第2節:緋色の王女と王家の墓
クリームのたっぷり載ったエトーを前に、私と博士とは、彼女の支度が終わるのを待っていた。
「お待たせしました!」
戸口からラムが顔を出した。
「さあクリス、早く! 博士もクロネッカ様もお待ちかねよ!」
廊下では、クリスが部屋に入ることをためらっているようであった。
「さあ!」
ラムに手を引かれて、彼女は戸口に姿を現した。私と博士は同時に息を呑んだ。
眼鏡をはずし、三ツ編みを解き、唇に紅を引いて、ソバカスを白粉で隠したクリスは、見違えるほど女らしくなった。軽く波打つ長い赤毛に、臙脂色のドレスと桜色のスカーフがよく似合っている。クリスといい、お披露目の時のアルキュオネといい、女性はどうしてこうも変わることができるのだろうか?……『女は魔性の生き物である』……詩人コルネ=フォロスの気持ちが何となくわかる……
「公爵様、こんな素敵なお洋服、私やっぱり頂けません」
困惑したクリスが言った。
「そんな、贈り物を受け取らないというのは、ラスティ君に失礼だろう」
博士が笑顔で宥めた。
「でも、私……」
俯く彼女の手を取って、ラムが船室の中に招き入れた。葡萄酒の入ったグラスが手渡された。
「では、改めまして……クリス、十七歳の誕生日おめでとう! 乾杯!」
博士の言葉で、グラスが一斉に――といっても、そこにいたのは四人だけだったが――打ち鳴らされた。
「すみません。私なんかのために、こんなにまでして頂いて……」
クリスの鳶色の瞳からは、涙の滴が今にも零れそうになっていた。ラムが慌ててハンカチを差し出した。
「泣いちゃ駄目よ、クリス。せっかくのお化粧が崩れてしまうから」
「あ、ごめんなさい」
目元にハンカチを押し当てるクリスに、博士は困ったように後頭部をさすった。
「参ったな。湿っぽくするつもりはなかったんだが……」
灰色の視線が私の顔に移動し、そこで止まった。口元が長い弧を描いた。私はギクリとして身を引いた。博士のその笑顔には、必ず何かしら含むところがあったからである。
「ちょうどいい。薔薇公爵殿、こちらの涙ぐんだ緋色の王女様を慰めて差し上げて下さい。外をしばらくお歩きになるのもよろしいかと」
博士は、大袈裟に畏まって頭を下げた。慌てたのはクリスだった。
「そんな?! 私はもう大丈夫ですから!」
私の方はホッとしていた。どんな無理難題を押し付けられるかと思っていたが……
「うむ、よろしい」
わざとらしく頷いて、私はクリスへと左の掌を差し出した。
「さあ姫様、どうぞお手を」
「そんな、私、できません!」
クリスは驚いて両手を背中に隠した。その彼女に、ラムは微笑みながら耳打ちした。
「姫様、エスコートを断わるのは、相手の男性に対して失礼に当たりますよ」
「そんな……」
困り果てたクリスは、泣きそうな顔で私を見た。私は笑った。
「さあ、どうぞ」
「……すみません……」
顔を伏せて、彼女はおずおずと小さな右手を差し出した。私はその手を取った。
「光栄です、姫様」
「そんな、こちらの方こそ……」
クリスは首筋まで朱に染まっていた。
腕を組んだ博士は、満足そうに頷いた。
「実に似合いのカップルだ。さ、外に披露してきたまえ」
「披露といっても、不浄の地には誰もいませんよ」
苦笑する私に、博士はウインクしてみせた。
「なあに、風が見てくれるさ」
* * *
初冬には珍しく暖かな日だった。我々は、特に行く当てもなく砂地を歩いていた。私の左腕には、クリスの華奢な右手が遠慮がちに通されていた。
私の心はいつになく晴れやかであった。数日前、クリスの考えが初めて聞けたということもあったが、そればかりではなかった。あの夜、博士の話を聞いて以来ずっと気にかかっていた、彼女の心の奥に潜むかも知れぬ悪しき感情、「主に対する憎しみ」がはっきり否定されたことが、私の心を軽くさせていた。この子が天を目指すのは、純粋な好奇心からだ。神への挑戦からではない。もっとも、クリスにとっての神とは、神説典の『主』ではなく、『世界にある、一つの大きな約束事』であったが――。その考えは、ラムの言っていたベル・ロニアの神、『大いなる秩序』にも通ずるところがあった。とにかく、彼女の昇空機にかける情熱は、汚れのない澄んだものであり、私はそれに満足していたのであった。ただ、それは私の身勝手な考えではあった。クリスは、「そこにいるクリス」であり、「私が想像するクリス」ではないことを、私は理解しているつもりで、実は何も理解していなかった。
