第10話 三百箱、そのうち百五十箱は売約済み
六月一日。ベルクマン家のお館へ呼ばれました。
応接には暖炉の火が入っておりません。今年初めてでございます。
レーヌ様と、アルヴィン様と、クルトさん。そしてもうお一人、初めてお目にかかる方がいらっしゃいました。
背の高い、五十くらいの男の方でございます。旅の埃を落としたばかりという身なりで、膝の上に大きな帳面を載せていらっしゃいます。
「ゴットハルトと申します。王都で氷を扱っております」
商会主の方が、ご自分でお出でになったのでございます。
「リンデ家のエルナと申します」
「あなたのお名前は、道々で伺いました。街道の宿で、氷はリンデの山から来ると聞きましたので」
レーヌ様が扇をお開きになりました。
「商いの話をいたしましょう。ゴットハルト、四百箱の手配はどうなっておりますの」
ゴットハルト様は、膝の帳面をお開きになりました。
「奥様。まず、五月の便のご報告からいたします」
「届いておりますわね」
「五月の二日に五十箱を積み出しまして、こちらへ着きましたのが二十六箱でございます。お館に氷室がございませんので、厨の脇の桶へお入れいただきました」
「では、あるではありませんの」
「二日で終いでございます。桶で保ちますのは、それだけでございますので」
扇の先が、少しだけ下がりました。
「あの二十六箱は、五月の八日と九日で融け終わっております。宴は、六月十日でございます」
その二日のことを、わたくしは今日まで存じませんでした。お知らせにならなかったのでございます。
ゴットハルト様は、頁をお繰りになりました。
「では、これからの数を申し上げます」
この方は、指を頁に置いて、ゆっくりと読み上げられました。
「当商会が今、王都の氷室に持っております夏の氷は、三百箱でございます」
扇が、止まりました。
「そのうち百五十箱は、既に売約済みでございます。王宮の夏の御用と、王都の三つの氷菓屋。契約は冬のうちに結んでおります」
「では、残りは」
「百五十箱でございます」
部屋が、ひとつ息を置きました。
ゴットハルト様は頁をめくって、続けられました。
「百五十箱を荷馬車に積んで、街道を六日。この時季でしたら、一日に一割は融けます。到着は、八十箱前後でございましょう」
「八十」
「はい」
レーヌ様が、扇を閉じられました。その手が、ほんの少し止まってから、膝の上に下りました。
「……ほかの商会は」
「王都に夏の氷を扱う者は四軒ございます。三軒に当たりましたが、いずれも冬の切り出しぶんは春までに売り切れております。氷というのは、そういう商いでございますので」
「金を出しますわ。倍でも」
「奥様。無いものは、倍でも三倍でも出てまいりません」
ゴットハルト様は、帳面をお閉じになりました。
「わたくしどもが売っておりますのは氷ではございません。去年の冬の労賃と、氷室の場所代でございます。今年の夏に金を積まれても、去年の冬を買うことはできません」
アルヴィン様が、窓の方を向いていらっしゃいました。
北の山の雪が八十一箱、王都からの氷が八十箱。合わせて百六十箱ほど。宴で要るのが四百箱。
どなたも、その足し算を口には出されませんでした。もう全員がお済ませになっているからでございます。
「エルナさん」
レーヌ様が、初めてわたくしの名をお呼びになりました。
「はい」
「氷室に、七百箱あると仰いましたわね」
「六月十日の見込みで、七百箱でございます」
「お譲りいただけませんこと」
わたくしは、膝の上で指を組みました。
この方が譲れと仰るのではなく、譲っていただけないか、とお尋ねになりました。四月にはなかった形でございます。
ですから、正直に申し上げました。
「七百箱のうち、四百箱は宴の分として帳面に載せてございます。それは、五月にわたくしの方から外させていただきたいと申し上げて、そのままになっておりました」
「では、まだ載っておりますのね」
「載っております。宴までは、これまでどおりと申し上げましたので」
レーヌ様が、身を乗り出されました。
「でしたら」
「ただ、そのあとに三百箱ございます。館の分が百二十、村の分が九十、予備が七十でございます」
わたくしは、ひと呼吸置きました。
「村の分は、お出しできません」
「村」
「麓の七つの村でございます。六月の半ばから九月の頭まで、十日に一度お配りしております」
レーヌ様は、わたくしの顔をご覧になりました。それから、扇をまたお開きになりました。
「そんなものを、なぜ」
「二十年、そうしております」
「今年だけ止めれば済むではありませんの」
わたくしは、答えませんでした。
答えるべきことがなかったのではございません。答えを差し上げても、この方の中にはまだ、村の氷を置く場所がないのだと思いました。
「お返事は、後日にさせてくださいませ」
それだけ申し上げて、頭を下げました。
帰り際、玄関でゴットハルト様に追いつかれました。
「リンデのお嬢さん。ひとつ伺ってよろしいか」
「はい」
「あなたのところの千二百箱は、どなたがお切りになった」
「麓の村の方々が、十四人でございます」
「毎年」
「毎年でございます」
ゴットハルト様は、少しのあいだ黙っていらっしゃいました。それから、帽子をお取りになって、頭を下げられました。
「よい話を伺いました。道中の疲れが取れました」
その日の夕方、坂を上がってきたクルトさんが、報せをひとつ置いていかれました。
アウエンベルク侯爵夫人が、昨日、王都をお発ちになったそうでございます。
街道を馬車で。途中、フェルデの宿にお泊まりになる予定だと。
わたくしは帳面を開いて、六月一日の欄に数を書き入れました。七百二十七箱でございます。
その下に、もう一行だけ書き足そうとして、筆を止めました。
村の分をお出しできませんと申し上げたのは、本当でございます。
けれど、氷室を開けるかどうかは、まだ書けませんでした。
三百箱のうち百五十箱は売約済み。残りを積んで街道を六日走れば、着くのはおよそ八十箱。宴に要るのは四百箱でございます。
誰も嘘をついておりません。誰も怠けてもおりません。ただ、誰も数えなかっただけでございます。この作品の悪役は、最後までそれだけでございます。
次の話から、相手が変わります。数字の通じない方が、王都から街道を来ておられます。
ブックマークと☆は、ヨナスの夜なべの湯呑み代に充てさせていただきます。




