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婚約解消を承りました。今年の夏、氷室の鍵はお預かりしたままです 〜避暑の宴に氷が届かないのは、わたくしの落ち度ではございません〜  作者: 遠野ひなこ


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8/15

第8話 氷室は掘れます。氷は掘れません

 五月十八日。アルヴィン様が、朝早くに馬でいらっしゃいました。


「エルナ。来てくれ。見てほしいものがある」


 お顔が、少し赤うございました。坂を駆け上がっていらしたのだと思います。


 わたくしは帳面を置いて、馬の後を歩いてまいりました。ベルクマン領の南の丘でございます。


 人が集まっておりました。三十人ほどでございましょうか。近くの村の方々と、伯爵家の使用人と、それからレーヌ様も日除けの下にいらっしゃいます。


 丘の腹に、穴が開いておりました。


 新しい氷室でございます。石を組んだ入口があって、そこから奥へ、掘り下げた道が続いております。土はまだ湿って、新しい匂いがしております。


「十二日で掘った」


 アルヴィン様は、汗を拭いながら仰いました。


「人夫を三十人入れた。石は領の採石場から出した。設計は王都の書物を取り寄せて、そのとおりに造らせた。壁の厚み、床の砂利、排水の傾き、全部そのとおりだ」


「立派でございます」


 本当でございました。


 わたくしは入口から中へ入って、壁に手を当てました。石はきちんと積んでございます。床の砂利も厚うございます。傾きも、水が奥へ溜まらないように、ちゃんと外へ向いております。


 うちの氷室より、よほど新しくて、よほど丁寧に造られております。


 外へ出ますと、アルヴィン様が待っていらっしゃいました。


「どうだ」


「よくできております。うちのものより、上でございましょう」


「本当か」


「はい」


 アルヴィン様は、日除けの方を振り返って、レーヌ様に何かお伝えになりました。夫人が扇の陰でうなずかれます。


 集まった方々のあいだから、少し拍手が起こりました。


 わたくしは、その拍手が収まるのを待ちました。


「アルヴィン様」


「うん」


「氷は、いつお入れになりますか」


 拍手の名残が、丘の上から消えました。


 アルヴィン様は、わたくしの顔をご覧になりました。それから、穴の方をご覧になりました。


「……王都から買った氷を入れる」


「さようでございますね。それでしたら、この氷室は確かに保ちます。石も砂利も傾きも、よく造ってございますから」


「そうだろう」


「ただ、入れる氷が四百箱ではございません」


 わたくしは、袖から紙を出しました。昨日、クルトさんにお渡ししたものの写しでございます。


「王都からここまで六日。荷馬車の上では一日に一割融けます。百箱積んで、着くのが五十三箱でございます。四百箱を着けるには八百箱を積むことになります」


「……八百」


「王都のゴットハルト商会に、夏の氷が八百箱ございますでしょうか」


 アルヴィン様は、答えられませんでした。


 わたくしは、紙を畳んで袖に戻しました。


「それから、もうひとつだけ」


「なんだ」


「氷室は掘れます。氷は掘れません」


 風が、丘の草を鳴らしました。


「今からこの氷室に入れられる氷は、どこかで既に切ってあった氷だけでございます。この夏に間に合う氷は、この冬に切っておくよりほかにございませんでした。それが済んでおりますのは、わたくしのところの千二百箱でございます」


「……冬に」


「はい」


 アルヴィン様は、口を半分開けたまま、掘ったばかりの穴をご覧になっておりました。


 新しい石。新しい砂利。ひとつも間違っていない傾き。


 そのどこにも、氷はございません。


「氷は……冬に、作るものなのか」


 声が、少し掠れていらっしゃいました。


 わたくしは、はい、と申し上げました。


 その一言を三年待っていたのだと、そのとき気づきました。責める言葉でも、謝る言葉でもございません。この方がご自分で口に出す、その一言でございました。


「一月の九日から二十二日まででございます。湖が一番厚くなる二週間。人手が十四人。切って、運んで、埋めて、閉じます。それで千二百箱でございます」


「……十四人」


「はい」


「その十四人は」


「麓の村の方々でございます。冬のあいだは畑がございませんので、あの二週間だけ来ていただきます」


 アルヴィン様は、丘の下を見下ろされました。村の家並みが、朝の光の中に小さく並んでおります。


 日除けの下から、レーヌ様の声がいたしました。


「アルヴィン。何を油を売っておいでなの。皆さんがお待ちよ」


「……はい、母上」


 アルヴィン様は、そちらへ歩き出されました。二歩ほど行って、止まりました。


 それから、振り返らずに仰いました。


「エルナ。すまない、とは言わない」


「はい」


「言っても、氷は増えない」


 わたくしは、頭を下げました。


 この方は日除けの方へ戻って、集まった方々に何かご挨拶をなさいました。声はよく通っておりましたが、内容は途中から入ってまいりませんでした。


 拍手がもう一度、少しだけ起こりました。


 帰り道、丘を下りながら、わたくしは新しい氷室をもう一度振り返りました。


 入口が黒く開いております。中は空でございます。


 あの氷室は、来年の一月には使えます。石も砂利も傾きも合っておりますから、湖の氷を運び込めば、来年の夏には四百箱を保つでしょう。


 造ったものが無駄だったのではございません。造った順が、逆だっただけでございます。


 坂を上がって氷室へ戻りますと、ヨナスが扉の前に座っておりました。


「見てきたか」


「見てまいりました」


「どうだった」


「うちのより、上でございました」


 ヨナスは、ふん、と鼻を鳴らしました。それから、掌を柱に当てました。


「七百六十そこそこだな」


 わたくしは帳面を開いて、五月十八日と書き入れました。数は、七百六十二でございました。


 筆を置いたところで、ヨナスが煙草を出しながら申しました。


「坊っちゃん、来年の一月に来るぞ」


「なぜ、そうお思いに」


「掘った穴を見た顔だ。ああいう顔をした奴は、次は湖に来る」


 わたくしは、何も申し上げませんでした。


 来年の一月まで、あと二百三十六日ございます。


 その前に、今年の六月十日が来ます。

氷室は数日で掘れます。氷は掘れません。


この一行を言うために、ここまで氷を数えてまいりました。


アルヴィン様がようやく口にした「氷は……冬に、作るものなのか」は、謝罪ではございません。ただの質問でございます。それでも、三年のあいだ一度も出てこなかったものが、一つ出た話でございます。


次の話で、櫃の底の油紙がやっと開きます。

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