1-8
灯真が風呂から戻ってくる。その髪は確かにしっかりと乾いているように見えた。あれが正解なのか、と黎はソファに座ったまま灯真を眺める。灯真はエプロンをつけ、夕飯の支度を再開した。少しもしないうちに、ふたりぶんの夕食がダイニングテーブルに並んでいく。
「おいで、食べよう」
エプロンを外した灯真に呼ばれ、黎はのたのたと食卓へ向かった。灯真の向かい側、朝と同じ椅子に腰を下ろす。
「いただきます」
灯真はきちんと手を合わせてから、夕食を食べはじめた。黎は自分の前に並んだ夕食をじっと見る。今夜も、できたての食事だった。白米と味噌汁、焼き魚に、野菜のおかず。昨日の夕食とも、今日の朝食とも違う。箸も持たずに夕食を眺めていると、灯真が食べながらちらりとこちらを見た。
「好きじゃないもんあれば、残していいからな。俺が食うよ」
のんびりとした語調で言われ、黎はあわてて箸に手を伸ばした。せっかく作ってもらったのに、このままではまた困らせてしまう。黎が食べはじめると、灯真の視線が外れたのがわかった。
テレビの音と食事の音だけが部屋に流れる。黙々と食べすすめていたら、「レイ」とふいに呼ばれた。黎は手を止め、灯真へ視線を向ける。
「今日の昼ってさ、なに食べたの?」
どこかためらいがちに灯真が訊く。黎はくちびるを結んだまま、首だけを小さく横に振った。途端に灯真の視線が訝るようなものになる。
「……昼メシ、食ってねえの?」
先ほどよりも硬い声で訊かれ、黎はわずかにうろたえながらもそっと顎を引いた。
「腹減ってなかった? 食欲ないとか?」
続けて訊かれたが、今度はどう反応すればいいか迷ってしまった。黎はすいと視線を逸らす。
空腹は感じていた。でも、食欲がなかったのかはよくわからない。朝に食べたから食べなくてもいいと思っていたし、そもそも灯真の家のものを勝手に食べるなんていけないことだとも思っていた。だから食べなかった。これは、どう返事をするのが正解なのだろう。黙っていると、灯真が小さく息をもらした。雑にうなじのあたりを掻いたあと、「レイ」とふたたび呼びかける。
「水分は? なんか飲んだのか?」
今度は首を横に振って答えることができた。けれど灯真はそれを見て、ほんの少しだけ険しさを含んだ苦笑を浮かべる。「レイ」と呼ぶ声も硬く、黎は自分がなにか間違えたことにようやく気がついた。
「腹減らないとか、食欲湧かないとかは、あるかもしれない。俺もそういうときはメシ食わないし。でも、水分だけはちゃんと摂りなさい。脱水起こしたら、しんどいだろ」
灯真はたしなめるような口調でそう言ったあと、おもむろに立ちあがった。黎は思わず身構える。けれど灯真は黎の横を通り、キッチンへと向かっていった。そうっと灯真の様子をうかがう。灯真は冷蔵庫から取りだした冷水筒を片手に戻ってきて、黎のコップにお茶を注いでくれた。
「まだおかわりもあるから」
灯真はゆるく苦笑して、椅子に座りなおした。そのまま食事を再開する。黎はおずおずとお茶をふたくち飲み、コップを持ったままくちびるを嚙んだ。
また困らせてしまった。いや、今度は怒らせてしまったのかもしれない。黎が、水分を摂らなかったから。けれどどちらにしても、灯真がこちらを気遣ってくれているのはひしひしと伝わってきた。灯真は黎が水分を摂らなかったことにより、黎の体調が悪くなることを気にしてくれているのだ。それが申し訳なくてしかたなかった。黎はなにもできていないのに。気にしなくても大丈夫なのに。黎はコップを置き、息を吸いこむ。
「……あの」
黎が声をかけると、灯真が手を止めてこちらを見た。
「おれは、なにをしたらいいの」
昨晩と同じ問いをくりかえす。灯真の苦笑がますます深くなった。
「だから、別になんにも」
昨晩と同じ答えをあっさりと返され、黎の眉が歪む。
「強いて言うなら、ちゃんとメシ食って、水分摂りなとは思うけど。それも、まあ、おまえが嫌だって思うなら、強制はしないし。おまえの好きなようにしていいんだよ」
灯真は笑みまじりにそう言って、食事を再開した。黎は箸を持つこともできないまま、食べかけの夕食に視線を落とす。
好きにすればいい、と灯真は昨日から何度か口にしている。黎にとってそれは、いろんな意味でおそろしい言葉だった。
かつて黎を世話してくれた飼い主たちは、黎に向かってよく「好きにすれば」と言ってきた。言うことが聞けないなら好きにすれば。どうでもいいから好きにすれば。言われた場面はさまざまだったが、その言葉にはいつだって苛立ちがたっぷりと含まれていた。それを言われたら黎は必死に謝り、飼い主たちに機嫌を直してもらい、黎のあやまちをゆるしてもらわないといけなかった。好きにする、という言葉に、黎の自由はない。それが当たり前だった。
けれど灯真の言葉には、その苛立ちがいっさい感じられない。かといって投げやりなわけでもない。ほんとうに黎の自由にすればいいと思っているような響きをしていた。知っているはずなのに、知らない言葉。それが黎にとって、なによりもおそろしいもののように聞こえた。
好きにやってなにか間違えるくらいなら、最初から言われたことだけをしていたい。そうすれば、間違えなくて済む。間違えなければ、怒られなくて済む。飼い主の言葉だけが、正解なのだから。
「もういらない?」
