第13話 氷は、いつ切るんだ
六月八日。アルヴィン様が、橇を引いて坂を上がっていらっしゃいました。
お一人でございました。上着はお召しになっておらず、袖をまくって、綱を肩に掛けていらっしゃいます。橇は伯爵家の紋の入ったもので、こういうことに使うものではございません。
「エルナ。積んでくれ」
「アルヴィン様」
「書状は読んだ。運び手が要るんだろう。俺が運ぶ」
わたくしは、橇をご覧になりました。荷台は、大人が二人乗ればいっぱいの大きさでございます。
「一台に三箱でございます」
「三箱か」
「坂を下りて、宴の場まで一里半。往復で二刻。日に二度で六箱でございます」
アルヴィン様は、綱を握ったまま、口の中で計算をなさいました。
「三日で、十八箱だ」
「はい」
「四百には、遠いな」
「遠うございます」
この方は、綱を下ろされました。それから、氷室の扉の方をご覧になります。
「四百を三日で運ぶには、何人要る」
「橇が二十台、人が四十人でございます。それを三日でございます」
「四十人」
「はい。冬の切り出しが十四人でございますから、その三倍でございます。氷は切るより運ぶ方が人手が要ります」
アルヴィン様は、しばらく黙っていらっしゃいました。
それから、坂の下を見下ろされました。麓の村の屋根が、朝の日に光っております。どの家の煙も、今朝は細うございました。
「村の者は、呼べないんだな」
「呼べません」
「熱が出ているからか」
「はい。二十三軒でございます。今朝、二十五軒になりました」
この方は、うなずかれました。
「では、六箱でいい。今日の分だけでも積んでくれ」
「アルヴィン様」
「宴は、母上の宴だ。四百なければ格好がつかないのは分かっている。だが、六箱でも無いよりましだ」
わたくしはヨナスを呼んで、三箱を積みました。藁を掛け直して、縄で締めます。
綱を肩に掛けたアルヴィン様の背中に、ヨナスが声を掛けました。
「坊っちゃん」
「なんだ、じい」
「橇は、下りは押さえろ。走らせると氷が跳ねて、角が欠ける。欠けた角から融ける」
「……分かった」
アルヴィン様が坂を下りていかれたあと、ヨナスは扉の脇に腰を下ろして、煙草を出しました。
「一箱、多く積んだ」
「え」
「三箱と言われたから、四箱積んだ。坊っちゃんは気づかん」
わたくしは、ヨナスの顔を見ました。
「ヨナス」
「なんだ」
「毎年、一月の切り出しの合計が、一箱だけ多いのでございます」
この人は、煙草に火をつけました。それから、煙を長く吐きました。
「奥様の葬式の日にな」
わたくしは、動けませんでした。
「その年の切り出しが、もう終わっとった。千四十で閉じてあった。わしは葬式のあとに湖へ行って、一枚だけ切って、担いで入れた」
「なぜ」
「知らん。ほかにすることが無かった」
ヨナスは、灰を落としました。
「それから毎年やっとる。帳面には書けん。わしは字が読めんからな。お嬢さんが勝手に丸めてくれるから、そのままにしとった」
わたくしは、帳面のことを思い出しておりました。
母の字の頃から、切り出しの合計は端数が一つ多くて、翌日の頁で丸められております。丸めているのは、わたくしの字でございます。
母の字の頃から、と思っておりました。
けれど母は、十一年前に亡くなっております。丸めているのがわたくしの字だということは、この十一年のことでございます。
「ヨナス。母が亡くなる前の頁は」
「知らん。字は読めん」
この人は、そう言って立ち上がりました。
わたくしは館へ戻って、櫃から古い帳面を出しました。
母の字の頁でございます。十一年前の一月。切り出しの日ごとの数が、十四日ぶん並んでおります。
足しました。
千四十一でございます。
次の頁で、母の字が「千四十」と書き直しております。
その次の年から、頁の字はわたくしのものになります。合計は毎年、一つ多うございます。丸めているのは、わたくしの字でございます。
わたくしは、母が丸めているのを見て、同じようにしただけでございました。母がなぜ丸めていたのかを、伺ったことはございません。伺えるうちに伺わなかった、というだけのことでございます。
けれど、こうして並べてみますと、母が丸めていたのは母の年より前ではございません。母の字で一つ多くなっているのは、母が亡くなった年の一月だけでございます。
その一月には、母はまだご存命でございました。亡くなったのは、その年の三月でございます。
葬式のあとに一枚切って入れた、とヨナスは申しました。三月に入れた氷を、一月の合計に足すことはできません。
わたくしは、頁をもう一度見ました。
母の字の千四十一は、母がご自分で書いた数でございます。
つまり、母の代にも、誰かが一枚多く切っていたのでございます。
誰が、とは、書いてございません。
帳面を閉じて、櫃へ戻しました。
夕刻、アルヴィン様がもう一度、空の橇を引いて上がっていらっしゃいました。
二度目の三箱を積むあいだ、この方は氷室の入口に立って、中をご覧になっておりました。
「エルナ」
「はい」
「氷は、いつ切るんだ」
わたくしは、縄を締める手を止めました。
「一月の、湖が一番厚くなる二週間でございます。九日から二十二日まで。厚みが一尺を超えてから切ります」
「一尺」
「それより薄いと、鋸の先が抜けて人が落ちます」
「……鋸で切るのか。鋸で」
「はい」
アルヴィン様は、壁に掛けた鋸をご覧になりました。刃渡りが背丈ほどある、氷を切るためだけの鋸でございます。
「重いか」
「持ってごらんになりますか」
この方は、鋸を両手で取られました。思ったより重かったのだと思います。腕が一度下がってから、持ち直されました。
「……これで、千二百枚か」
「千二百箱でございます」
「そうか」
鋸を壁に戻して、この方は綱を肩に掛けられました。
坂の途中で一度立ち止まって、振り返らずに仰いました。
「一月の九日だな」
「はい」
それだけでございました。約束の言葉ではございません。
わたくしも、お待ちしております、とは申し上げませんでした。
「氷は、いつ切るんだ」——謝れない人が、やっと持ってこられた言葉でございます。作者はこの方をまだ許しておりませんが、少しだけ好きになりました。
それから、ヨナスが母上の葬式の日から毎年一箱多く切っていた理由も、この話で初めて口から出ます。訊かれなければ二十年でも黙っている人でございます。
次は、宴の前日。エルナは何も知らないまま一日を終えます。読者の皆さまだけが、先に答えの半分をご存じになります。
ブックマークと評価は、ヨナスの鋸の目立て代に充てさせていただきます。




