第1節:百人目の約束事
灰色の闇の中に、黄色い蝶の群れが飛び交っていた。天に舞い上がり、地に舞い下りる光の蝶は、やがて一つの球となり、薄暗い虚空に静止した。
その下に、どこかで目にしたような顔が浮かび上がった。慈愛に溢れる瞳の光は、幼い頃の母によく似ていた。熱を出した私の額に冷たいタオルをそっと押し当ててくれた優しい母……しかし、私の顔を不安げに覗き込んでいるのは、母ではなかった。母の髪は輝くような金色だ。燃えるような赤毛ではない……赤毛?……
「気がつかれました?……」
電灯の下で、クリスが尋ねていた。……私は、一体どうしたのだろう?……
「着陸に失敗されて、頭を強くお打ちになられたんです」
心に浮かんだ疑問に答えるように、彼女は言った。……着陸に失敗……眼下を風のように流れる砂地が脳裏を掠めた。
一気に記憶が蘇った。そうだ、私はグラフィアス号での初飛行に挑んだのだった。そして、今横になっているのは、ツァフィア号の船室のベッドの上であった。
「博士は?」
身を起こそうとした私に、クリスは手を貸してくれた。
「博士とラムさんは、砂に埋まったグラフィアス号の回収に出ています」
「大変だ、手伝わないと!……」
痛みの残る頭を押さえて立ち上がろうとした私だったが、両足は言うことを聞かなかった。
「まだ無理です。安静になさっていて下さい」
クリスは、よろめいた私を支えながら、眉根を寄せて言った。
「……グラフィアス号はどうなった?……壊れたかい?」
再びベッドに横になった私は、ポンプで汲み上げた水でタオルを絞るクリスの背中へと声をかけた。
「右の水平先翼が折れたみたいですけど、速度が遅かったので、それ以外は外殻がへこんだ程度で……」
「あ! いいよ、自分でやるから」
彼女が額にタオルを載せようとするのを、私は照れ臭さから遮った。手が触れた。反射的にクリスが手を引いたせいで、タオルはベッドから床へと落ちた。
「あっ、すみません!」
彼女は慌ててそれを拾い上げた。頬が朱に染まっていた。
二度目のタオルを、クリスは顔を伏せて私へと手渡した。私は自分でそれを額に載せた。地下水のひんやりした感覚は、頭の芯で蠢く鈍い痛みをゆっくりと和らげていった。私は目を閉じた。
「……博士と出会ってから、もう半年になるのか。長いようで短かったな……」
私は呟いた。そんなことを口にするのには訳があった。
「そうですね……」
電熱器にかけたヤカンを気にしながら、クリスは言った。
「恥ずかしい話だけど、昨夜は一睡もできなかった。今日が初飛行だと思うと……。僕は、一晩かけて、十数年来の様々な出来事を想い返してみた。幼い頃、寝室の窓から空を飛ぶ鳥の姿に心を奪われて以来、例え友人が誰一人理解してくれなくても、僕の夢は消えることなく、この胸に燃え盛っていた。そして、ガリオネッティ博士との出会い……。あれがなければ、僕の夢は夢のままで終わったと思う。……僕は、一人ベッドの中で、博士とのめぐり会いを主に感謝した。そして笑った。おかしな話だろう? 主の存在を信じない僕が、その主に向かって感謝するなんて……。人間とは自分勝手な生き物だ。自分の都合で真実を否定したり、虚偽を信じたりするのだから……」
クリスは黙って、独り言にも似た私の言葉を聞いていた。ヤカンの注ぎ口からは、湯気が立ち上り始めていた。
「そこでふと思ったんだ。そんなことを考える自分は、全くいつもの自分らしくないと。まるで、今日ですべてが終わってしまうような、人生最期の日を迎えるような、そんな感じだと……馬鹿げているよ。何も今日いきなり天を目指す訳じゃないのに……」
私は一人笑った。しかし、電熱器の電源を切りに立ったクリスの背中は、ピクリと動いた。
「……私の兄もそうでした……」
三人分のコップを用意しながら、彼女は呟くように言った。
「あの日の朝、兄は落ち着かない様子でした。朝食にもほとんど手をつけずに、兄は言いました。自分は主に勝ってみせると……私達から両親を取り上げ、貧しさで苦しめた主がどれほど偉いものなのか、自分の目で確かめてくると……そして、もし、自分の身に何かが起こったとしても、お前は強く生きていくんだぞと……。玄関を出る兄の顔は、とても晴れやかでした。まさかそれが最期の姿になるなんて……私は夢にも思いませんでした……」
