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 夕飯を食べおえると、灯真は「あっちでのんびりしてな」と黎に言って洗い物を始めた。あっち、も、のんびり、も、曖昧な指示だ。黎はこれで合っているのかわからないまま、ソファの座面を背もたれにするように膝を抱え、テレビに目を向けていた。


「レイー」


 キッチンから聞こえていた水の音が止まってすぐ、灯真に呼びかけられた。黎は体をひねり、灯真を見る。


「そのテレビ見てる?」


 ついとテレビを指しながら訊かれ、黎は無言で首を横に振った。視界に映してはいたが、なにをやっているのかすらもよくわかっていない。


「じゃあさ、テレビ使っていい?」


 どことなくそわついている灯真の質問の意図を、黎はうまく理解できなかった。ここは灯真の家で、あるものはすべて灯真のものなのだから、灯真のしたいようにすればいいはずだ。それなのに、なぜわざわざ黎に確認してきたのだろう。何度も目を瞬かせながらも、ひとまずうなずく。すると灯真がぱっと顔を輝かせたのが離れていてもわかった。灯真は冷蔵庫からなにかを取りだしたあと、いそいそとソファのほうへ寄ってくる。


「ん。あげる」


 ずいとなにかを差しだされ、黎は灯真の手元を見た。飲み物の入ったペットボトルだ。昼も、夕飯のときも、出されたぶんの飲み物はちゃんと飲んだのに、まだ足りていなかったのだろうか。ためらいがちにそれを受けとると、灯真が黎に笑いかけた。右頬の小さなえくぼに一瞬目線が奪われる。

 灯真はテーブルに缶を置いたあと、今度はテレビのほうへと寄っていった。テレビが置かれている台からなにかを持って、またこちらへ戻ってくる。ソファに座るのかと思ったら、灯真はローテーブルのすぐ前のラグに直接座った。え、と黎は面食らう。小さな電子音が鳴ったあと、テレビの画面が切りかわった。黎の困惑に気づいていないらしい灯真は、缶のプルタブをあけ、こちらを振りむく。


「ん」


 灯真は黎に向かって缶をかかげてきた。その行動の意図もわからず、黎は首をかしげる。灯真はなぜかむっとしたようにくちびるをわずかに突きだした。怒らせたか、と身構えかける。しかし灯真の耳が赤くなっていることに気づき、そちらに気を取られてしまった。


「乾杯しようぜ。乾杯」


 灯真はぶっきらぼうに言って、缶を少しだけ揺らした。乾杯、という言葉に黎は目を丸くする。合っているのか不安でおっかなびっくりになりながらも灯真のほうへペットボトルを持つ手を伸ばすと、灯真がにかりと歯をのぞかせた。


「今週もおつかれー」


 そう言って、灯真は自分の缶と黎のペットボトルを軽くぶつけた。そのまま灯真が缶に口をつける。その缶のラベルを見て、黎ははっとしてしまった。ビールの缶だ。見たことがある。灯真は今から、酒を飲むのだ。それに気づき、黎の体がわずかにこわばった。缶から口を離した灯真が、満足そうに息を吐く。


「今からゲームしたいし、ここ使わせて。電気つけてて悪いけど、眠くなったらソファで寝な。騒がないようにはするけど、うるさかったらごめんな。あ、寝る前に歯磨きしなさいね」


 灯真は矢継ぎ早に言ったあと、テレビへと向きなおった。黎は灯真の後ろ姿を見ながら目をしばたたかせる。

 ここは灯真の家で、黎がいさせてもらっているだけなのだ。そんな相手に対して、どうしてそんなに気遣うんだろう。電気だって灯真が必要だと思うならなにも気にせずつけていればいいし、たとえ灯真が大騒ぎしていたとしても黎がそれに不満をいだくことなどありえないのに。

 黎が戸惑っているあいだに、灯真はすっかりゲームに集中していた。テレビの画面にはきれいな景色と、たくさんのキャラクターが映っている。真ん中にいるのが灯真の動かしているキャラクターなのだろうか。誰かがテレビでゲームをしているところを見るのは初めてだった。自然とそちらに目が向いてしまう。

 てのひらが濡れる感覚がして、黎ははっと手元に視線を向ける。握ったままだったペットボトルの外側にしずくが浮きはじめていた。せっかく持ってきてくれたのだから飲まなければ。キャップをあけようとして、黎は静かに息を吐く。……誰かとあんなふうに乾杯したのも、初めてだった。今週もおつかれ、という灯真の声がふっとよみがえる。あれが黎にも向けられた言葉だというのはわかる。けれどどうして灯真があんなことを言ったのかはわからなかった。黎はなにもしていないのに。結果的に飼ってもらっているにもかかわらず、なにひとつ役に立っていないのに。

 なぜだろうか。あの声を、灯真の笑顔を思いかえせば思いかえすほど、心臓がとくとくと動いていて、少し苦しかった。

 黎はあらためてキャップをあけ、ペットボトルに口をつける。途端、口の中でぱちぱちと気泡がはじけ、思わず目を丸くしてしまった。透明だから水だと思っていたが、どうやら炭酸水だったらしい。……灯真はどうして、水ではなく炭酸水を渡してくれたんだろう。むせないよう、今度は慎重に口に含む。泡のはじける感触とともに、冷たい炭酸水が体の真ん中を流れおちていった。

