第6節:覚悟
牢の中で一夜を明かした私は、次の日、四十五オルクギネッツで保釈された。
屋敷に帰った私を待っていたのは、叔父の拳だった。私は、広間の床に叩きつけられた。
「お父様?!」
アルキュオネが止めに入った。叔父は、憤りの余りすっかり蒼ざめた顔と血走った目で、床に伏した私を睨みつけた。髪の毛が逆立ち、ざわめいていた。
「お前という奴は……恥を知れ! 家督相続の日、私はお前に何と言った?! 『良く』生きよ! 私はそう言ったはずだぞ! それを……よりによって主に逆らうとは……お前は一体何を考えているのだ?!」
息を荒げながら、叔父は怒鳴った。
強く脈打つ、火のように火照った頬を押さえながら、私は立ち上がった。
昨夜一晩、一睡もしないまま、私は考えていた。そして覚悟を決めた。恥ずかしい話だが、その時私は、こうなるまで、私の覚悟が決まっていなかったことに初めて気付いた。私の目は、成功か失敗かだけに向けられていて、聖摂院への発覚という可能性をすっかり見落としてしまっていた。死の覚悟がない限り、真理の追究などできはしない――図書館で初めて会った時に博士が言ったその言葉は、亡くなったクリスの兄、ネイドのことを考えてのものだったのだろう。しかし、それは今の私にとっても重要なことであった。考えてもみるがいい。 重力の発見者ハルペルドは無事に済んだか? オートリュースは? ムフリッドは? ギルバランスはどうだ? 彼らは、正義ならざる真理のために命を賭けた。人はそれを愚かだと言うだろうか? 世の流れに逆らわず、漂うがままに生きた方が得だと……
私は博士に、自分の信念は、信ずるに足るものを信じることだと言った。しかし、父が死ぬまでの私は、それを口に出しはしなかった。私の信じるものは、世に言う正しきことではないと知っていたからだ。それは、ある意味では賢かったのかも知れない。しかし、日和見の信念など、なきに等しいものであった。
二十数年前、ゴメイサの沖で沈没した豪華客船ヴィカラーラ号を潜水球が調査した時、犠牲となったザウテルの両親、エッセンニーカ公爵夫妻は、ソファーの上で寄り添ったまま、まるで眠るような姿で発見されたそうだ。死を覚悟した者がとった、最期まで人聞の尊厳を失わない美しい行動ではないか。誰もそれを愚かしいとは思わないだろう。
私は、信念に殉じようと思った。それが人としての最も美しい姿だと……そこには、英雄的自己犠牲への陶酔があったのかも知れない。しかし、天が白み始めた頃、凪の水面のように穏やかな心で、導いた決意がそれであった。
「……叔父上は、私自身のために、ともおっしゃいました。私自身のために『良く』生きよと……。これが、私の選んだ『良き』ことなのです……」
目を見開いた叔父は、全身を震わした。
「馬鹿者が! お前のしたことのどこが『良き』ことなのだ?! お前はクロネッカの人間である以上、クロネッカ家当主として『良く』生きねばならんのだ! 家を潰して何とする?!」
叔父の今までにない剣幕も、私の目には、どこか遠くの出来事のように映っていた。叔父は、私を見ながら、私でない何者かに怒鳴り散らしているように思えて、私はそれが奇妙でならなかった。
「では、叔父上は何を以って『良き』こととされるのです? 父のように無難に生きることですか?」
「黙れ! お前の父は『良く』など生きてはいなかった。だから早死にしたのだ! 私があれほど言ったのに!……」
「お父様、それは言い過ぎです!」
私に歩み寄った叔父の後ろで、アルキュオネが声を上げた。
「叔父上とて同じでしょう。あなたは、地方領主として無難に毎日を過ごしているだけではありませんか」
「何だと貴様?!」
叔父は襟首をつかみ上げた。
「やめて、お父様! ラスティも!」
しがみつくアルキュオネを強引に振り払って、叔父は私の喉を絞めつけた。
「当主の苦労もろくにわからぬ青二才が、生意気な口を叩きおって……」
震える叔父の腕を、私はゆっくりと掴んだ。
「では、叔父上にとって『良き』こととは一体何なのです? 人をあやめず、欺かず、物を盗まず、安息日に教会に足を運んでいれば、それで『良き』ことなのですか?」