お湯を紫茶のポットに注ぐクリスの手が、微かに震えていた。
私は目を閉じると深く息をした。
「クリス、君に前から訊こうと思っていたことがあるんだ……」
「何でしょうか?」
ポットの蓋に手を添えて、紫茶が出るのを待っていた彼女は、しきりに目をしばたかせて笑顔を作った。
「君は……」
そこまで言って、私は迷った。どう切り出すべきだろうか?……
「……君は、どうして博士と一緒に、昇空機の研究を?」
クリスは一瞬驚き、そして俯いた。
紫茶の馨しい香りが、狭い船室に立ち込めた。
「私も、雲の天蓋の向こう側が見てみたかったんです」
やがて、彼女は言った。
「あの低く垂れ込めた雲の向こうには、一体何が広がっているのか? それが、私の小さな頃からの疑問でした。博士と知り合うようになって、私は、その答えを得る手段を見つけたんです……」
コップの一つに紫茶が注がれた。
「どうぞ。大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう」
湯気の漂う紫茶を、私は身を起こして一口飲んだ。
「……しかし、空を飛ぶということは、主に背くということだよ……」
……君は主を信じないのか? それとも、『空を飛ぶ以前の』君の兄と同じように、主を憎んでいるのか?……私は、心の中でそう尋ねていた。
ベッドのそばの椅子に腰を下ろして、クリスは顔を伏せた。
「……私、この界世には、一つの約束事があると思うんです……」
「約束事?」
「犠牲を払うからこそ、欲しいものが手に入る……そんな約束事です。一生懸命麦を育てるからこそ、私達はパンを食べられるし、お金を払って初めて、私達は綺麗な服を着ることができます。すべてはその約束事に従っていると、私は思うんです……」
彼女は、白いスカートの膝の上で、ほっそりした指を組んだ。
「……神説典にはこうあります。『知』も『理』も『火』も、それ自体は、『善』にも『悪』にも属さない中立な『技』であると……。『心』についても、『好奇心』は中立な『態』だと、いつだったか、教会で司祭様がおっしゃっていました。……純粋な『好奇心』を満たすために、『知』を使って空を飛ぶことは、『善』ではないかも知れませんが、『悪』だと決め付けることもできないと思うんです。人間が翼を奪われたのは、主の宮殿から聖なる技を盗んだからであって、主の宮殿に飛んでいったからではありません。……空を飛ぶために、多くの人が命を落としたのは、それが、この世界を支配する約束事に従ったからではないでしょうか。『空を飛ぶ』という目的を手に入れるには、『命』という犠牲を払う必要があったと……」
「……じゃあ、君のお兄さんもその約束事に従ったと?」
私は尋ねた。クリスを苦しめるつもりはなかったが、これだけはどうしても訊いておきたかった。
クリスの体は一瞬強張った。彼女はゆっくりと息をついた。睫毛が震えた。
「……兄は、純粋な好奇心で空を目指してはいませんでした。兄は主を憎んでいましたから……兄は『中立』ではなかったのです。『悪』に偏れば、受け取るものよりも、支払うものの方が大きくなるのは、仕方のないことです……」
喉につかえた言葉を無理やり押し出すようにして言うと、彼女はそこで口を噤んだ。無理をしているな……私はすぐにそう察した。いや、クリスという少女の持つイメージからそう推し量っただけなのかも知れなかったが、とにかくそう思った。
そして、初めて聞くクリス自身の考えを、私は頭の中で何度も思い返した。
「……空を飛ぶために払う犠牲が命なら、どうしたら生きたまま帰ってくることができるんだい?」
彼女の考えが正しければ、それは不可能であるように思われた。
「……博士はお友達を、私は兄を失うという犠牲を払ったことで、今度はどうしたら落ちずに飛べるかということを学んだと思います。……百回空を飛ぶために、九十九人の命の犠牲が必要だとしたら、百人目に飛んだ人は、無事に帰ってこれるのではないでしょうか?……」
「なるほど……じゃあ僕は、百人目かも知れないし、九十九人目かも知れない訳だ……」
