表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/17

1-9

 遠くから物音が聞こえた気がして、ふっと意識が浮上する。目を閉じたまま無意識で動かした手は、なににもひっかかることなく落ちてしまった。あれ、と思うより先に、嗅ぎなれないにおいが鼻先をかすめる。……そうだ。もう、彼女の隣で寝ていない。ここは彼女の部屋じゃない。灯真の部屋だ。それを思いだし、黎はくちびるの端をかすかに歪めた。


 黎が染みついた習慣に翻弄されているうちに、灯真が起きたらしい。ドアのひらく音が聞こえ、黎は閉じたまぶたに力をこめる。カーテンレールの滑る音が鳴り、まぶた越しに陽射しを感じた。


 灯真の控えめな足音がソファのほうへ近づいてくるのがわかり、黎は息をひそめる。灯真はソファのすぐそばで足を止めたあと、今日も黎の頭を撫で、毛布を直した。すぐに灯真の気配が離れ、ドアの音で洗面所へ向かったことを察する。黎は毛布の端をつまみ、もぞりと身じろいだ。頭に、肩に、灯真の手の感触が残っている。黎は静かに息を吐いてから、ゆっくりと体を起こした。


「おっ、起きたか? おはよう」


 洗面所から戻ってきた灯真が、黎に声をかける。おはようと言われたらおはようと返すべきだ。わかっているのに、喉の底に貼りついた返事は出てきそうになかった。灯真は黎の返事を待つこともなく、キッチンへ行く。


「起きてるなら、歯磨いて顔洗ってこいよー」


 キッチンから声をかけられ、黎はのそりとソファを降りた。洗面所への道すがら、ちらりと灯真を横目で見る。灯真はコップで水を飲みながら、朝食の準備に取り掛かっていた。もういまさらなにか声をかけることもできず、黎は灯真の言葉に従ってそのまま洗面所へと向かった。

 言われたとおりの身支度を整えて戻ると、部屋にはすでにコーヒーの香りが立ちこめていた。すん、と思わず息を吸いこむ。


「もうちょっとしたらメシできるから、椅子座って待ってて」


 こちらを見ることなく灯真に言われ、黎は昨日までと同じダイニングチェアに座った。テレビの音が勝手に耳に入ってくる。黎は顔ごとキッチンに向け、あくびまじりに手を動かしている灯真の姿を眺めた。

 やがて準備ができたのか、灯真がふたりぶんの朝食をテーブルに並べはじめた。トーストと目玉焼き、野菜スープに、コーヒー。昨日と同じだ、と思って見ていると、灯真はさらに黎の前にだけ、お茶の入ったコップと、なにかが詰められているタッパー、おにぎりに、ペットボトルの水を二本置いた。なぜ、と黎は灯真をうかがう。


「それ、昼メシな」


 灯真は黎の視線に気づいたのか、黎の前のタッパーを指さしてにっと歯をのぞかせた。黎は思わず目を丸くする。


「簡単なのでごめんな。いらなかったら夜に俺が食うから残しといて。あと、お茶は朝のうちに飲みなさいね」


 灯真は椅子に座りながら言ったあと、ぱちりと手を合わせた。「いただきます」と快活に挨拶したあと、朝食に手をつける。黎は瞠目したまましばらく灯真を見つめたあと、視線をタッパーへ移した。

 透明のふたで閉められたタッパーの中には、焼いた魚と、卵焼き、ブロッコリーとトマトがきれいに詰められていた。その横に置かれたおにぎりは、白米になにかが混ぜこんである。灯真のぶんはテーブルにも、ワークトップの見える範囲にも置かれていない。……ほんとうに、昼食を用意してくれたのだ。しかも、黎のためだけに。黎はあらためて昼食を見つめる。なぜかわからないが、見ているだけで喉の奥がかすかに震えるような感覚を覚えていた。

 黎は静かに深呼吸をしてから、そっと灯真を盗み見た。灯真は朝食を食べながら、ときおりテレビへ視線を向けている。意を決し、お茶のコップに手を伸ばすと、灯真が黎を見たのがわかった。指先が揺れる。けれど灯真はなにも言わず、そのまま朝食へと目を戻した。黎は奥歯をぐっと嚙み、コップを取る。お茶をひとくち飲んでから、今日はうながされる前に朝食へ手をつけた。黎が食べはじめても灯真は特に反応することなく、互いに黙々と朝食を食べた。

 灯真は今朝も黎が食べおわるまで待ってから「ごちそうさま」と挨拶をした。洗い物をする灯真の姿を、コーヒーを飲みながら眺める。洗い物を終えた灯真は、昨日と同じ流れで寝室へと入っていった。そのまま仕事の支度をするのだろう。黎は寝室へ意識を向けつつも、目の前の昼食をじっと見つめた。

 ほどなくして、着替えを終えた灯真が寝室から出てきた。こちらへ近寄ってきたかと思えばテーブルにまた鍵が置かれ、黎の心臓が大きく跳ねる。


「マグカップも、タッパーも、水につけといてくれればそれでいいから。ラップは捨てといて。水は飲めるだけ飲んだらいいし、全部飲んでもいいよ。どっか行くなら鍵かけて、ポストな」


