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銀翼のキセキ ―空を封じられた世界で―  作者: 刹那メシ
第三章:赤き志

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第3節:そこに見たもの

「あれは多分、大昔に絶滅した生物の化石だよ」

 ツァフィア号へと帰る途中、私は言った。シェダルは、現れた時と同じように忽然と姿を消していた。

「エクセル=ギルバランスの禁書『生命の湧き出るところ』に、進化の話が書いてあった。あれが蜥蜴の祖先なのか、鳥の祖先なのかはわからないけれど、ネッドじゃないことは確かだ。人間とはあまりにも姿がかけ離れているからね。……ギルバランスの言う猿の方がよっぽど人間に似ているよ」

 ギルバランスは、その著書の中で、「人間の祖先は、猿である可能性がある」と述べたため、聖摂院によって投獄された人物であった。

 隣を歩くクリスは、物思いに耽っているようであった。やがて彼女は呟いた。

「兄も、あの骨を見たんでしょうか?」

「さあ、どうかな。……でも、もしそうなら、君のお兄さんは、あそこに何を見たんだろうか?」

 私はふと思った。

「クリス、君は何を見たんだい?」

 私が言うと、クリスは頬にかかる後れ毛を払いながら、天を仰いだ。

「……私は、兄が大好きでした。たった一人の肉親でしたから……。でも、兄の考え方は正しくないと感じていました。兄は、両親が死んだことや、生活に苦労していることを主のせいにして、安息日にも教会に行きませんでしたけど……私、思ったんです。確かに、世の中のすべての人が幸福に暮らせたなら、こんなに幸せなことはありません。でも、幸福ではないからといって、主を責めるのは間違いだと。人が生まれながらにして平等だとしても、貴賤や貧富の差が生まれるのは、それが、それぞれの人に与えられた使命だからだと思うんです。貴き人、富める人には、その人にしかできないことがあるのではないでしょうか。ダイロンパール公爵様の海運業や、ブリザルディア公爵様の鉱山開発、それに、先々代のクロネッカ公爵様の風の龍からの退避坑建設のように……。身分が高く、財の豊かなことは、決して幸せの基準ではないはずです。すべては、世界との間で交わされた約束事に従っていて、それを果たすこと――いえ、果たせることが、その人の幸せなんじゃないかと思うんです。どんなに苦しくても、人が生きていくのは、自分に課せられた約束事に気付くためなので は……もしそうだとしたら、自分の辛い境遇に、嘆きや怒りで答えるのは間違っています。それは心の荒みしか招きません。辛いことに、希望で答えることのできる人は、心に優しさを生み出せる人です。そんな人がたくさんいてくれたら、世の中から争いだって消し去れるはずなんです。それが、不幸とされている人に課せられた約束事だと、私は思っています。本当に不幸なのは、自分の約束に気付かないことなんです。……ただ、私は、それを兄に言うことができませんでした。それが悔やまれて……」

 一度言葉を区切ったクリスは、顔を伏せた。

「私は、初等院も満足に出てはいません。でも、私を引き取ってくれた博士は、いろいろなことを教えてくれました。それで、私は学ぶ喜びを知りました。ただ、ティレリナには、私と同じように、学院に行きたくても行けない子供がまだたくさんいます。その子達のために、私のしてあげられることは何だろう? ある時、私はそう考えました。無料の学習施設を作るような力は、私にはありません。だったら、私が身につけた僅かばかりの知識でも、その子達のために何か役立てたい。その答えが、昇空機の研究だったんです。風の龍に打ち勝って、人が空を飛べたなら、誰もが『知』の素晴らしさを知ってくれるんじゃないかと……。私の選択は間違っているのかも知れません。でも、それが間違いだと気付くほど、私は賢くはありません。だから、私は自分の信じたことを続けていくつもりです」

 前髪を掻き上げて、彼女は前を見据えた。

「あそこにあった骨が、本当にネッドのものだとしたら、人間はとてもみすぼらしい姿になってしまいました。何も持たない人間は、小さな蜂にすら刺し殺されてしまいます。でも、その代わりに人間が手に入れたものは、それだけ大きな犠牲を払う価値が十分にあったと思うんです。翼は、空を飛ぶことにしか使えませんが、『知』は、目や、耳や、足や、鰭や、翼にだってなるんですから。主がシンからここまで力を奪ってしまわれたのは、単なる怒りだけではなくて、彼が手にした宝の価値をよく知っておられたからなのでは……そんな気がします。兄は、あそこで主の倣慢さを目にしたかも知れません。でも、それでは、失ったものにしか目を向けていないことになると思うんです。私達が手に入れたものは、確かにあるのですから。……私は、あの岩の壁に、『知』の価値の大きさを見ました……」

