第8話 氷室は掘れます。氷は掘れません
五月十八日。アルヴィン様が、朝早くに馬でいらっしゃいました。
「エルナ。来てくれ。見てほしいものがある」
お顔が、少し赤うございました。坂を駆け上がっていらしたのだと思います。
わたくしは帳面を置いて、馬の後を歩いてまいりました。ベルクマン領の南の丘でございます。
人が集まっておりました。三十人ほどでございましょうか。近くの村の方々と、伯爵家の使用人と、それからレーヌ様も日除けの下にいらっしゃいます。
丘の腹に、穴が開いておりました。
新しい氷室でございます。石を組んだ入口があって、そこから奥へ、掘り下げた道が続いております。土はまだ湿って、新しい匂いがしております。
「十二日で掘った」
アルヴィン様は、汗を拭いながら仰いました。
「人夫を三十人入れた。石は領の採石場から出した。設計は王都の書物を取り寄せて、そのとおりに造らせた。壁の厚み、床の砂利、排水の傾き、全部そのとおりだ」
「立派でございます」
本当でございました。
わたくしは入口から中へ入って、壁に手を当てました。石はきちんと積んでございます。床の砂利も厚うございます。傾きも、水が奥へ溜まらないように、ちゃんと外へ向いております。
うちの氷室より、よほど新しくて、よほど丁寧に造られております。
外へ出ますと、アルヴィン様が待っていらっしゃいました。
「どうだ」
「よくできております。うちのものより、上でございましょう」
「本当か」
「はい」
アルヴィン様は、日除けの方を振り返って、レーヌ様に何かお伝えになりました。夫人が扇の陰でうなずかれます。
集まった方々のあいだから、少し拍手が起こりました。
わたくしは、その拍手が収まるのを待ちました。
「アルヴィン様」
「うん」
「氷は、いつお入れになりますか」
拍手の名残が、丘の上から消えました。
アルヴィン様は、わたくしの顔をご覧になりました。それから、穴の方をご覧になりました。
「……王都から買った氷を入れる」
「さようでございますね。それでしたら、この氷室は確かに保ちます。石も砂利も傾きも、よく造ってございますから」
「そうだろう」
「ただ、入れる氷が四百箱ではございません」
わたくしは、袖から紙を出しました。昨日、クルトさんにお渡ししたものの写しでございます。
「王都からここまで六日。荷馬車の上では一日に一割融けます。百箱積んで、着くのが五十三箱でございます。四百箱を着けるには八百箱を積むことになります」
「……八百」
「王都のゴットハルト商会に、夏の氷が八百箱ございますでしょうか」
アルヴィン様は、答えられませんでした。
わたくしは、紙を畳んで袖に戻しました。
「それから、もうひとつだけ」
「なんだ」
「氷室は掘れます。氷は掘れません」
風が、丘の草を鳴らしました。
「今からこの氷室に入れられる氷は、どこかで既に切ってあった氷だけでございます。この夏に間に合う氷は、この冬に切っておくよりほかにございませんでした。それが済んでおりますのは、わたくしのところの千二百箱でございます」
「……冬に」
「はい」
アルヴィン様は、口を半分開けたまま、掘ったばかりの穴をご覧になっておりました。
新しい石。新しい砂利。ひとつも間違っていない傾き。
そのどこにも、氷はございません。
「氷は……冬に、作るものなのか」
声が、少し掠れていらっしゃいました。
わたくしは、はい、と申し上げました。
その一言を三年待っていたのだと、そのとき気づきました。責める言葉でも、謝る言葉でもございません。この方がご自分で口に出す、その一言でございました。
「一月の九日から二十二日まででございます。湖が一番厚くなる二週間。人手が十四人。切って、運んで、埋めて、閉じます。それで千二百箱でございます」
「……十四人」
「はい」
「その十四人は」
「麓の村の方々でございます。冬のあいだは畑がございませんので、あの二週間だけ来ていただきます」
アルヴィン様は、丘の下を見下ろされました。村の家並みが、朝の光の中に小さく並んでおります。
日除けの下から、レーヌ様の声がいたしました。
「アルヴィン。何を油を売っておいでなの。皆さんがお待ちよ」
「……はい、母上」
アルヴィン様は、そちらへ歩き出されました。二歩ほど行って、止まりました。
それから、振り返らずに仰いました。
「エルナ。すまない、とは言わない」
「はい」
「言っても、氷は増えない」
わたくしは、頭を下げました。
この方は日除けの方へ戻って、集まった方々に何かご挨拶をなさいました。声はよく通っておりましたが、内容は途中から入ってまいりませんでした。
拍手がもう一度、少しだけ起こりました。
帰り道、丘を下りながら、わたくしは新しい氷室をもう一度振り返りました。
入口が黒く開いております。中は空でございます。
あの氷室は、来年の一月には使えます。石も砂利も傾きも合っておりますから、湖の氷を運び込めば、来年の夏には四百箱を保つでしょう。
造ったものが無駄だったのではございません。造った順が、逆だっただけでございます。
坂を上がって氷室へ戻りますと、ヨナスが扉の前に座っておりました。
「見てきたか」
「見てまいりました」
「どうだった」
「うちのより、上でございました」
ヨナスは、ふん、と鼻を鳴らしました。それから、掌を柱に当てました。
「七百六十そこそこだな」
わたくしは帳面を開いて、五月十八日と書き入れました。数は、七百六十二でございました。
筆を置いたところで、ヨナスが煙草を出しながら申しました。
「坊っちゃん、来年の一月に来るぞ」
「なぜ、そうお思いに」
「掘った穴を見た顔だ。ああいう顔をした奴は、次は湖に来る」
わたくしは、何も申し上げませんでした。
来年の一月まで、あと二百三十六日ございます。
その前に、今年の六月十日が来ます。
氷室は数日で掘れます。氷は掘れません。
この一行を言うために、ここまで氷を数えてまいりました。
アルヴィン様がようやく口にした「氷は……冬に、作るものなのか」は、謝罪ではございません。ただの質問でございます。それでも、三年のあいだ一度も出てこなかったものが、一つ出た話でございます。
次の話で、櫃の底の油紙がやっと開きます。




