第9話 母が遺したものでございます
五月二十四日。ベルクマン家から、代理人の方がいらっしゃいました。
郡の法官をなさっていたという年配の方で、名をブラント様と申します。クルトさんが案内していらっしゃいました。
館の応接に通して、お茶をお出しいたしました。ブラント様は鞄から書類を出して、机の上でお広げになります。
「単刀直入に申し上げます。氷室の帰属について、伯爵夫人よりご相談を受けました」
「うかがいます」
「婚約に際して、リンデ家からベルクマン家へ、氷の供給が約されております。これは婚資の一部とみなし得る、というのが夫人のお考えです」
「書面がございますか」
「婚約の覚書に、氷、という一語がございます」
ブラント様は、そのお言葉を口にされるとき、少しだけ目を伏せられました。
この方はお分かりなのだと思いました。一語では足りないことを。
「その覚書は、三年前のものでございますね」
「はい」
「では、こちらもお出しいたします」
わたくしは席を立って、櫃から油紙の包みを持ってまいりました。麻紐を解いて、机の上で開きます。
母の遺言状でございます。
厚い紙が三枚。母の字で、財産の分けが書いてございます。館は父へ、畑は父へ、そして氷室と、その鍵と、帳面はわたくしへ。
「氷室、ならびに氷室に付属する一切の道具・帳簿・鍵は、娘エルナに遺す。婚姻の有無を問わず、これを娘の名において保持させる」
ブラント様は、その一行を二度お読みになりました。
「……婚姻の有無を問わず」
「はい」
「これは、いつの」
「十一年前でございます。母が亡くなります、ひと月前でございました」
わたくしは二枚目をめくりました。裏の余白に、別の字がございます。
「裏書きでございます」
ブラント様が身を乗り出されました。
そこには、郡役所の登記の番号と、証人の署名が二つ入っております。
ひとつは郡の書記官のもの。
もうひとつは、先代のベルクマン伯爵、アルヴィン様のお父上のものでございました。
応接が、しばらく無言になりました。クルトさんが、扉の脇で息を吸われるのが分かりました。
「……先代様が」
「はい」
「なぜ、先代様が」
「母と先代様は、氷の取り決めをなさった間柄でございます」
わたくしは三枚目を開きました。そちらは母の帳面から写した頁で、氷の配りの取り決めが書いてございます。
「ベルクマン家のお館へひと月三十箱。宴に四百箱。その代わりに、冬の切り出しの人夫の賃金を、伯爵家が半分持つ。二十二年前の取り決めでございます」
「賃金を、半分」
「はい。今も半分いただいております。今年の一月も、七十二枚頂戴しております」
ブラント様は、書類をお戻しになりました。それから、鞄の留め金を閉じられました。
「これは、争えません」
「さようでございますか」
「争えば、伯爵家は二十二年ぶんの取り決めを自分で否定することになります。氷室がリンデ家のものでなければ、賃金の半分を出していた説明がつきません」
この方は立ち上がって、頭を下げられました。
「夫人には、私から申し上げます。……お嬢さん、ひとつ伺ってもよろしいか」
「どうぞ」
「なぜ、はじめにこれをお出しにならなかったのです。四月に出しておられれば、面倒は起きなかった」
わたくしは、少し考えました。
「お尋ねになりませんでしたので」
ブラント様は、目を細められました。それから、初めて少しお笑いになりました。
「なるほど。おっしゃるとおりだ」
その方をお見送りしたあと、クルトさんが残られました。
お茶をもう一杯お出しして、わたくしも腰を下ろしました。この方は、少し言いにくそうにしていらっしゃいます。
「お嬢様。差し出がましいことを申し上げますが」
「はい」
「奥様は、ご存じないのです。氷室というものを」
「存じております」
「いえ。そうではなく」
クルトさんは、湯呑みを両手で包まれました。
「奥様のご実家には、氷室がございません。海の近くのお家で、夏の氷は毎年、商人から買っておいででした。金を出せば桶で届く。奥様は、そういう夏しかご存じないのです」
わたくしは、湯気を見ておりました。
「では、氷は氷室にあるでしょう、というのは」
「あの方にとっては、そのとおりなのでございます。桶は毎年ございましたから」
そうでございましたか、とだけ申し上げました。
それでご立腹が晴れるわけではございません。けれど、憎むには少しだけ足りなくなりました。
「クルトさん。ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「冬の人夫の賃金は、来年からご無用でございます、と奥様にお伝えくださいませ」
クルトさんが顔を上げられました。
「それは、こちらが困ります」
「困りませんでしょう。氷室はお持ちになりましたので」
この方は何かおっしゃりかけて、それから深く頭を下げられました。
帰り際、扉のところでクルトさんが振り返られました。
「そうだ。お伝えし忘れておりました。宴の後援を、アウエンベルク侯爵夫人がなさることになりました」
「王都の」
「はい。六月の初めに、こちらへお発ちになるそうでございます。街道を、馬車で」
わたくしは、街道という言葉のところで、少しだけ手を止めました。
王都からここまで、荷馬車で六日。お客の馬車でしたら、四日か五日でございましょう。
その道の途中に、フェルデの村がございます。
この話に出てまいります証文は、母上が亡くなる前の年に取っておいたものでございます。備えていたわけではなく、毎年やっていたことの一つとして、裏書きをいただいておいただけでございます。
毎年やっていたことは、たいてい、必要になる日まで誰の目にも入りません。
次の話、奥様が王都からお戻りになります。算盤を持って。