私は独り言のように言った。事実、クリスの返事は期待してはいなかった。
「そうですね……」
顔を伏せたまま、クリスは呟いた。言ってしまってから、その言葉の意味に気付いて、彼女は慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい! 馬鹿なことを言いました! 決してそういう意味ではなくて……いえ、公爵様相手にお説教するなんて、どうかしてたんです! 忘れて下さい! 本当にすみません!」
何度も頭を下げるクリスに、私は微笑んだ。
「そんなことはないよ。いい話を聞かせてもらったと思ってる……」
「そんな……」
鉄板の上を急ぎ足でやってくる足音が聞こえてきた。
「ううっ、寒い寒い!」
博士とラムであった。
「お疲れ様です!」
席を立ったクリスは、残る二つのコップに熱い紫茶を注いだ。
「おや、気がついたかね? ラスティ君」
鼻の頭を真っ赤にした博士は、コップを受け取ると椅子に座った。
「すみません、博士。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「もう迷惑を言う間柄でもないだろう。なあに、失敗はあれだけ派手にやった方が次回への教訓になる」
微笑んだ博士は紫茶を口にした。レンズがうっすらと曇った。
「でも、悪くない着地でしたよ。横転でもしていたら、引き起こすのが事でした」
後ろでラムが笑った。
私は、コップの中の紫茶に映る自分の顔をしばらく見つめていた。
「博士、お話があるんです」
やがて、意を決して私は言った。
「クリス、君にも聞いてもらいたい」
私は、そばに座った博士と、その後ろに立ったクリスの顔とを交互に見た。博士は身を乗り出した。
「改まって何かね?」
「……『クルシア』に初めて飲みに行った日の帰り、ソファーの上で、博士はこう言われましたね。クリスのお兄さん、ネイドさんを昇空機に乗せたのは間違いだったと。主を憎んでいた彼を乗せるべきではなかったと」
博士の瞳を、僅かな動揺の色が掠めた。私はクリスに目を向けた。
「クリス、君もさっき言ったね。兄は純粋な好奇心で、天を目指してはいなかった。彼は主を憎んでいたと。……でも、無理にそう思い込むことはないんだ」
「いえ、私は……」
否定しようとしたクリスを、私は手を上げて制した。
「博士。彼の死は、博士の責任ではありません」
私は力を込めて言い切った。
博士とクリスは、私に驚きのまなざしを向けた。
「一体どうしたのかね?」
眉をひそめる博士に、私は微笑んだ。
「今、初めて飛んでみて、わかったんです。ネイドさんの気持ちが……。憧憬の丘から飛び出して、支えを失うことへの恐怖を克服した時、私の胸には歓喜が沸き返りました。自分は、今飛んでいる! その認識は、全身にも有り余るほどの感動をもたらしました。そして思ったんです。もっと高く、もっと自由に空を駆けたいと……」
私は、その時の自分を思い返していた。再び胸が熱くなった。
「それは、まだ人間に翼のあった遠い過去からの記憶なのかも知れません……。でも、とにかく、あの時風に煽られなければ、私はきっと雲の天蓋を目指していたでしょう。その時の私は、『知』も『理』も見失っていました。いつだったか、博士も言われたでしょう。自分が空を飛ぶのは、『心』がそれを求めるからだと……。そうなんです。それは、理屈では縛れない衝動なのです。私は、ネイドさんがどれだけ主を憎んでいたかは知りません。でも、天に舞い上がった昇空機の中の彼にとって、主への憎しみなどという瑣末なことは、きっと思考の外にあったと断言できます! 彼を天へと駆り立てたのは、もっと根源的な、本能にも似た『心』の渇きだったはずなんです!」
拳を握り締めて、私は言った。コップが軋んだ。
博士とクリスは、目を瞠ったまま私の話を聞いていた。コップから立ち上る湯気が薄らいでいった。
「クリス、君のお兄さんは『悪』に偏ってなんかいなかった。彼は、純粋すぎるほどに『中立』だったんだよ」
確信を込めた私の言葉の意味が胸に納まると、彼女の鳶色の瞳には涙が溢れ、頬を伝っていった。
私は唇を噛み締めて、目をそらした。
「……ただ、彼は百人目じゃなかったんだ……」




