第4節:堕天の予兆
その日、いつもと変わらぬはずだったその日、今考えれば、それが大きな転機だったその日に、誰がそれと気付いただろうか。
年が改まって、聖暦三一三二年乙の月四日、修復したグラフィアス号による飛行訓練は既に二十回を数えようとしていた。リウヴィル号の方は骨格がほぼ完成し、助走路の北の端にある大きな岩場に口を開けた格納洞の中で、操翼のためのワイヤーや油圧チューブが取り付けられつつあった。
不浄の地には、今日も南東の風が吹いていた。私は、バルアの毛皮で作った防寒着を身につけていたが、砂漠の底冷えのする寒さには、あまり効き目がないようであった。特に、手は、操翼の微妙な調整を行う理由から、分厚い毛皮で覆うことができず、薄手の絹の手袋の中で、既に感覚を失いかけていた。私は両手を擦り合わせながら、球状に骨組みの組まれた操翼席で、準備が整うのを待っていた。
重量八百ガールのグラフィアス号の銀色の機体は、助走路の北の端にある台車の上に載せられていた。博士とラムは、助走路のレールの状態を確認しながら、こちらへと歩いてくる途中であった。吐く息が、白い霧のように風に漂っている。普段にも増して低く垂れ込めた雲の天蓋には、飛び回る風の龍の鱗が擦ってできると言われているさざ波模様が、はっきりと見て取れた。今にも雪が降ってきそうであった。
「よし、いいようだ」
台車のところまでやってきた博士は、鼻の頭を真っ赤にしてそう言った。息をつく度に、分厚い眼鏡のレンズがうっすらと曇った。ラムの方はというと、ベル・ロニアの極寒地方で育ったという彼女は、至って平然としていた。白いコートに包まれた体は、決して頑丈には見えなかったが、薄めの唇は生き生きとした色を失ってはいない。
「それではラスティ君、最終チェックを行う。いいね?」
博士は、腰から下げた検査表を手に取った。
「まずは従翼」
私は、座席の右にあるレバーをゆっくりと引いた。主翼の後縁に重なっていた従翼が、油圧の力で音もなく引き下げられた。私は二、三度従翼を上げ下げした。
「従翼、よし!」
「次は舵翼」
私は操翼桿に手をかけた。右旋回――機首に取り付けられた方向舵が右に倒れた。同じく左旋回――方向舵は、滑らかに動いて舵を取った。昇降舵についても問題なかった。
「舵翼、よし!」
「燃料」
燃料計の針は、『満』の方に振り切れていた。
「燃料、よし!」
「よろしい。では、エンジンを始動する」
博士の合図でラムはグラフィアス号の後ろへとまわった。プロペラに手がかかった。彼女が思い切り両腕を振り下ろすと、エンジンが唸りを上げた。人工の鳥が持つ鋼の心臓の逞しい鼓動が、シートを通して私の体に伝わった。
「エンジン!」
博士に言われて、私は右足で慎重にペダルを踏んだ。プロペラの風を切る音が激しくなった。回転計の針が、震えながらゆっくりと上昇していく。二千……三千……後ろで砂が巻き上げられた。私は足の力を緩めた。
「エンジン、よし!」
凄まじい騒音の中で、私は叫んだ。博士は、検査表にチェックを書き込むと、震える機体へとよじ景った。
「ラスティ君、悪いが今日は風防なしだ」
ガラス製の球面型風防は、前回の訓練の際、着陸に失敗して粉々に打ち砕いてしまっていた。昇空機本体の修理にはさほど時間を要さなかったが、加工の難しい風防は、まだ業者から代わりが届いていなかった。
「速度を抑えて飛ぶ分には、何の支障もないとは思うが……」
そこで博士は、まだあちこちに絆創膏の残る私の顔をまじまじと見つめた。
「君も、男の顔になってきたな……」
私は苦笑した。
「……着陸は人工的な墜落と同じだ。こればかりは体で覚えるしかない。国中のどんな図書館を探したって、手引書などありはしないのだからね。準備はいいかな?」
「はい。いつでも大丈夫です」
ベルトを確認して、私は答えた。
「よろしい。では、しばし空の旅を楽しんで来たまえ!」
博士は私の肩を叩いた。
