第2話 氷など、氷室にあるでしょう
四月十二日。ベルクマン伯爵家の応接間は、暖炉に火が入っておりました。
春の午後でございますから、正直に申し上げれば少し暑うございます。けれどこのお屋敷では、客が来ると火を入れるのが決まりなのだそうでございます。夏でもそうなさると伺ったことがございました。
わたくしは書面を二通、机の上に置きました。婚約解消の申し入れと、その写しでございます。
レーヌ様は、片方だけを指先で引き寄せてご覧になりました。ベルクマン伯爵夫人。アルヴィン様のお母上でございます。
「アルヴィンから聞きましたわ。おかしなことをお言いだと思って」
「ご迷惑をおかけいたします」
「迷惑というほどのことでもなくてよ。若い方は、こういう時期がありますもの」
夫人はもう一通の写しには手を触れず、扇をお開きになりました。この方はいつも、扇を開いてから話の向きをお変えになります。
「それより、宴のことですけれど。客が二百人になりましたの。三日間ですわ」
「うかがっております」
「では、氷を四百箱では足りませんわね。六百は要るでしょう」
わたくしは膝の上で指を組みました。
二百人が三日で四百箱というのは、去年の勘定でございます。去年は百人で三日、それで二百箱を使い、残りの二百箱を氷菓と魚と酒の冷やしに回しております。客が倍になれば六百というのは、決して雑な見積もりではございません。
ですから、そこは正しいのでございます。正しくないのは、その六百がどこから出てくるかという一点だけでございました。
「奥様」
「なあに」
「氷室に残っておりますのが、六月十日の見込みで七百箱でございます」
「では足りるではありませんの」
夫人は扇を閉じられました。話が済んだ、という合図でございます。
わたくしは、鞄の中の帳面に触れました。三年ぶんの出納が入っております。ここでお開きすれば、七百箱の内訳と、そのうち館と村に配る分と、そして氷室が誰のものかという話まで、一度に申し上げられます。
けれど、開きませんでした。
この方は、まだ何もお尋ねになっていないからでございます。尋ねられていないことを並べ立てるのは、押し売りと申します。母がそう申しておりました。
「奥様、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「氷は、どこから来るとお思いでいらっしゃいますか」
レーヌ様は、ほんの少し眉をお動かしになりました。それから、扇をまたお開きになりました。
「氷など、氷室にあるでしょう」
「さようでございますか」
「リンデのお嬢さん、話が長くてよ。婚約のことはアルヴィンとお決めなさいな。氷のことは、これまでどおりで結構ですわ」
わたくしは立ち上がって、頭を下げました。写しの一通は、机の上に置いたままにしておきました。
部屋を出るとき、扉のところで少しだけ振り返りました。夫人は置いていった写しを手に取ろうとして、途中でお止めになりました。指が紙の縁で止まって、そのまま扇の方へ戻ってゆきます。
——ああ、この方は、あの紙を読むおつもりがないのだ。
そう思いました。読めないのではございません。読む必要をお感じにならないのでございます。
廊下でクルトさんとすれ違いました。家令のクルトさんは、わたくしが子供の頃からこのお屋敷にいらっしゃいます。すれ違いざまに、鞄をお持ちしましょうかと仰いました。結構でございますとお答えしましたら、少し困った顔をなさいました。
馬車でリンデの領に戻りますと、日が傾いておりました。
門のところにヨナスが立っております。腰の後ろで手を組んで、こちらを見ておりました。七十二になりますが、背は曲がっておりません。
「どうだった」
「これまでどおりで結構、と仰せでございました」
「ふん」
ヨナスは鼻を鳴らして、氷室の方へ歩き出しました。わたくしも荷を置いて、後を追います。
氷室の扉の前まで来ると、この人はいつも柱に手のひらを当てます。四十年の癖でございます。掌で木の冷たさを測って、中の氷がどれだけ融けているかを言い当ててしまいます。帳面よりも半日早く分かるので、わたくしはこの手のひらを信用しております。
「八百六十そこそこだな」
「昨日で八百六十四でございました」
「合っとる」
それから、ヨナスは扉を見たまま申しました。
「あの家は、氷が湧いてくるとでも思っとる」
わたくしは、何も申し上げませんでした。ヨナスは腰から布を出して掌を拭いております。
「奥様が言うとったよ。あの家に嫁いだら、たぶん誰も帳面を見ん、と」
母のことでございます。
「母は、それでも嫁がせるおつもりでしたか」
「知らんね。わしは字が読めん。奥様が何を書いとったかは知らん」
そう言って、ヨナスは扉の閂に手をかけました。閂は樫でできていて、冬のあいだに一度反ったものを、この人が削って直しております。
「わしは字が読めんが、氷は読める。それだけだ」
その晩、わたくしは母の帳面を出して、いちばん古い頁を開きました。
十七年前でございます。母の字で、切り出し九百箱、と書いてございます。その横に、配り先が三つ。宴、館、村。
村、という欄がいつからあるのか、わたくしは知りません。物心ついたときには、もうございました。
紙を戻して、蝋燭を吹き消しました。
暗くなった部屋で、ひとつだけ分からないことがございます。
あの奥様は、これまでどおりで結構、と仰いました。けれど、これまでどおりというのは、わたくしが数えて、わたくしが配るということでございます。
それをご存じないまま、あの家は、この夏の氷をどうなさるおつもりなのでしょう。
ヨナスが出てまいりました。七十二歳、字が読めません。読めませんが、氷は読めます。作者はこの老爺を書いているあいだだけ敬語から解放されるので、たいへん楽をしております。
「あの家は、氷が湧いてくるとでも思っとる」——この一行で、この話の対立はもう全部説明が済んでおります。あとの十三話は、それを数字で確かめていく作業でございます。
次の話、エルナは氷室の前で帳面を開きます。千二百箱から始まる数字は、全部検算できるようにしてございます。よろしければ指を折りながらお付き合いくださいませ。