服に合わせた紅色の高踵靴を脱いだクリスは、素足のままで砂地を歩いていた。俯く彼女は、ツァフィア号を出てから一言も口をきかなかった。いや、きけなかったのだろうか。息さえ潜めようとする彼女の高鳴る鼓動が、私の左腕にまで響いてきていた。
私は敢えて沈黙を破ろうとは思わなかった。二千年に渡る悠久の時の中で、風と砂だけが世界を支配していたこの地を、我々は歩いている……不思議な感覚であった。そして、人が主によって翼を奪われた同じ地で、我々は再び天に羽ばたこうとしているのだ。主がご覧になったら、どう思われることだろう?
「あっ!」
クリスが短い声を上げた。我に返った私の視界の彼方を、褐色の翼の群れが横切っていった。
雁であった。美しく隊列を組んだ雁の群れは、不浄の地の空に二度三度と円を描くと、やがて何処かへと飛び去った。
「雁だ。どうしてこんなところに……」
雁は、主の使いと言われている鳥である。人が原罪を犯したあの日、彼らは病いに伏していた。主が宮殿を留守にしたのは、彼らが使者としての役目を果たせなかったからであった。そして、あの忌まわしい出来事は起こった。己れの責任を感じた雁は、主に申し出て、雲の天蓋の下に住まうことを許された。以来、彼らは主の使者としてではなく、一つの種として、この地上に暮らしている。だが、今でも使者としての記憶は残り、彼らは、統制のとれた隊列を組んで空を飛ぶのだそうだ。
この不毛の砂漠の中で、我々以外に動くものを目にするのは初めてであった。死と静寂に満たされた世界で見る、思いがけない生命の息吹は、より眩しく輝いているように思えて、私は目を細めた。
「これはこれは。誰かと思えば、クロネッカ殿にクリス嬢」
突然の声に、我々は跳び上がらんばかりに驚いた。忽然と姿を現していたのは、不浄の地の主、シェダルだった。彼は炯々と光る左目で、私とクリスの顔を覗き込んだ。
「ワシはまた、『最初の男』と『最初の女』がこの地に舞い降りたのかと思ったよ」
そう言うと、彼は歯茎を見せて笑った。我々は顔を見合わせた。
「こんな砂漠でデートかね?」
「いえ! 散歩です」
シェダルの問いに対するクリスの答えは、驚くほど速かった。私の左腕からも、彼女の右手は抜かれていた。
「ほう、そうかね?」
高踵靴を後ろ手に、顔を伏せるクリスを、シェダルは楽しそうに眺めていた。
「……まあいい。散歩なら、もっと興味を惹かれるようなところに案内して差し上げよう。ついて来なされ」
彼は黒いボロを風に翻した。
* * *
憧憬の丘から北に千リルほど離れたところには、砂の中から幾つもの岩塊が突き出していた。その間を吹き披ける風が、時折奇妙な音色を奏でていった。
「クロネッカ殿、ここがどこかおわかりかな?」
前を歩くシェダルが振り返った。私は首を振った。
「ここは、『最初の都』の廃墟じゃよ」
「『最初の都』?!」
私は辺りを見回した。言われてみれば、天に向かってそそり立つ岩の群れは、宮殿の柱にも見て取れた。クリスも驚いたように、砂の上に顔を出した黒褐色の岩肌を見つめていた。
「そして、あれが王家の墓じゃ」
シェダルは、目前にそびえるとりわけ巨大な巌を杖で指した。
百リルはあろうかという巌の周りを風下に回り込んだ時、シェダルは黙って、十リルもの高さを持つ岩壁を示した。見上げた我々の目に映ったものは――我々は息を呑んだ。
ほぼ平坦になった岩壁には、そこだけ白っぽく浮き彫りのようなものが施されていた。だが、それは人為的なものではなかった。数千年もの時の侵食を受けて、岩の表面に浮かび上がったそれは、石化した生物の骨であった!