台車から車止めが外された。僅かずつ、周りの荒涼とした風景が動き出した。私はゴーグルを下ろした。正面には、白い砂の中に二本の黒いレールが真っすぐに伸びている。初飛行の時には、天へと続く緋毛氈に見えたレールも、今では助走路以外の何ものにも見えることはない。慣れとは寂しいものだ。しかし――
速度を上げたグラフィアス号は、三百リルの助走路を走って憧慢の丘を駆け上がった。
砂の下の船体が軋む。私は操翼桿を引いた。銀の巨鳥は風に乗った。
この体に感じる揚力は、一種の快感に変わっていた。力の檻、重力から解き放たれ、私は今、空を翔ける。ほんの一握りにも満たない人々しか経験したことのない、世界からの本当の自由を、私は味わっているのだ。
自分の存在を誇示するように、私は、不浄の地の上空に銀翼で幾重もの軌跡を描いた。私が乗る機体は、まさにグラフィアスの名にふさわしい。万人よ、天を仰いで我を見よ。我は人の持つ『知』によって作られし鋼の鳥。人はついに、空へもその営める領域を広げたのだ……それが、彼の伝える言葉であった。今、私と彼を見上げる者は誰もいない。博士とラム、それにクリスを除いては……。しかし、主への挑戦者、リウヴィル号が羽ばたく時、人々は目にするだろう。人間の輝ける英知を。人が持つ『知』の偉大さを――
肌を切るような凍てつく風も、空を舞う私には気にならなかった。見上げれば、そこには雲の天蓋がある。飛ぶ度に、心に湧き上がる衝動を抑えて、私は思っていた。待っているがいい。いつか、私はお前を突き抜けて、お前が隠している未知の世界を、しっかりとこの目に灼き付けてやる。
瞬く間に時は過ぎた。燃料計の針は『空』に近付き、私は最後の旋回を始めた。
その時だった。東側の丘陵に、何か動くものがあった。『風の道』のすぐ近くに、ポツンと取り残されたような赤みを帯びた物体は、私の確認を待たずに銀翼の蔭へと隠れた。操翼桿を引き起こそうとした私は、しかしためらった。どうする?……
右旋回を終えた時、グラフィアス号は降下を始めていた。
砂地が近付いた。本当の訓練はこれからであった。私は、座席右の従翼レバーに手をかけた。速度計、高度計、傾斜計を確認する。博士が言ったように、着陸とは、人工的な墜落に等しかった。私は、図書館での講義を思い返した。
ガリオネッティ・アルスハイル翼型は、流体の流れ方向に対し、ある一定以上の迎え角を与えると急激に揚力を失い、失速する。着陸にはこの原理を応用していた。木の枝に止まろうとする鳩が身を起こすように、翼を起こして空気によるブレーキをかけようというのだ。ただし、固定された鉄芯入りの翼を捻ることはできないため、主翼の後縁から従翼を引き下ろし、翼断面の長さを伸ばすことによって迎え角を変化させるのである。
一気に失速させれば、地面に叩き付けられる。減速が足りなければ、砂に突っ込む。いずれにせよ、私の顔には絆創膏が増えることになる。下手をすると、ギプスのお世話になるかも知れない。私は慎重に従翼レバーを引いた。流れる風の中では、レバーに重く抗力がかかった。更に引く。速度計の針が落ちた。左手で機首を引き上げる。高度はもう五リルもなかった。機体の傾斜確認。前後仰角百の十五。左右傾角百の二。ここまでは前回と変わりない。問題は南東寄りの風だった。離陸の時には喜んで手を貸してくれる彼も、着陸の際には、いたずら好きな小悪魔へと豹変するのだ。
私は更に高度を下げた。今日の風はおとなしいようだった。機底が砂に触れた。激しい振動がグラフィアス号を襲う。私は従翼レバーを一杯まで引いた。空気ブレーキがかかり、砂上を五百リルほど滑走した昇空機は、やがて地面との摩擦に負けてガクンと静止した。口から長い息が漏れた。喉が震えた。一応は成功と言っていいだろう。
エンジンを止めた私は、まだ砂の舞い上がる中で操翼席から降りた。挨で曇ったゴーグルをはずす。
やがて、砂丘の向こうから、灰色の自動車が走ってきた。鉄屑に埋もれていたベンド・キタルファW型を、博士が修理改造したものだった。ゴトゴトと騒々しいエンジン音を響かせるW型が停まると、博士とラムが駆け寄ってきた。
