第12話 氷室の扉を開けます
六月六日。橇を引いて、麓へ下りました。
フェルデの村は、坂の下の川沿いにございます。街道が村の端をかすめて通っておりまして、宿が一軒ございます。
グレタさんの家の前に、ヴェーバー先生の馬が繋いでございました。
「先生」
「ああ、リンデのお嬢さん」
先生は井戸端で手を洗っていらっしゃいました。袖をまくった腕が、日に焼けております。
「熱は、何軒でございますか」
「フェルデで七軒。クラムで四軒。ゾンネで三軒。今朝、ニーダーラントからも使いが来た」
わたくしは、指を折りました。
「二十軒を越えますか」
「越える。二十三だ」
先生は手拭いで手を拭いて、それからわたくしをご覧になりました。
「薬は足りている。夏の熱だ、薬で下げるものではない。冷やして、水を飲ませて、待つしかない」
「冷やすものが」
「それが無い」
先生は井戸を顎で指されました。
「井戸水では、ぬるい。この時季の井戸は十五度ある。人の熱は下がらん」
わたくしは、頭の中で数を並べました。
二十三軒。一軒に二箱で、四十六箱。熱は十日は続きます。十日のあいだ、三日に一度お配りするとして、四十六箱を三度で百三十八箱。
氷室の予備が七十箱。館の分が百二十箱。
足せば、百九十箱でございます。
足ります。
「先生。三日に一度、二箱ずつお配りいたします。今日の午後から」
ヴェーバー先生は、しばらく黙っていらっしゃいました。
「お嬢さん。宴のことは聞いている」
「はい」
「宴の氷を減らすのか」
「いいえ」
わたくしは、首を横に振りました。
「宴の四百箱は、帳面に載せたままでございます」
午後、氷室の扉を開けました。
坂の下から、人が上がってまいります。グレタさんが村の方に触れを出してくださったのだそうでございます。歩ける方が十人ほど、それぞれ桶や籠を提げて、坂道に並んでおられます。
扉の前で、わたくしは閂に手を掛けました。
冷たい。四月からずっと同じ冷たさでございます。
閂を抜いて、扉を引きました。中の冷気が、外の熱に押されて足元へ流れます。並んでいらした方々の何人かが、あ、と声を出されました。
「順に、二箱ずつお持ちくださいませ」
ヨナスが藁を掛け直し、縄で締めて、一箱ずつお渡ししてゆきます。わたくしは帳面を膝に載せて、名前と数を書きました。
フェルデ、二箱。丸に点。
フェルデ、二箱。丸に点。
クラム、二箱。丸に点。
書きながら、この印が母の作ったものだということを、また思い出しておりました。
村の欄の数は、段取りでございます。ひと月三十箱。十日に一度。
丸に点は、段取りではございません。要る人がいた日に、その日に出した記録でございます。
母は、この印がいつか要ると思っていらしたのだと思います。二十年に一度でも、その日が来ると。
「お嬢さん」
グレタさんが、桶を抱えて立っておられました。
「うちは、孫の分だけで結構でございます。二箱は多い」
「二箱でお持ちくださいませ。一箱は、隣のお宅へ」
グレタさんは、口を結んで、それから頭を下げられました。
「……あの、お嬢さん。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「その鍵は、伯爵家へお返しになるという話を聞いたんですが」
坂に並んでいらした方々が、少しこちらを向かれました。
わたくしは腰の鍵に触れました。母の鍵でございます。柄のところが、握られ続けて丸くなっております。
「氷室の鍵は、お預かりしたままでございます」
「……はあ」
「十一年、お預かりしております。母が亡くなりました年からでございます。誰から預かったものかは、はっきり伺っておりません。母からとも申せますし、この山からとも申せます」
わたくしは扉の内を振り返りました。
奥に、藁を積み直した山がございます。四百箱でございます。宴の分として、扉のすぐ内に寄せてございます。
「ですから、お返しするのは、まだ先でございます」
配り終えたのは、日が傾いてからでございました。
四十六箱。帳面に四十六の行が並びます。名前と、村の名と、丸に点。
ヨナスが藁の山を積み直しながら、こちらを見ずに申しました。
「宴の分は、どうする」
「扉の内に置いてございます」
「運び手は」
「お出しできません」
この人は、藁を叩いて手を払いました。
「言うたか」
「これから、書きます」
「そうか」
それだけでございました。
ヨナスは何も足しませんでしたが、藁を積む手が少し速くなったように見えました。この人が急ぐのは、腹を立てているときか、そうでなければ、早く終わらせて煙草を吸いたいときでございます。
どちらであるかは、伺いませんでした。
その晩、ベルクマン家へ書状を出しました。
——宴の四百箱は、氷室の扉の内に積んでございます。いつでもお取りいただけます。
——ただし、こちらから運び手はお出しできません。
——冬の切り出しにお出ましいただく十四人は、麓の七つの村の方々でございます。ただいま、七つの村で二十三軒に熱が出ております。歩ける方は看病に出ておられます。
——氷は、山にございます。宴の場まで、三日のあいだ毎日運ぶには、橇と人手が要ります。そちらの手配をお願い申し上げます。
書き終えて、封をいたしました。
嘘は、一つも書いてございません。
氷は本当に扉の内にございますし、運び手は本当に出せません。
ただ、この四百箱を運ぶのに何人と何日が要るかは、書きませんでした。
お尋ねになれば、いつでも申し上げます。
「鍵はお預かりしたままです」は、第一話では意地のように見える一行でございました。この話で、意味のほうが入れ替わります。預かったままにしていたのは、渡さないためではなく、配るためでございました。
書状に嘘は一つも書いてございません。ただ、書かなかったことが一つございます。お尋ねになれば、エルナはいつでも申し上げます。誰も、お尋ねになりません。
次の話、山を上がってくる人がおります。詫びではなく、質問を持って。