 深く息をするように、クリスは目を閉じた。

 すべてがわかった――私は思った。彼女が、何故今になっても私に対して敬語を使うのか。何故、昇空機の研究を手伝うようになったのか。何故、時折、悲しみを帯びた瞳の色を見せるのか……

 クリスにとっては、『約束事』がすべてなのだ。それは、私が思っていた以上に、彼女の心に強く灼きついている。そして、すべての答えはそこに結びついていた。彼女が私を公爵様と呼ぶのは、私がクロネッカ家の者だからではない。彼女が尊敬しているのは、「クロネッカ家当主のラスティリアード」ではないのだ。当主として生まれたことによって、自分にしかできないような大きな約束事を果たさなければならない、そんな「使命を背負ったラスティリアード」に、彼女は敬意を払っているのである。そして、彼女自身も、自分の果たすべき約束事を探している。その一つの答えが、昇空機の中にあると、彼女は信じているのだ。そして――

 そして、自分の兄が果たすべきだった約束事を、彼に気付かせることができなかったことを、彼女は悔いているのだった。クリスは、兄の死の責任を感じているのだ。それは、単純に、兄を飛ばさせなければよかった、ということではない。空を飛ぶことは、彼の約束事だったかも知れないのだから。ただ、彼が自分の約束事に気付けなかったこと、生きるための良き目標を見出せなかったこと――真の意味で、幸福な生活を送れなかったことに、彼女は心を痛めているのだった。

 しかし、当時十一歳だった彼女に、果たして兄を諭すことができただろうか? いや、それ以前に、十一歳の少女がそんなことを考えることができたというのだろうか? 世界は、一つの大きな約束事に因っているという――

 私は、隣りを歩くクリスに目をやった。赤毛を風になびかせる彼女は、まるで別人のように大人びて見えた。それは、彼女が十七歳を迎えたせいでも、ドレスや化粧のせいでもない。魂の輝き、とでもいうのだろうか。彼女は、自分の約束事に気付いている。どう生きるべきかを知っている。例え行き着く先がわからなくとも、進むべき道はわかっている。……自分はどうだろう? 私はわかっているのだろうか?……私が天を目指すのは、私が飛びたいと思うから、ただそれだけだ。私、ラスティリアード=ヴァリス=クロネッカが、世界に対して果たすべき約束とは、一体何なのだろう? 私は正しいことをしているのだろうか? どうなのだ?……

 心の中で、不意に頭をもたげた不安感を、クリスの言葉が消し去ってくれた。彼女は言った。自分の選択は正しいとは限らない。しかし、信じたことは続けていくと……そうだ。私は自分のやっていることを信じている。それが、正しいのか間違いなのかがわかるほど、私も賢くはないのだ。間違いならば、私は世界の約束事に従って罰を受けるだろう。つまり、私は九十九人目までの誰かになる。もし正しければ、私は百人目になれるはずだ。だが、それはその瞬間にならなければ、誰にもわかりはしない。だとしたら、自らの信じた道を進むしかないではないか。

 物憂げな表情を浮かべるクリス。彼女が、これほどまでに胸の奥の想いを打ち明けてくれたのは、初めてであった。それは、十七歳を迎えたことによる心境の変化からなのか、あの岩の壁面にネッドの屍を見たからなのか、それとも――母とは何の共通点もないはずのクリスに、私は母の姿を見たような気がした――実は、クリスには言わなかったが、今彼女が着ているドレスの色は、亡き母のお気に入りではあった――。いや、『母』という言い方は適切ではないかも知れない。大人の――と言っても、精神的に成熟した――女性、人生において、一つ上の高みに立つ女性が持つ心の余裕が、私に母を思い起こさせたのかも知れなかった。彼女は何故、今この場所で私にそんな姿を見せるのだろう? いや、何故今まで見せてはくれなかったのだろう?

 『クルシア』からの帰り、クリスは言った。私なんかはとても……その後の言葉は何だったのだろう。背負っているものが違い過ぎるということなのだろうか?

 私は笑った。

「……それを言うのは、僕の方だよ……」

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