 灯真は早口で黎に説明してから、黎の反応を待たず、「じゃ」と片手を上げた。


「帰りは昨日と同じくらいになると思うよ。行ってきます」


 慌ただしさをまといながらそう言って、灯真は廊下へと出ていった。それからすぐに、玄関のドアが閉まった音が聞こえてくる。黎は灯真が行ってしまってからもしばらく玄関のほうを見つめたあと、結んだくちびるに力をこめた。

 いってらっしゃいと、声をかけるべきだ。これまで仕事へ向かう飼い主たちにはそうしてきた。わかっているのに、やはり言葉は音になってくれなかった。どうしてうまくできないのだろう。これではかわいげがないと言われ、すぐに捨てられる。そうなったら、自分は、その先——考えかけたけれど、黎はかぶりを振ってやめた。

 黎は自分に失望しながら、視線を正面へと戻す。すると銀色の鍵が視界に入り、眉を寄せてしまった。昨日はいっさいさわることなく置きっぱなしにしていたが、そういえば夕飯のときにはすでになかったかもしれない。いつのまにか灯真が片付けていたのだろう。それが、また出てきてしまった。くすみのない銀色の輝きを見ていられなくて、黎は目をそむける。今度は昼食を見て、黎は静かに息を吐いた。

 灯真は昨日出かけるときとは違い、ここにいてもいい、と明言はしなかった。けれど黎の目の前には、灯真が用意してくれた昼食がある。灯真はなにも言っていなかったはずなのに、この昼食を見ていると、今日もここにいてもいいと言われているような気になってしまった。灯真がせっかく用意してくれたのだ。昼になったら、これを食べなければ。そのためには、少なくとも昼までここにいないといけない。昼食を食べたとしても、鍵にはさわりたくない。そうなると、灯真が帰ってくるまでここにいるしかなかった。

 黎は少し残っていたコーヒーを飲みほし、シンクに下げた。蛇口から水を注いだあと、シンクに置いてあるスポンジをじっと見つめる。

 灯真は、水につけておけばそれでいいと言っていた。灯真の言葉が正解なのだから、それに従うべきだ。けれど、もしかして、洗ったほうがよかったりするのだろうか。飼い主たちの中には、黎が洗い物をしていないと叱責するひともいた。灯真は毎回なにも言わず洗い物をしてくれているが、本来は黎がするべきなのではないだろうか。

 黎はしばらくシンクに立ちつくしていたが、小さくかぶりを振り、結局なにもしないままそこを離れた。勝手な判断でよけいなことをして、間違えたくない。灯真の言葉に従っておけば、間違わないはずなのだから。

 テレビの音が響く中、黎は重い足取りでソファに寝転がる。灯真といるときはさほど気にならないのに、ひとりになるとテレビから聞こえる他人の声がやけに大きく感じた。たくさんのひとたちがなにかをずっとしゃべっている。声を押しつけられている気分だ。しかし今日も消していいのかはわからなかった。

 毛布にくるまり、耳を塞ぐと、他人の声はわずかに遠ざかった。テレビの画面を見ながら、緩慢な瞬きをくりかえす。

 浅い眠りばかりだったとはいえ、昨日は昼も夜もほとんど寝て過ごしたのに、横になっていると体に眠気がまとわりついてくるような気がした。起きていたところでなにをすればいいかわからないし、そもそもなにかするほどの気力もない。横になったまま正面にあるテレビをただ眺めているうちに、気づけばまどろんでしまっていた。

 テレビから十二時を告げる声が流れ、黎はのっそりと体を起こした。十二時は、昼食の時間だ。食卓に置かれている昼食へと目を向ける。

 昨晩も、今朝もごはんを食べられたから、空腹かどうかよくわからない。少なくとも、腹の音が鳴る気配はなかった。それでも灯真が用意してくれたのだから、食べなければ。

 黎はのろい動きで食卓に座り、ペットボトルの水を半分ほど飲んだ。それから、タッパーのふたをあける。食べようとしたところで、箸がないことに気がついた。どうしよう、と視線をさまよわせる。するとシンクの水切りかごに箸が刺さっているのが見えた。黎が今朝使ったものだ。灯真が洗ったあと、そこに刺したのだろう。黎はじっとそれを見つめる。箸について、灯真からなにも言われていない。あれを使っていいのか、どれだけ考えても黎には判断ができなかった。

 箸がなければ、手で食べるしかない。黎は指先でミニトマトをつまみ、口に入れる。ぬるいトマトが口の中でぷちんとはじけた。

 テレビの楽しそうな笑い声を耳にしながら、黎は黙々と昼食を食べすすめていく。顔を上げてみても、当然目の前には誰もいない。それが、とてもふしぎなことのように思えた。灯真の家で、灯真がいないのに、灯真が作ってくれた食事をひとりで食べている。テレビからは絶えることなく、誰かの声が流れつづけている。これまでの飼い主の家でも似たような状況はあったはずだし、さして気にしていなかったような覚えがあるのに、今は灯真の不在がやけに際立つような気がしていた。同時に、自分の居場所のなさも強く感じる。ほんとうにここにいていいのか、いつまでここにいていいのか、黎にはまだよくわからないままだった。

 タッパーに視線を落とし、つまみあげた卵焼きを頬張る。冷めた卵焼きはしっとりとしてほのかに甘い。甘い卵焼きを食べたのは、これが初めてだった。


オリジナル小説は初めての作品です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

感想・コメントなどいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