第1話 四月十日、氷室の帳面
冬に切った氷が、夏まで残っているのには理由がございます。
数える人がいるからでございます。
四月十日。氷室の温度は、今朝も一度と半分でございました。
わたくしは藁をかき分けて、奥から三列目までの数を確かめます。八百七十一箱。一月に切り出した千二百箱から、三か月でここまで減りました。月に一割ずつ融ける勘定でございますから、帳面のとおりでございます。
この分でまいりますと、六月十日には七百箱ほどが残ります。避暑の宴でお使いになるのが四百箱。あとの三百箱を館と村に配って、九月の終わりに氷室は空になります。毎年、そういう夏でございました。
氷室は山の腹を掘って造ってございます。入口から七歩で床が下がり、そこから先は真夏でも息が白くなります。壁は石を組んで、床には砂利を敷き、氷は藁と鋸屑にくるんで積み上げます。触れた指がすぐ冷たくなるのは、氷そのものではなく、氷を包んでいる湿った藁のせいでございます。
「エルナ」
扉の外から声がして、婚約者のアルヴィン様が冷気の中へ入っていらっしゃいました。外の光を背にして、まぶしそうに目を細めていらっしゃいます。
この方が氷室にお入りになるのは、これで三度目でございます。婚約が調った年に一度、その翌年に一度、そして今日。
「探したぞ。館にいないと思ったら、またここか」
「申し訳ございません。数を確かめておりました」
「そんなものは、じいに任せておけばいいだろう」
じい、というのはヨナスのことでございます。四十年ぶんの氷をこの湖から切ってきた人でございますが、字が読めません。数えることと書きつけることは、母の代からリンデの家の者の仕事でございました。
「それより、今年の宴のことだ」
アルヴィン様は懐から折りたたんだ紙を取り出して、藁の上でお広げになりました。招待客の名簿でございます。氷室の中でそれをお広げになるのが、わたくしには少し不思議でございました。ここでは紙がすぐ湿ります。
「王都から侯爵夫人がお越しになる。それで、母上が客を増やされた。去年の倍だ」
「さようでございますか」
「だから、氷も倍に頼む」
倍。
わたくしは、手にした温度計をもう一度読みました。一度と半分。指の先が、藁の湿りで冷たくなっております。
千二百箱を切り出すのに、一月の湖が一番厚くなる二週間を使います。人手は十四人。氷を切って、橇で運んで、藁と鋸屑に埋めて、扉を閉じる。倍にするというのは、その二週間をもう一度どこかから持ってくるということでございます。
けれど四月に湖は凍っておりませんし、来年の一月まで待っていては、宴は八回過ぎてしまいます。
三年でございます。この方に帳面をお見せしたのは、婚約が調った年の一度きり。それきり、氷がどこから来て、どれだけ融けて、いくら費えているかを、お尋ねになったことはありません。
お尋ねにならないのは、わたくしを信じてくださっているからだと、はじめの一年は思っておりました。二年目には、お忙しいのだと思うことにいたしました。三年目に、そのどちらでもないと分かりました。
この方は、氷が氷室にあるものだと思っていらっしゃいます。井戸に水があるように。畑に土があるように。
それは、この方が悪いのではないのかもしれません。氷は毎年ちゃんと届いておりましたから、疑う理由がどこにもございませんでした。届けていたのがわたくしだということも、届かない年があり得るということも、この方は一度も考えずに済んでこられたのでございます。
三年のあいだ、そう済ませてこられたということでございます。
「アルヴィン様」
わたくしは温度計を柱に戻し、帳面を閉じました。表紙の革が指に吸いつきます。
「では、婚約を解消させてくださいませ」
名簿を畳んでいらしたお手が、止まりました。
「……なんだって」
「婚約の解消をお願い申し上げます。書面はこちらで整えて、明日にはお届けいたします」
「待て。待ってくれ。今、氷の話をしていたはずだ」
「はい。氷のお話でございます」
アルヴィン様は、わたくしの顔をご覧になりました。それから、氷室の中をぐるりと見回されました。藁の山と、その下の白いもの。天井から下がる縄。壁に掛けた鋸と鉤。四十年ぶん使い込まれた道具が、暗がりに並んでおります。
この方の目には、それが何に見えているのでしょうか。
「怒っているのか」
「いいえ」
「では、なぜだ。……不足があるなら言ってくれ。持参金のことなら、母上と話をつける」
わたくしは、三年ぶんの帳面を思い浮かべました。切り出した日と人数、融けた量、配った先。母の字で始まり、途中からわたくしの字になっている頁。あれをお見せしたところで、この方には数の並びにしか見えないでしょう。
ですから、こう申し上げました。
「わたくしが倍と申し上げれば、倍になるとお思いだからでございます」
アルヴィン様は、しばらく黙っていらっしゃいました。それから、少し笑われました。困ったときにお笑いになる癖が、この方にはございます。
「……よく分からんが、分かった。母上には俺から話す。だが、氷のことは別だ。宴までは、これまでどおり頼む」
「氷室の鍵は、お預かりしたままにいたします」
言ってしまってから、自分でも少し驚きました。
けれど、取り消しはいたしませんでした。この鍵は母がわたくしに残したもので、婚約が調ったときにもお渡ししてはおりません。渡さなかったのではなく、どなたもお求めにならなかったのでございます。
「鍵? ああ、うん。誰が持っていても同じだろう」
アルヴィン様は名簿を懐に戻して、外の光の中へ出ていかれました。上着の裾に藁が一本ついておりましたが、お気づきになりません。
扉が閉まると、氷室の中はまた暗くなります。目が慣れるまでのあいだ、わたくしは扉の板に手を当てて立っておりました。
それから帳面を開いて、今日の日付と、八百七十一という数を書き入れました。
その下に、もうひと言だけ足しました。
——四月十日、婚約解消を申し出。氷の配りは、これまでどおり。
墨が乾くのを待つあいだ、指で藁をかき分けて、一番手前の氷に触れてみました。冷たくて、少し湿っております。宴まで、あと六十一日ございます。
六十一日あれば、この氷はまだここにございます。
けれど、六十一日では、氷は一箱も作れません。
お読みいただきありがとうございます。
氷室というのは、冬に切った氷を夏まで持たせるための穴でございます。魔法はございません。あるのは藁と鋸屑と、毎年数えている人だけでございます。
その「数えている人」を、あの家は三年のあいだ一度も見ておりませんでした。次の話で、エルナは伯爵家の応接に呼ばれます。開口一番、氷など氷室にあるでしょう、と仰る方に会います。
ブックマークと☆は、来年の切り出しの手間賃に充てさせていただきます。