前に大きく張り出した口元と、そこに整然と並ぶ尖った牙。眼窩のすぐ後ろから、天に向かって反り返る角。堅牢な肋骨と強靭な四肢、長く鋭い十六本の爪。しなやかな曲線を描く尾。そして、背中から両側に広げられた、巨大な翼の痕跡――
頭から尾の先までは、十二リルほどもあっただろうか。羽毛の形がはっきりと残る両翼は、十五リルを優に超えていた。
もちろん、こんなものを目にするのは初めてであった。明らかに、現存する生物のものではない。
「最初の人間にして、『最初の都』を築いた百獣の王、ネッドの屍じゃ……」
呟くようにシェダルが言った。ネッドの屍?!……
「まさか?!」
岩に閉じ込められたその生物には、人を思わせるどんな要素も見つけることはできなかった。むしろ、ダンテルカースト平原の獅子や、ボルファステ島の大蜥蜴のような、人をも襲う凶暴性だけが明らかに窺えた。
「……このネッドに較べれば、今の人間とは何とみすぼらしいものか。それでも、人間が再び世界を統べることができたのは、彼の子孫シンが、主の御座から三つの宝を盗んできたおかげじゃ……」
まるで、昔見たことを思い返すかのように目を閉じて、シェダルは言った。
「だが、人間の心には、このネッドと同じ禍々しき姿が潜んでおる。それ故に、人間は往々にして宝を悪しきことに用い、世に苦しみと死をもたらすのじゃ」
確かにその通りであった。
シェダルは振り返った。
「クロネッカ殿、お主はこの岩の壁に何を見る? 人間の愚かさか、それとも主の非情さか?……」
彼の左目は、私の心の裡を見透かそうとするかのように鋭く輝いた。
私は息をついた。
「私は、ここに、シンの偉大さを見ます……」
シェダルは目を見開いた。クリスも、私の顔を見つめていた。
「もし、シンが主の宝を盗まなかったら、我々は今でも、このネッドと同じように獰猛な獣の姿をしていたでしょう。野を駆ける獲物を捕らえ、勝利の咆哮を上げてその生肉を貪り食う……しかし、人はそんな生活から解放された。人は、畑を耕す術を、家畜を飼う術を、家を作り寒さを凌ぐ術を、舟を作り海を渡る術を知っています。すべては主の宝のおかげで……。確かに、人は過ちを犯します。しかし、それを過ちだと知ることができるのもまた、人だけなのではないでしょうか。神説典を作り、主に祈りを捧げることができるのは、我々が、『知』『理』『火』を持った人であるからであり、より主に近い存在だからです。心に巣食う悪鬼をも、人はいずれ己れの力で克服するでしょう。いえ、克服できると信じています」
風が渡っていった。岩が鳴いた。
不意にシェダルが笑った。
「以前にも、お主と同じことを言った者がおったわ……」
そう言うと、彼は歩き出した。
「それは、博士ですか?」
問いかける私に、彼は首を振った。
「ガリオネッティ殿ではない。お主によく似た目をした青年じゃった……」
私に似た?……だが、シェダルはそれ以上語ろうとはしなかった。
我々は、王家の墓を後にした……




