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婚約解消を承りました。今年の夏、氷室の鍵はお預かりしたままです 〜避暑の宴に氷が届かないのは、わたくしの落ち度ではございません〜  作者: 遠野ひなこ


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2/15

第2話 氷など、氷室にあるでしょう

 四月十二日。ベルクマン伯爵家の応接間は、暖炉に火が入っておりました。


 春の午後でございますから、正直に申し上げれば少し暑うございます。けれどこのお屋敷では、客が来ると火を入れるのが決まりなのだそうでございます。夏でもそうなさると伺ったことがございました。


 わたくしは書面を二通、机の上に置きました。婚約解消の申し入れと、その写しでございます。


 レーヌ様は、片方だけを指先で引き寄せてご覧になりました。ベルクマン伯爵夫人。アルヴィン様のお母上でございます。


「アルヴィンから聞きましたわ。おかしなことをお言いだと思って」


「ご迷惑をおかけいたします」


「迷惑というほどのことでもなくてよ。若い方は、こういう時期がありますもの」


 夫人はもう一通の写しには手を触れず、扇をお開きになりました。この方はいつも、扇を開いてから話の向きをお変えになります。


「それより、宴のことですけれど。客が二百人になりましたの。三日間ですわ」


「うかがっております」


「では、氷を四百箱では足りませんわね。六百は要るでしょう」


 わたくしは膝の上で指を組みました。


 二百人が三日で四百箱というのは、去年の勘定でございます。去年は百人で三日、それで二百箱を使い、残りの二百箱を氷菓と魚と酒の冷やしに回しております。客が倍になれば六百というのは、決して雑な見積もりではございません。


 ですから、そこは正しいのでございます。正しくないのは、その六百がどこから出てくるかという一点だけでございました。


「奥様」


「なあに」


「氷室に残っておりますのが、六月十日の見込みで七百箱でございます」


「では足りるではありませんの」


 夫人は扇を閉じられました。話が済んだ、という合図でございます。


 わたくしは、鞄の中の帳面に触れました。三年ぶんの出納が入っております。ここでお開きすれば、七百箱の内訳と、そのうち館と村に配る分と、そして氷室が誰のものかという話まで、一度に申し上げられます。


 けれど、開きませんでした。


 この方は、まだ何もお尋ねになっていないからでございます。尋ねられていないことを並べ立てるのは、押し売りと申します。母がそう申しておりました。


「奥様、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「氷は、どこから来るとお思いでいらっしゃいますか」


 レーヌ様は、ほんの少し眉をお動かしになりました。それから、扇をまたお開きになりました。


「氷など、氷室にあるでしょう」


「さようでございますか」


「リンデのお嬢さん、話が長くてよ。婚約のことはアルヴィンとお決めなさいな。氷のことは、これまでどおりで結構ですわ」


 わたくしは立ち上がって、頭を下げました。写しの一通は、机の上に置いたままにしておきました。


 部屋を出るとき、扉のところで少しだけ振り返りました。夫人は置いていった写しを手に取ろうとして、途中でお止めになりました。指が紙の縁で止まって、そのまま扇の方へ戻ってゆきます。


 ——ああ、この方は、あの紙を読むおつもりがないのだ。


 そう思いました。読めないのではございません。読む必要をお感じにならないのでございます。


 廊下でクルトさんとすれ違いました。家令のクルトさんは、わたくしが子供の頃からこのお屋敷にいらっしゃいます。すれ違いざまに、鞄をお持ちしましょうかと仰いました。結構でございますとお答えしましたら、少し困った顔をなさいました。


 馬車でリンデの領に戻りますと、日が傾いておりました。


 門のところにヨナスが立っております。腰の後ろで手を組んで、こちらを見ておりました。七十二になりますが、背は曲がっておりません。


「どうだった」


「これまでどおりで結構、と仰せでございました」


「ふん」


 ヨナスは鼻を鳴らして、氷室の方へ歩き出しました。わたくしも荷を置いて、後を追います。


 氷室の扉の前まで来ると、この人はいつも柱に手のひらを当てます。四十年の癖でございます。掌で木の冷たさを測って、中の氷がどれだけ融けているかを言い当ててしまいます。帳面よりも半日早く分かるので、わたくしはこの手のひらを信用しております。


「八百六十そこそこだな」


「昨日で八百六十四でございました」


「合っとる」


 それから、ヨナスは扉を見たまま申しました。


「あの家は、氷が湧いてくるとでも思っとる」


 わたくしは、何も申し上げませんでした。ヨナスは腰から布を出して掌を拭いております。


「奥様が言うとったよ。あの家に嫁いだら、たぶん誰も帳面を見ん、と」


 母のことでございます。


「母は、それでも嫁がせるおつもりでしたか」


「知らんね。わしは字が読めん。奥様が何を書いとったかは知らん」


 そう言って、ヨナスは扉の閂に手をかけました。閂は樫でできていて、冬のあいだに一度反ったものを、この人が削って直しております。


「わしは字が読めんが、氷は読める。それだけだ」


 その晩、わたくしは母の帳面を出して、いちばん古い頁を開きました。


 十七年前でございます。母の字で、切り出し九百箱、と書いてございます。その横に、配り先が三つ。宴、館、村。


 村、という欄がいつからあるのか、わたくしは知りません。物心ついたときには、もうございました。


 紙を戻して、蝋燭を吹き消しました。


 暗くなった部屋で、ひとつだけ分からないことがございます。


 あの奥様は、これまでどおりで結構、と仰いました。けれど、これまでどおりというのは、わたくしが数えて、わたくしが配るということでございます。


 それをご存じないまま、あの家は、この夏の氷をどうなさるおつもりなのでしょう。

ヨナスが出てまいりました。七十二歳、字が読めません。読めませんが、氷は読めます。作者はこの老爺を書いているあいだだけ敬語から解放されるので、たいへん楽をしております。


「あの家は、氷が湧いてくるとでも思っとる」——この一行で、この話の対立はもう全部説明が済んでおります。あとの十三話は、それを数字で確かめていく作業でございます。


次の話、エルナは氷室の前で帳面を開きます。千二百箱から始まる数字は、全部検算できるようにしてございます。よろしければ指を折りながらお付き合いくださいませ。

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