1-10
昼食後もソファで横になっていたが、気づけばまたまどろんでいたようで、目を覚ましたときにはすっかり薄暗くなっていた。けれどまだ灯真が帰ってくる時間ではないらしい。暗い部屋の中で、テレビだけがまぶしいくらいに光っていた。
寝起きでぼんやりしながら、昨晩、電気をつけてもいいと言われたのを思いだす。しかしそう言われても、黎は照明のスイッチがどこにあるのか知らない。探すために家の中を歩きまわるのもはばかられる。つけてもいい、は、つけないといけないではないと判断し、黎はまぶしいテレビ画面をぼうっと眺めながら過ごした。
そのうちテレビのまぶしさに目の奥が痛くなり、目を閉じたはいいものの、それでまた眠ってしまっていたらしい。玄関の鍵がひらく音がして、黎ははっと目を覚ました。急に起きたからか、心臓がどくどくと鳴っている。まだはっきりしない意識をなんとか玄関のほうへ向けると、ほどなくして足音が近づき、軽い音を立ててドアがひらいた。すぐに部屋が明るくなり、黎は反射で目をつむる。
「ただいまー、寝てるか?」
ひそめた声が聞こえてきて、黎は気だるい体を起こした。目が合ってすぐ、灯真が黎に笑いかける。
「ただいま」
灯真は黎に向けてあらためて言ったあと、カーテンを閉めた。そのまま寝室へと入ってしまう。閉められたドアを見ながら、黎はまたおかえりと言えなかったことに肩を落とした。灯真はすぐにコートとジャケットを脱いで戻ってきたけれど、いまさら声をかける勇気はなかった。
「そのうち風呂沸くから、そうしたら風呂入っておいで。おまえの着替えとタオルは洗濯機の上な」
灯真はそれだけ言って、キッチンに引っこんでしまった。エプロンをつけ、夕飯の準備に取りかかっている。今夜も当たり前のように風呂へ入るよううながされていることが、どうにもおちつかない。黎がそわそわと目を泳がせていると、風呂が沸いたことを告げる機械音声が響いた。灯真がこちらを見ることなく「ごゆっくりー」と声を掛けてくる。黎はなんとも言えない気まずさを抱えたまま、キッチンを通りすぎ、風呂へと向かった。灯真は黎が横を通るときも、手元に視線を落としたままだった。
脱衣所の洗濯機の上には、確かに服とタオルが畳んでおいてあった。この家に初めて泊まった夜に、灯真が貸してくれた服だ。下着だけは昨日買ってきてくれた新品のものに替わっていた。これを、今夜も着ていいのだろうか。これは灯真の服なのに。しかし他に着替えは見当たらない。黎はくちびるをぎゅっと結び、ひとまず風呂に入ることにした。
昨日も灯真にはやかったと言われたので、黎は昨日よりも少し長めに湯船に浸かってから上がった。体を拭きながら、今日こそは正解だろうかと考える。ゆっくり、が具体的にどれくらいなのか、今もまだわからない。はっきりと決めてくれればいいのに、と思いつつ、服を着て洗面所を出ようとしたところで、髪から水滴が落ちていることに気がついた。これではだめだ。また灯真の手を煩わせてしまう。黎は水滴が垂れなくなるくらい念入りに髪を拭きなおしてから、ようやく洗面所を後にした。
「おっ、出てきた? おかえりー」
黎が戻ったのを見て、灯真がキッチンから声をかけてくる。おかえり、と言われたことに面食らい、黎は目を丸くしてしまった。部屋に入ってすぐのところで立ちどまった黎に、灯真が笑いかける。
「レイ、さっき使ったバスタオル持っておいで」
どこかいたずらっぽさの含まれた声で言われ、黎は内心首をひねりながらもその指示に従った。なにに使うのだろう。よくわからないままにタオルを持って戻ると、灯真は料理を中断して黎からタオルを受けとり、にっと口角を上げた。
「ここ立って、ちょっと頭下げて」
黎はその指示にも、よくわからないながら従う。すると頭にふわりとタオルがかかった。かと思えばそのまま髪を拭かれ、黎はまたも目を見ひらく。
「うん、やっぱこの体勢のが楽かも。おまえは? 頭つらくねえ?」
勢いよく黎の髪を拭きながら、灯真が訊いてきた。黎はうつむいたまま、小さく首肯する。しかし頭の中では、なんで、がいくつも飛びかっていて、姿勢のつらさなんて気にする余裕がないのが本音だった。
