葉は欺くことに、手はあやめることに、足は蹂躙することにのみ用いられ、心は漆黒の炎に飲み込まれるだろう。闇は闇を生み、世界を覆い尽くしてもなお余りある暗黒は、やがて彼を呼び寄せる。
彼がやってくる。彼は、金色の髪をなびかせて、銀の翼に乗ってやってくる。しかし、彼の胸の裡にあるものは、光ではない。黒よりもなお黒く、闇よりもなお暗い、絶対的な虚無である。彼は、白き海魔と、黒き龍王と、紅き劫火と、蒼き絶望を従えて、虚偽で塗り固められた欲望の街へと舞い下りるだろう。その時、人は世界の終末を知る。海魔が大地を引き裂き、龍王が山々を薙ぎ払い、炎が地上を七度焼き尽くして、人々を絶望の淵へと突き落とすだろう。人よ、あなたは運命に抗うことはできない。彼を呼ぶのはあなたなのだ。破壊のためだけに破壊が行われ、遍くものに死が訪れる。彼の赴く先に希望はなく、彼の去った後に希望はない。彼の名はダイリット・サール。地獄の門を開く者。彼の歩みを阻める者は、もうこの地上にはいない。
人よ、罪深き者達よ、祈りなさい。すべてのこだわりを捨てて、一心に祈りなさい。己れの愚かな行いを、心から悔いた者だけが、息子達の導きに従って、私のもとに来ることを許されるだろう。人よ、あなたの時代は終わる。その時が、ついに来たのだ……」
廷内は、水を打ったように静まり返っていた。聴衆の中には、身震いをする者もいた。
人々の畏怖を確認すると、マイローウィッツ卿は一枚の大きな紙を持って、再び私の前へとやってきた。
「ここに、公爵の御名前が書かれてあります。お確かめ下さい」
彼が示した紙には、確かに「LASTILIAD」の文字が書かれていた。私は頷いた。今度は、彼はそれを持ってザウテルの前へと立った。
「エッセンニーカ公爵、この文字を反対からお読み頂けますか?」
ザウテルは怪訝な顔をした。私にも、マイローウィッツ卿の真意がつかめなかった。
「……D、A、I、L、I、T、S、A、L」
「どうぞ続けてお読み下さい」
「……DAILIT……」
言い終わる前に、ザウテルは息を呑んだ。顔色がみるみる蒼ざめていった。
「お気付きになられたようですね。そうです、公爵の御名前ラスティリアードは、逆から読むとダイリット・サールと読めるのです」
マイローウィッツ卿の浮かべた笑みは、総毛立つほどの凄みを持って私の自に映った。そこには、主に仕える者の、穏やかな慈愛に満ちたまなざしはなかった。獲物に対する激しい憎悪と、それを仕留めたという勝利の高揚感が、蒼い双眸に獣じみた光となって溢れ返っていた。
「馬鹿な?!……」
隣りに座っていた博士は、喉から絞り出すようにしてその言葉を口にした。
「更に! 先程の第二七三章には、ダイリット・サールについて、『銀の翼に乗った、金色の髪の……』という記述があります。果たしてこれは偶然でしょうか? クロネッカ公爵の幼少時代における主への暴言を鑑みても、これは何かを暗示しているのではないでしょうか?」
廷内を見回すようにして言うと、氷の裁断者は自分の席へと戻った。
彼は何も言っていない。ただ、可能性を示唆しただけだ。何の可能性? それさえも、彼は口にしてはいなかった。しかし、聴衆の胸の裡には、それが確固たる衝撃の事実として、大波のように押し寄せた。
廷内は一気にどよめいた。声が言葉を形作る前に、怒濤となって大気を震わした。ロゼット裁判長の静粛を呼びかける声も、聴衆の叫喚の前に掻き消されていた。もはや理性で御せるようなことではなかった。恐怖の大魔王ダイリット・サール。その来襲の予言は、絶えず人々の心を脅かし、悪に傾こうとする弱さを、恐怖という鎖によって縛ってきた。しかし、彼の来襲が現実のものとなったなら……後のことは、神説典が雄弁に物語っていた。しかも、世界を終末へと導く大魔王は、この私だというのか?!……
混乱の収まらぬ法廷で、監察局席に腰を下ろしたマイローウィッツ卿は、指先でぺンを弄びながら、私へと微笑みかけた。凍てつくような氷の笑みであった。そして、その口元がゆっくりと動いた。彼の発した言葉の意味を悟って、私は慄然とした。
『お・わ・り・だ』
彼は、私に向かってそう言ったのである。それは、明白なる死の宣告であった――




