第15話 今年の夏、氷室の鍵はお預かりしたままです
六月十日。避暑の宴の日でございます。
朝のうちに橇が七台上がってまいりまして、二十一箱をお渡ししました。昼にもう一度で二十一箱。昨日と合わせて、八十四箱でございます。
二度目の橇を見送ったあと、クルトさんが坂を上がっていらっしゃいました。
「お嬢様。宴へお越しいただきたいと」
「わたくしがでございますか」
「侯爵夫人のご指名でございます」
わたくしは手を洗って、着替えて、帳面を鞄に入れました。
持っていくかどうか、少し迷いました。
けれど、氷のことを尋ねられて、帳面が手元にないというのは、わたくしには落ち着かないことでございます。
ベルクマン家のお館の庭に、天幕が張ってございました。
白い布と、青い旗。卓が十二。楽の者が四人。よくお仕度なさったと思います。レーヌ様の采配でございましょう。
卓の脇に、銀の氷桶が並んでおりました。
二十ございます。磨いてあって、日の光を返しております。
その二十のうち、氷が入っておりますのは、五つでございました。
残りの十五は、底に藁だけが敷いてございます。
わたくしは、その桶を数えてから、天幕の端に立ちました。
客の方々は、まだお気づきになっておられません。宴が始まったばかりでございますから、酒も水もまだ冷えております。
冷えていなくなるのは、午後でございます。
「あなたがリンデのご息女ね」
声がして、振り向きました。
背の高い、白髪を高く結い上げた方でございます。年は六十を越えていらっしゃるでしょうか。扇はお持ちにならず、両手を前で組んでいらっしゃいます。
「アウエンベルクのヘルミーネですわ」
「エルナ・リンデと申します。書状のご返事が遅れまして、失礼いたしました」
「いいえ。読みましたわ。氷は、もう配る先が決まっております、と」
侯爵夫人は、少しだけ首を傾げられました。
「わたくし、あの一行が気に入りませんでしたの」
「申し訳ございません」
「謝らなくてよろしい。気に入らないと、覚えてしまいますから」
この方は、庭の桶の方をご覧になりました。
「あの桶、五つしか入っておりませんわね」
「はい」
「今日は、お運びになりませんでしたの」
「昨日と今日で、八十四箱お運びになりました。魚と乳と氷菓が先でございますので、厨に入っております。卓へ回っておりますのが、あの五つでございます」
「明日には、いくつになりまして」
「明日も四十二箱お運びになりますので、厨は足りております。卓へ回せば、桶は埋まります。ただ、三日目の午後には尽きます」
「あなた、それを見にいらしたの」
「いいえ。お呼びいただきましたので」
侯爵夫人は、少しお笑いになりました。
そこへ、レーヌ様がいらっしゃいました。アルヴィン様も一緒でいらっしゃいます。アルヴィン様は上着をお召しでしたが、袖口に藁が一本ついておりました。
「侯爵夫人。こちらが、その」
「存じておりますわ。今、話しておりましたの」
夫人は、レーヌ様の方へ向き直られました。
「レーヌさん。ひとつ伺いたいことがございますの」
「はい」
「道中、フェルデという村の宿に泊まりましたのよ。夜が暑くて、水を冷やしていただきましたの」
わたくしは、手を止めました。
「宿の主人が、坂の下まで走って取ってまいりましたわ。氷を二箱。お代は取らないと言うので、置いてきましたけれど」
侯爵夫人は、レーヌ様をまっすぐご覧になりました。
「あれはどこの氷かしら」
レーヌ様は、お答えになりませんでした。
扇をお持ちの手が、開きかけて、そのまま止まっております。
「王都から取り寄せる、と伺っておりましたわね」
「……はい」
「王都の氷が、なぜ街道の村の宿にありまして」
楽の音が、一曲終わりました。次の曲が始まるまでの間がございます。
レーヌ様は、そのあいだずっと、扇を開きかけたままでいらっしゃいました。
わたくしは、何も申し上げませんでした。
申し上げることがないのではございません。申し上げれば、それはわたくしが言ったことになります。
この場でその答えを持っていらっしゃらないのは、この方でございます。
「エルナさん」
レーヌ様が、こちらをご覧になりました。
「はい」
「……あの氷は」
「うちの氷室のものでございます」