さっき自分で髪を拭いたあと、水が滴らないのを確かめたはずだ。なのになぜ、また灯真に髪を拭かれているのだろう。自分では大丈夫だと思ったけれど、あれではまだ足りていなかったのだろうか。黎はふたりのつまさきをじっと見ながら、結んだくちびるに力をこめた。
「うし、こんなもんかな?」
灯真はタオルを外し、乱れた黎の髪を手櫛で整えてくれた。指先が頭を、肌をかすめるたび、こそばゆさで視線が揺れる。
「んじゃ俺も風呂行くわ。ソファでも座ってな」
そう言って、灯真は廊下を出ていった。黎は胸の奥がやけにそわつくのを感じながら、ソファに座る。すると目の前のローテーブルに、灯真のスマホが画面を上に向けた状態で置かれていることに気がついた。途端、心臓が大きく跳ねる。
いったい、いつのまに。黎が風呂へ行く前には絶対になかった。貴重品は身につけていくと、最初の夜に言っていたはずだ。なのに、なぜ、ここにスマホがあるのだろう。冷たい汗が背中を伝う。万が一にもふれてはいけない。画面が見えてもいけない。それは、怒られることだから。
あまりにも無防備なスマホを視界に入れないよう、黎はソファに座ったまま膝を抱え、できるだけ小さくうずくまった。鼓動の音が耳の奥でずっと鳴っている。怯える黎の心情とは裏腹に、テレビからは楽しげな声が響いていた。
しばらくして、灯真が部屋に戻ってきた。「レイ?」と開口一番に呼びかけられ、黎は体をびくつかせる。そうっと顔を上げ灯真を見ると、眉を下げた灯真が足早にこちらへ近寄ってきた。
「どうした? 体調悪い? のぼせたか?」
怒られるかも、と身構えていたのに、予想もしてなかったことを訊かれ、黎は思わず目をしばたたかせてしまった。状況が飲みこめないまま、ひとまず首を振って否定する。すると灯真があからさまにほっとしたのがわかった。
「ならよかった。ぐったりしてるのかと思っちゃったから」
灯真はかすかにはにかみながらそう言って、スマホを取ることなくキッチンへと戻っていった。どうやらそのまま夕飯作りを再開するつもりらしい。黎は目を丸くし、灯真を見つめる。
まさかこの流れで、怒られたり疑われたりすることもなく、それどころか心配されるなんて、思ってもいなかった。視界の端にスマホが見える。けれど灯真がまったく気にしていないからか、なんだか黎も気が抜けてしまった。さっきの灯真の言動の理由がわからないほうに思考がひっぱられる。
黎が困惑しているあいだに、灯真は夕飯を作りおえたらしい。気づけば食卓に皿が並んでいた。
「おいで、できたよ。食おうぜ」
灯真に手招かれ、黎も食卓に移動した。黎が席についてすぐ、「いただきます」と灯真が手を合わせる。黎は目の前に並んだ夕飯を見つめた。肉と卵の乗った丼と、野菜がたくさん入っている味噌汁。今夜も違う献立だ。毎日違うものを食べるなんて、いったいいつぶりだろうか。
ちらりと灯真の様子をうかがうと、それに気づいたのか、灯真も目線だけを黎に向けた。しかし灯真は瞳をゆるく細めただけで、すぐに手元へ視線を戻す。なにも言われていない。それなのに、灯真の表情だけで、なぜかゆるされているような気がした。
黎は無意識のうちに深呼吸をしてから、箸を持った。そのまま夕飯に手をつける。灯真はなにも言わないし、なにも反応しない。咎めることもない。互いに無言で食べすすめていたが、ふしぎと気まずさは感じなかった。
「……レイ」
ふいに呼びかけられ、黎は手を止めて灯真を見る。灯真はなぜかまた困ったような眉になっていて、黎ははつりと目を瞬かせた。
「今日さ、昼メシんときに箸出すの忘れてて、ごめんな。食べるの、大変だっただろ」
申し訳なさそうに言われ、黎は慌てて首を横に振った。そんなの、灯真が謝ることではないのに。灯真は眉を下げたまま続ける。
「もしまたそういうことあったら、箸くらい、勝手に使っていいからな」
灯真はそう言って、また食事に戻った。黎は返事もできず、手元の箸へ視線を落とす。ここにきてからずっと、同じ箸を使わせてもらっている。まるでこれが黎にあてがわれているかのように。