「違うというのか?! 法や道徳に背き、己れの思うがままに生きることが、『良き』ことだとでもお前は言うつもりか?!」
「欲望と心の渇きとは違います。空を飛ぶことは、私の夢です。そして、それはきっと叶うと信じています。私は心を満たしたいだけで、主に逆らおうという訳ではないのです」
突き飛ばすようにして、叔父は手を離した。
「何と言おうが、結果として主に逆らっているではないか……いいかラスティリアード、お前が見ているのは悪夢だ。早く目覚めるんだ!」
「……私は、父のように人生を空虚に生きたくはありません。生きている証が欲しいのです。生を十分に生きるためにも、私は自分の信じるものを捨てることはできません」
襟を直す私に、叔父は頭を振った。
「お前の話していることは理想論だ。もっと大人になって現実を見つめろ!」
私は眉をひそめた。
「そもそも、『大人になる』とはどういうことなのです? 前から不思議に思っていました。何故人は『大人』と『夢』を相容れないもののように言うのでしょう? 何故、若さそのものが過ちであるように言うのですか? 夢を諦めることが、そんなに賢いことなのでしょうか? 『大人』になることが、どうして偉いことなのです?」
「ラスティリアード、今はお前の哲学を聞くつもりはない」
叔父は肩をすくめた。
「いいえ、聴いて下さい。夢は心の糧です。そして、心こそが人間本来の持ち物ではありませんか。『大人』になることで、借り物の『知』や『理』の殻を厚くしたところで、その人の本質は何も変わりはしないのです。『知』や『理』が価値のないものだとは言いません。しかし、所詮それは『技』でしかないのです。それを用いるのが『心』ではありませんか。どうしたら夢を叶えられるか、それを考えるために『技』があるのであり、『技』のために夢を捨てるのは、『心』のない機械に等しいものだと私は考えます。機械を、あれは『生きている』と言うでしょうか。……呼吸をし、食事を取れば、人は確かに『生きている』かも知れません。しかし、『良く生きる』ためには、手段に従って求めることを見失うべきではないと思います。従うべきものは心なのです! それこそが『良き生き方』なのではないでしょうか?!」
うんざりしたように、叔父は息をついた。
「……わかったようなことを……」
「いいえ、私にはラスティの言うことがよくわかります!」
私と叔父は驚いて顔を向けた。アルキュオネだった。
「お父様は、『大人』という言葉を、夢を諦めてしまった言い訳にしているんです。以前よく言われていたではありませんか。ラスティは私の夢だと……彼なら、亡き伯父様の轍を踏むことはないだろうと……あれは、一体どういう意味だったのです?! 私は、お父様が果たせなかった夢を、ラスティの裡に託しているのだと思っていました。でも違う! お父様は、ラスティを自分の手の中に入れておきたいだけなのです! ラスティや私は、お父様の操り人形ではありません! お父様と違って、私達には心に望むものがあるのです! それにまで干渉する権利は、『大人』になってしまったお父様になんかないはずだわ!」
思い詰めたような彼女の表情を、私は初めて目にしていた。お転婆な従妹という印象しかなかったアルキュオネだが、叔父に向けられたその鮮烈な抗議のまなざしは、彼女もまた、裡に秘めたるものをしっかりと持った女性だということなのか……
「……アルキュオネ、お前までがそんなことを……」
叔父は唖然としていた。娘の思わぬ言葉に、すっかり気圧されてしまったようであった。
「いいか、ラスティリアードもお前も間違ったことを求めているのだ。それを正してやるのが、『大人』である私の役目ではないか! 何故それがわからない?!」
腕を振り回す叔父の口調は、しだいに懇願に近いものとなっていた。
「ですから、心の渇きと欲望とは違うのです。欲望は、それ自体罪なことかも知れません。しかし、心は……そう、例えるなら、金メッキの匙のようなものです。仮に、叔父上の忠告に従って行いを改めたとしても、厚くなるのは『知』と『理』のメッキだけです。金は金からしか作れないように、心は内側からしか変われないのです。メッキは見せかけに過ぎず、それが中の金属を金にすることは、例え数千年の時を経てもできることではないのですから……」