わたくしは鞄から帳面を出して、六月九日の頁を開きました。
「六月九日、フェルデ、二十五軒へ五十箱。同日、街道の宿へ二箱。どちらも丸に点をつけてございます。追加でお出しした分、という印でございます」
侯爵夫人が、頁を覗き込まれました。
「二十五軒。これは何ですの」
「熱でございます。六月の初めから、麓の七つの村で出ております。今朝で二十八軒でございました」
「お医者は」
「ヴェーバー先生がお回りでございます。薬では下がらぬ熱でございますので、冷やして水を飲ませて待つよりほかにございません」
わたくしは、頁をもう一枚めくりました。
「二十年ぶん、同じ帳面でございます。母が村の欄を作りまして、そのあとをわたくしが引き継ぎました。今年、宴に四百箱をお出しする分は、氷室の扉の内に積んでございます。お運びいただければ、いつでもお出しできます」
侯爵夫人は、頁から目を上げられました。
「運べていないのですわね」
「橇が七台でございます。三日で百二十六箱でございます」
「四百には」
「届きません」
この方は、それから庭の氷桶をゆっくりとご覧になりました。二十のうち、五つ。
それから、レーヌ様の方へ向き直られました。
「レーヌさん。後援の話ですけれど」
「はい」
「わたくし、来年は遠慮いたしますわ」
扇が、閉じる音を立てました。
「氷が足りないからではございませんの。足りない理由を、あなたがご存じなかったからですわ」
侯爵夫人は、それだけ仰って、天幕の方へ歩いていかれました。
途中で一度、こちらを振り返られました。
「リンデのお嬢さん。あの一行、まだ気に入りませんけれど」
「はい」
「覚えておりますわ」
午後、卓の水がぬるくなり始めた頃、わたくしは坂を上がりました。
門のところに、ゴットハルト様が立っていらっしゃいました。宴にお呼ばれになっていたのだそうでございます。
「お嬢さん。ひとつ、商いの話をよろしいか」
「はい」
「来年の冬、こちらの氷を買わせていただきたい」
わたくしは、鞄の持ち手を持ち直しました。
「うちの切り出しは千二百箱でございます。宴に四百、館に百二十、村に九十、予備に七十。余りは二十箱ほどでございます」
「存じております。ですから、切る量を増やしませんか」
この方は、帽子をお取りになりました。
「湖の厚みは一尺を超えると伺いました。人手が十四人で千二百でしたら、二十八人で二千四百でございましょう。王都まで六日で半分になりますが、半分でも千二百箱でございます。王都の商会四軒が春までに売り切る量が、それでございます」
わたくしは、坂の下の街道を見ました。
夏の日に、白く光っております。あの道を、荷馬車が六日かけて下りてゆく。半分が水になって道に落ちて、残りの半分が王都に着く。
二十八人。冬の二週間。
麓の七つの村で、今、二十八軒に熱が出ております。
同じ数でございました。
「ゴットハルト様」
「はい」
「秋になりましたら、もう一度いらしてくださいませ」
「お返事は」
「その頃には、村の方々がみな起きておいでです。二十八人お出しいただけるかどうかは、わたくしではなく、あの方々が決めることでございますので」
この方は帽子をかぶり直して、深く頭を下げられました。
坂を上がりきると、氷室の扉が見えます。
ヨナスが柱に掌を当てておりました。
「五百二十そこそこだな」
「五百十七でございます」
わたくしは腰の鍵に触れました。柄の丸くなったところに、指がちょうど納まります。
今年の夏、氷室の鍵はお預かりしたままでございます。
来年の冬にどれだけ切るかは、まだ決まっておりません。
最終話までお付き合いくださり、ありがとうございました。
エルナは最後まで一度も責めておりません。責める役は、氷を受け取った村の方々の口と、侯爵夫人ご自身の記憶が引き受けました。留飲というのは、たぶんそういう形をしているのだろうと思って書きました。
氷室の鍵は、今年もお預かりしたままでございます。来年の冬にどれだけ切るかは、まだ決まっておりません。買いたいと仰る方が、一人だけ増えたようではございますが。
☆と、ひとことの感想をいただけますと嬉しゅうございます。来年の切り出しは、そのぶん一箱多くなります。