「うまくいったようだね?!」
白い息を吐いて、嬉しそうに博士は言った。
「ええ、とりあえずは……」
私の浮かない口ぶりに、やって来た二人は怪訝な顔をした。
「何か不都合なことでも?」
「いえ。ただ、一回うまくできたくらいでは、本当に着陸の技術を身につけたことにはなりません。偶然の成せる可能性が大きい訳ですから」
髪にかかった砂を払う私に、博士はニンマリと笑った。
「いいのだよ、ラスティ君。成功は、たった一回でもできたならそれでいいのだ。次回からは、今回つかんだ成功の勘を生かせるからね」
「勘、ですか?」
私は眉をひそめた。
「ん? 私が、勘などという言葉を口にするのはおかしいかね? しかし、人間ほど神秘的な存在もそうはないのだよ。君も言っただろう。人智を超えるものは、まだまだ世の中に存在していると。そのうちの幾つかは、我々の裡にあるかも知れんのだ」
そう言って私の肩を叩くと、博士はラムを振り返った。
「ラム君、牽引の用意を!」
彼女の手によって、グラフィアス号の鼻先にフックがかけられた。次回か……次回はうまくいくだろうか?……私は考えていた。
この時、次回のあることを誰が疑えただろうか? 唯一考えられる存在はこの私だったが、私は、その重大な兆しを見逃してしまっていた……
* * *
「旦那様、昨日ウィリアード様からお話がございまして……」
背後で爺やが言った。私は食後の紫茶のカップを手にした。
「叔父上から?」
「はい。旦那様も、そろそろ妻を娶られてはいかがかということでございました」
私は危うく紫茶を吹き出すところだった。
「大丈夫ですか? 旦那様」
「妻だって?!」
むせながら私は訊き返した。
「はい。ウィリアード様によれば、マイローウィッツ家の御令嬢が大変な器量良しだそうで、旦那様も一度お会いになられてはいかがかと……」
「待ってくれ。僕はまだ二十三だ。結婚を考えるような歳じゃない」
苦笑する私に、爺やは顔を近付けた。
「旦那様、『僕』ではなく『私』でございましょう。それに、旦那様は来月で二十四になられます。大旦那様がご結婚なされたのも二十四の時。決して早過ぎる考えではございません」
「しかし……」
「マイローウィッツ家といえば、代々法の守護者として由緒正しきお家柄。我がクロネッカ家の姻族として申し分ないかと……」
「おいおい、誰も結婚するなんて言ってないぞ。第一、どんな方かもわからないのに」
「ですから、一度お会いになって下さいませ」
私は顔を顰めた。
「失礼致します……」
メイドが食堂に入ってきた。
「……只今、聖摂院監察局のトゥキディンタード=シャルピ卿がお見えになり、旦那様への御目通りを願われていますが、いかが致しましょう?」
「監察局が?」
私より先に爺やが言った。監察局……厭な胸騒ぎがした。
「わかった。通せ」
メイドが下がると、爺やは声を潜めた。
「一体どんな用件でしょうか?」
「さあね……」
私にはそう言うしかなかった。
やがて、深い藍に朱の縁取りの入った監察局の制服姿が三人、食堂に入ってきた。
「お食事中失礼致します、公爵様」
中央の一人がそう言って頭を下げた。胸に施した銀の雷の刺繍から見ても、彼が残る二人の憲兵の上司なのだろう。
「いえ、構いません。もう済みました」
私は言った。
「そうですか。お初にお目にかかります。私は、聖摂院監察局一等主任、トゥキディンタード=シャルピと申します。以後お見知り置き下さい」
栗色の巻き毛が美しいシャルピ卿は、まだ三十にもなっていないようであった。ザウテルと同じくらいだろうか。
「それで、我が家にどんな御用件でしょうか?」
私が尋ねると、シャルピ卿は懐から一枚の書類を取り出した。
「はい。早速ですが、クロネッカ公爵様、あなたには主に対する反逆の疑いがあります」
「反逆だと?!」
爺やが驚きの声を上げた。
「そうです。王ならびに教皇の承諾はここに得てあります。局まで御同行願えますね?」
慇懃な語り口とは裏腹に、シャルピ卿の顔には、冷たい笑みが張り付いていた……




