第百一話 希望残影
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
そこには、黒いインクでたった一行だけ記されていた。
『法は、救わない。』
その時の僕は、まだ知る由もなかった。
「これは姉さんの字」
ただ、その言葉だけが妙に胸へ引っ掛かった。
その時の僕は、まだ知る由もなかった。
――この一文が、数年後、俺と兄さんたちの運命を大きく変えることになるとは。
紅石兄さんの声で我に返る。
「それ、持って帰るぞ」
「でも……」
「証拠だ」
兄さんは紙を慎重に封筒へ入れた。
「今の俺たちには、怒りより先に必要なものがある」
「……何?」
兄さんたちは地下室を見渡す。
「事実だ」
その言葉が、妙に冷たく響いた。
僕たちは地下室を隅々まで調べた。
しかし、姉さんの写真も、服も、日記もなかった。
まるで最初から、姉さんという人間がここに存在しなかったかのように。
父さんは言葉にならない言葉を発していた。
そして、俺たちはその隙に逃げ出した。
それから一週間。
父さんから連絡は来なかった。
僕たちは狭い部屋で暮らした。
金もない。
食べるものも最低限。
さらに警察やマスコミが毎日のように押しかけてきた。
「大悲山邸宅への侵入事件について」
「ご家族から話を聞かせてください」
僕たちは何も答えなかった。
二週間後。
突然。
玄関に黒い革の鞄が置かれていた。
中には大量の現金。
ただ、それだけ。
「……父さん?」
僕は呟く。
協力者の一人、九十九さんが家を訪ねてきた。
「ボスがお前たちを呼んでいる。来てくれ」
紫紅兄さんは眉をしかめた。
「ボス? 何のことだ。行くわけないだろ」
その言葉が終わる前に、数人の男たちが静かに俺たちを囲んだ。
「悪いが、拒否権はない」
僕たちは車に乗せられ、山奥へ向かった。
連れて来られたのは、かつて大悲山家が所有していた別宅だった。
重い扉が開く。
部屋の中央には、一人の男が座っていた。
「……父さん」
痩せた頬。
伸びた髪。
鋭くなった眼差し。
二週間前まで知っていた父とは、まるで別人だった。
父は静かに笑った。
「来たか。偉大なる息子たち」
沈黙を破ったのは僕だった。
「姉さんは……どうなったの?」
「母さんは?」
父の笑みが消える。
しばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「姉さんは喰われた」
部屋の空気が止まる。
「残骸しか見つけられなかった」
僕は何も言えなかった。
紅石兄さんが一歩前へ出る。
「大悲山の奴らはどこだ」
父はゆっくりと顔を上げた。
「あいつらは、自分たちの権力で全てを揉み消そうとした」
「金も、地位も、コネも使ってな」
「だが、俺は受け入れなかった」
父の声は静かだった。
静かすぎて、かえって恐ろしかった。
「だから終わらせた」
その一言だけで十分だった。
何が起きたのか。
どんな結末になったのか。
父は詳しく語らなかった。
それでも、その場にいた全員が理解してしまった。
紅石兄さんは拳を握り締める。
「……どこが終わったんだ」
「姉さんは戻ってこない」
「何も終わってない」
紫紅兄さんも父を見つめた。
「父さん」
「連絡もよこさず、何をしていたんだ」
父は少しだけ目を伏せる。
「後始末だ」
「証拠を消し、人を動かし、お前たちが生き残れるよう準備をしていた」
「玄関に置いた金も、そのためだ」
僕は思わず口を開く。
「あの鞄……父さんだったの?」
父は小さく頷いた。
「しばらくは、その金でも暮らせる」
「普通の生活には戻れない」
紫紅兄さんは首を横に振った。
「父さん」
「それで本当に良かったのか」
父は何も答えない。
紫紅兄さんは続けた。
「父さんは俺たちに、人は人を憎み続けちゃいけないって教えてくれた」
「なのに……」
「今の父さんは、あいつらと何が違う」
部屋が静まり返る。
父はゆっくりと立ち上がった。
「違わない」
その一言に、全員が息をのむ。
「俺は、もう戻れない」
「蒼月を守れなかったあの日に、父親としての俺は死んだ」
父は窓の外へ目を向ける。
「でも良いじゃないか、蒼月は死んだ。」
「俺は生き残った。」
「この世界じゃ、それだけで勝ちなんだ。」
「そうだろ?」
紫紅兄さんも、紅石兄さんも、父を見つめたまま何も言わなかった。
だけど僕だけは違った。
父は確かに変わってしまった。
それでも――
誰も守れなかった後悔だけは、本物だった。
あの日の僕には、その背中が希望に見えた。
いつもご愛読賜りまして、誠にありがとうございます。
重く深いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はなお続いております。
彼らの心の揺れや選択の行く末を、これからも温かく見守っていただけますと幸いに存じます。
一歩ずつ前へ進む姿を、読者の皆様と共に感じられますことを心より願っております。
次回も変わらぬご厚情を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
次回更新日:8月16日(土)2時から、日付変わるまで二時間おきに投稿予定。(社会情勢によって変動。)
(16時,18時,20時,22時)
12/25