「昼メシさ、量、どうだった? 足りた?」
黎が箸を見つめていると、灯真が尋ねてきた。黎は灯真に視線を向けたものの答えることができず、くちびるをはくりと震わせる。灯真はこちらを見ずに箸を動かしているが、黎の返事を待っているのがなんとなくわかった。黎は言葉を探すように、小さく息を吸いこむ。その勢いでくちびるを薄くひらいてみたものの、なんと答えればいいのかわからず、そのまま固まってしまった。
「……わ」
何度か息を吸ってはそのまま吐くのをくりかえしたあと、喉の奥から声を絞りだす。灯真の視線がこちらに向いた。緊張のせいか、顔に力が入る。
「わかん、ない……」
考えた末に出た答えを正直に口にすると、灯真がぱちぱちと目を瞬かせた。
「わかんない」
ふしぎそうに黎の返事をなぞられ、黎は顔を歪めたまま小さくうなずいた。
食事を用意してもらったら、なんだってありがたく食べる。そこに文句なんて言わない。それが正解だと思ってずっと生きてきた。多かろうが少なかろうが、用意してもらえるだけありがたい。たとえなにも与えられなかったとしても、それに不満をいだくことすらなかった。なにも食べられないのは、こどものころからよくあることだったから。
しかし灯真は、朝と夜どころか、昼まで食事を用意してくれているのだ。これだけ食べさせてもらっていることに申し訳なさは感じている。けれど量については、なにかを思ったことすらなかった。
食べおわったあとは満腹だと思うし、食べてから時間がたっても腹が鳴ることはない。ということは、足りているということなんだろうか。わからない。仮に足りていなかったとしても、空腹は黎にとって普通のことだったから、深く気にしたことすらなかった。
黎が悶々と考えこんでいると、灯真が「ふうん」と息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
「別に昼だけじゃなくてさ、朝でも夜でも、食ったのにまだ腹減ってるとか、そういうことはない?」
灯真は黎を見ながら、確かめるようにゆっくりと話す。黎は小さくうなずいた。
「逆に、無理してぜんぶ食ってるってわけでもない?」
重ねて訊かれ、黎はそれにも首肯した。食べなければ失礼だとは思うが、だからといってむりやり食べているわけではない。しかしなぜか灯真が小さくうなったのが聞こえ、黎は思わず息を詰めてしまった。なにか間違えたのだろうか。固唾を飲んで灯真の様子をうかがう。灯真はうなじのあたりを雑に掻いたあと、「わかった」とうなずいた。
「とりあえず、今後もこの量で作るわ。もっと食いたいとか多いとか、なんか思ったらそんとき教えて」
黎はその言葉にもうなずこうとして、え、と固まった。浅く息を吐き、灯真を見る。しかし灯真の中ではもう話は終わったらしく、平然とした表情で食事を再開していた。黎は行き場を失った視線を食卓に落とす。
今、灯真は、今後も、と言わなかっただろうか。それはつまり、これからも黎に食事を用意しようとしてくれているということなんだろうか。黎はなにもしていないし、なにひとつ求められていないのに。あまりにも当然のように言うから、反応が遅れてしまった。もういまさらなにかを聞けそうにない。
行くあてがないならここにいていい、と灯真は言っていた。次に行くところなんてどこにもないから、流されるままここにいる。けれど自分は、いったいいつまでここにいていいんだろう。灯真はいつまで黎の世話をしてくれるんだろう。ほんとうはここを出て、行くあてを——次の飼い主を探す努力をするべきなんだろうか。……わからない。なにも。自分がどうするべきなのかも、このまま、ここにいたいのかさえも。
黎は手の力が抜けるような感覚を覚えながらも、なんとか箸を動かす。頭の中がぐちゃぐちゃしていてあまり食べる気になれなかったけれど、用意してもらった食事は、最後まで食べきらなければいけないと思った。
オリジナル小説は初めての作品です。
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