 邪魔にならないようきゅっと膝を抱えたまま、炭酸水を片手に灯真の後ろ姿とゲームの画面を眺める。なにをしているのかはさっぱりわからない。けれどときおり小さくひとりごとをこぼしている灯真の背中からは、楽しんでいるのが伝わってきた。飼い主たちがスマホでゲームをしているのは見たことがあったけれど、無表情でやっているか、苛立っていたかの記憶が強い。スマホのゲームとテレビのゲームとではなにか違うのだろうか。考えてみたところで、ゲームなんてしたこともない黎にわかるはずもなかった。小さくかぶりを振り、意識を灯真へ戻す。「やったー」と無邪気に言ったのが聞こえて、黎はかすかに瞠目してしまった。

 いつもはものすごくおとなに見えるのに、……今だけはどこか、幼さも感じるのは気のせいだろうか。自分よりも年上の灯真相手に失礼だ、と頭ではわかっているのに、これまで見たことのなかったあどけないふるまいがなんだか気になってしまった。ゲームをしているからそう見えるだけなんだろうか。ぼんやりと考えていたが、そもそも自分は灯真についてなにも知らないと思いなおし、くちびるの内側をそっと嚙んだ。


「ごめんな。つまんねえだろ、見てるだけだと」


 灯真がふいにつぶやく。それが黎に向けられていたものだと気づくまでに時間がかかってしまった。黎は眉を寄せ、瞬きをくりかえす。

 灯真がゲームをしていることがなぜ黎にとってつまらないことに繋がるのかがわからないし、謝られた理由はもっとわからなかった。灯真がやりたいことをやっているのだから、黎を気にかける必要なんてどこにもないのに。

 困惑したまま灯真の後ろ姿を見つめる。灯真は話しかけてきたものの、黎の返事を求めているわけではないらしい。それがなおさら黎を戸惑わせた。

 すぐそこにいて、黎を気遣ってはいるようだけれど、黎の反応は求めていない。灯真のふるまいに対し黎はどうするべきなのかわからないまま、ただぼんやりとゲーム画面と、ゲームをする灯真を眺めつづけた。

 黎が炭酸水を飲みきっても、灯真がゲームをやめる気配はなかった。寝る前に歯を磨けと言われていたのを思いだし、立ちあがる。


「どうした?」


 洗面所に向かおうとした途端に声をかけられ、黎は大きく肩を跳ねさせてしまった。まさか話しかけられるとは思わず、気を抜いていた。驚いたからか、どっと汗が噴きでる。


「は、はみがき」

「あー」


 うろたえながらもなんとか答えると、灯真が気の抜けた声をもらした。


「炭酸水、飲みおわった? 空のペットボトルはキッチンに置いといて」


 テレビの画面を見たまま、灯真が続ける。黎は言われたとおり、洗面所に向かう途中でペットボトルをキッチンに置いた。廊下から出てやっと、黎は詰めていた息を吐くことができた。

 歯を磨いて部屋に戻ったが、灯真は姿勢すら変えずにゲームを続けていた。眠くなったら寝な、という灯真の言葉を頭の中でなぞる。眠いような気もするが、まだ起きていられるような気もする。寝る前に歯を磨く、と、眠くなったら寝る、のあいだの指示はない。……これはどっちなんだろう。少し考えて、ソファで横になることにした。


「寝る?」


 テレビから目を離すことなく訊かれる。黎はうなずこうとして、はっと思いとどまった。灯真はこちらを見ていないから、うなずいてもわからない。でもこれは黎に対する質問だから、返事をしないといけない。黎はそっと息を吸いこむ。


「……うん」

「そっか、おやすみ。まぶしくてごめんな」


 灯真が今度は振りかえり、眉を下げて笑う。黎の頭を撫でてから、またテレビへと向きなおった。黎は目を丸くし、灯真の背中をじっと見つめる。……どうして、そんな当たり前のように、頭を撫でてくるんだろう。黎はくちびるを強く結び、毛布にくるまる。なんとなくそれだけでは足りない気がして、鼻先まで毛布をひっぱりあげ、体を小さく丸めた。

 鼓動がやたらとはやいのが、自分でもわかる。灯真の大きなてのひらで頭を撫でられるたび、自分の内側がざわついてしかたなかった。もぞもぞと両足のつまさきを擦りあわせながら、黎は灯真の背中とテレビの画面を眺める。

 ゲームの音。灯真がコントローラーを操作する音。缶をテーブルに置く軽い音。灯真のひとりごと。

 黎に向けられたものはなにひとつない。それなのに、なぜか灯真と同じ空気を共有しているような、ふしぎな気持ちになっていた。眺めているうちにだんだんと眠気が強くなってきて、黎はとろとろと緩慢に瞬きをする。

 少し手を伸ばせば届く位置に、灯真の背中がある。まどろみながらその背中にふれたくなって、けれど自分がそう思ったことに戸惑ってしまった。なんで今、あの背中に手を伸ばしたくなったんだろう。さわるのも、さわられるのも、こわいはずなのに。自分から誰かにふれたいなんて、思ったことなかったのに。

 黎は両手を胸元にぎゅっと抱えこむ。そのまま硬く目をつむると、灯真の立てる物音やゲームの音に自然と意識がひっぱられた。なぜだろう。テレビの音とは違い、妙な心地よさを感じる。そのうちに黎の呼吸が深くなっていき、力を入れていた目元がゆるんだ。

 まどろみの中、「おやすみ」と聞こえたような気がした。頭の中でおやすみなさいと返してみる。けれど、それが音になることはなかった。そういえば、灯真は酒を飲んでいたのにずっといつもと同じ灯真のままだったな、と思ったが、すぐに意識がとけ、なにを考えていたのかわからなくなった。



オリジナル小説は初めての作品です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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