私は言った。それは、不浄の地で博士が話したことだった。世の多くの人が主の存在を信じて疑わないように、私は、空を飛べると確信している。心がそう求めるのだ。理屈や道徳がそれを否定しても、我々は、心の希求を打ち消す術を知らない。ではどうすればいいのか。……それは主のみが知るところであった……
「……では、考えを改め、聖摂院に謝罪するつもりはないのか?……」
額に脂汗をにじませながら、叔父は声を絞り出した。
「はい。何人も、人の心までを裁くことはできませんから……」
「できなくとも、お前は裁かれるのだ!」
静かに答えた私に、叔父は喚いた。
「主への反逆は、死を以って償わなくてはならん! お前はそれでもいいのか?!」
私は深く息を吸った。今朝の想いが心に蘇った。そして思い出した。博士と握手を交わしたあの日、私は確かに約束したのだ。
「私は、信ずるもののために死を選びます」
その声は、凛とした響きを持って広間に広がった。
沈黙があった。
やがて、叔父は、糸の切れたように床へと跪いた。
「……おお主よ、我が愚かなる甥に、どうか御慈悲を……」
虚ろな瞳で、叔父は天を仰いでいた。
「しばらく休ませて頂きます……」
頭を下げると、私は、惚けたような叔父の横を通って広間を後にした。
すべては終わったのか?……いや、これからが始まりなのかも知れなかった……
* * *
寝室のドアがノックされた。
「ああ、そのままでいいわ。疲れてるんでしょう?」
ベッドの上に身を起こした私に、入ってきたアルキュオネは言った。カーテンを引いた薄暗い寝室で、彼女はベッドの隅に腰を下ろした。
「叔父上はどうしている?」
「部屋で休んでるわ」
「そうか……」
後の会話が続かないまま、しばらく時が過ぎた。
アルキュオネが言葉に迷っているのは、気配でわかっていた。私は目を閉じた。
「叔父上に何か言われたのだろう?」
私の言葉に、彼女は驚いたようだった。
「えっ?!……ええ……ちょっと、縁組の話があってね」
「へえ……相手は誰だい?」
彼女は息をついた。
「……リーデンブロイのハイスよ……」
「そうか、それで……」
私は苦笑した。アルキュオネが、幼い頃からハイスを嫌っているのは知っていた。
「冗談じゃないわ、誰があんな自分勝手な男と……」
「そうかい? それを言うなら、ザウテルだって同じだろう? 」
「違うわ! 彼は奔放なのよ」
少しムキになる彼女に、私は天井を見上げたまま微笑んだ。
「でも、アーネがあんなことを言ってくれるとは思わなかったよ」
「私にだって、自分の人生について思うところはあるわ……」
彼女は苦笑した。
「……それより、私は、ラスティの方こそあんなことを言うとは思わなかった。もっといい子だと思っていたから……」
「いい子でなくて悪かったな」
二人は笑った。しかし、彼女の声には張りがなかった。やがて、息を整えて彼女は言った。
「どうするの? これから……」
「さあ……どうすればいいと思う?」
「私にはわからないわ。新聞であなたのことを知った時、正直言ってやっぱり驚いたもの。どうしてそんなことをしたんだろうって……。それがラスティの夢だったら仕方ないけど、そう願うことが、果たして正しいことなのか間違ったことなのかは、私にだってわかるはずがないでしょう?……ただ……」
そこで、アルキュオネは躊躇した。
「ただ?」
「ただ……私だって、鳥のように空を飛んでみたいと思ったことはあるわ……そう考えることが、そんなにいけないことなのかしら?……」
急激な睡魔に捕らわれつつあった私は、浅いまどろみの中で、彼女の意外な言葉に驚きを感じていた。
……もしかすると、人が鳥に憧れを持つのは、至極当然のことなのかも知れない。かつては空を飛ぶことができたはずなのだから……ただ、胸の奥で頭をもたげるその感情を、人々は 押し殺しているのだ。それが悪しきことだと信じ込んでいるから……だが、そう思うことが何故悪しきことなのだ?……私の閉ざされた未来を開く鍵は、きっとそこにある。
私は眠りに落ちた――