ふいに声をかけられ、黎ははっと意識を戻す。気づけば灯真はすでに夕飯を食べおわっていた。黎はあわてて首を横に振り、箸を動かす。黎が食べているあいだ、灯真はやはり席を立つことなく黎を眺めているようだった。ずっと視線を感じるが、そこに棘はないようには思う。少なくとも、急かされているようには感じない。ならばなぜ見ているのだろう。黎はなんともいえない気まずさを覚えつつも、灯真からずいぶん遅れて完食した。
「ごちそうさま。洗い物するから、ソファでも座ってな。お茶、まだいる?」
灯真が食器をまとめながら訊く。黎はかぶりを振って断わった。灯真は「そ?」と軽い調子で返事をして、シンクへ向かう。黎は言われたとおりソファに座り、そこから灯真の姿を見つめた。
ほどなくして洗い物を終えたらしく、灯真がソファのほうへと寄ってきた。しかし灯真はソファには座らず、昨日と同じようにラグに腰をおろした。そのまま平然とスマホをさわりはじめたのを見て黎は困惑する。自分がソファに座っているのに、家主である灯真が床に座っているなんて、そんなの、よくないに決まっている。戸惑いながらも「あの」と声をかけると、灯真が目線だけを黎に向けた。
「あの、すわって、おれはいいから」
たどたどしく言いながらソファを降りると、灯真がきょとんと目を丸くした。それからすぐに、顔をくしゃくしゃにして笑う。
「別に、座ってていいのに。でも、まあ、気にはなるか。俺もおまえの立場なら気にするもんな」
灯真はくつくつと肩を震わせ、ソファに座った。ひとりぶん空いている座面を片手でぽんと叩く。
「ここ、空いてるよ。レイも座りたかったら座りな」
気安い雰囲気で声をかけられたが、黎は反応に詰まってしまった。灯真と座面を何度も見る。
座りたいわけではない。座っていていいなら、フローリングの上でも構わないのだから。とはいえ、座りたくないとまで思っているわけでもなかった。座る場所を指示してもらえればそれに従うのに。黎は必死に考えた結果、ソファには座らず、座面が空いている側を背もたれにするようにして座りなおした。背後で灯真が淡く笑った気配がする。かと思えば髪をかきまぜるように頭を撫でられ、結んでいたくちびるに力をこめてしまった。
見るでもなくテレビを眺めながらも、すぐそばにいる灯真に意識が自然とひっぱられる。このあと自分はどうなるんだろうか。考えないといけないのに、灯真がかすかに身じろぐたび、テレビから大きな笑い声が聞こえるたびに、思考が簡単に霧散した。
「レイ」
しばらく黙っていた灯真が、おもむろにレイを呼ぶ。見上げるように灯真へ顔を向けると、目が合ってすぐ、灯真が瞳をゆるく細めた。
「昼さ、腹は減ってた?」
穏やかな声音で訊かれ、黎は少しためらったものの正直にうなずいた。
「なんか用意していったら、それ食う?」
続けて訊かれたが、今度は反応に困ってしまい、黎は知らず知らずのうちに眉を寄せていた。
これを食べろと用意してもらえたら、食べる。用意してもらったのに食べないのは失礼だから。けれどすでに、朝と夜に食べさせてもらっているのだから、それでじゅうぶんだ。昼は食べなくても、多少の空腹くらいなんでもない。もともと前の飼い主のところにいたときだって昼は食べていなかった。それよりも、灯真の手を煩わせるほうが——そこまで考えて、黎の思考がはたりと止まった。もしかして、明日の昼の話をしているのだろうか。今夜もこのまま、ここにいていいのだろうか。そのうえ、明日の昼も? 黎が混乱していると、灯真がまた困り顔で笑い、黎の頭をぽんと撫でた。
「まあいいや、弁当作るか。つっても、弁当箱なんてないから、タッパーに詰めただけになるだろうけど」
あっけらかんと言われ、黎は目を見ひらく。申し訳なさに、黎の心臓がじくりと痛んだ。ほんとうに、そこまで気を遣わなくていいのに。あたたかい部屋にいさせてもらえるだけでじゅうぶんありがたいのに。だからといって、いらない、と拒絶するのも違う気がして、黎はおろおろと目を泳がせる。これで話が終わったのか、灯真はまたスマホに視線を移してしまった。黎は困りはて、ぎゅっと手を握りしめる。
このままでは、いろんなことがうやむやになったまま、ここで世話をしてもらう流れになってしまう。それはだめだ。世話をしてもらうなら、飼ってもらうなら、ちゃんと対価を渡さなければ。今度こそ、訊かなければ。黎は意を決し、灯真を見る。黎の視線に気づいたのか、灯真がこちらを見て「ん?」と首をかたむけた。
「なにか、してほしいこと、ないの」
かすれた声で訊くと、灯真の目がわずかに丸くなる。
「おれ、なにしたらいいの。してほしいこと、ないの」
黎が必死にくりかえすと、灯真は眉尻を下げ、膝の上に頬杖をついた。
「だから、なんもないって言ってんじゃん」
すがるような気持ちで訊いたのにあっさりとかわされ、黎は愕然と灯真を見つめる。
「おまえさ、メシ食うの好きじゃなかったりする?」
灯真はかわらず苦笑したまま、脈絡のないことを訊いてきた。なぜそんなことを、と思いながら、黎は答えに迷い、目線を落とす。食べることに対して、好きや嫌いを考えたことなんてなかった。食べなければ腹が減る。腹が減ると、ひもじくなる。だから食べる。それだけだ。そこに、好きや嫌いなんて存在するんだろうか。黎が答えあぐねていると、灯真がふっと息を吐いた音が聞こえた。
「嫌じゃないなら、メシ食って、水分摂って、いっぱい寝て、のんびりしてな。それだけでいいよ」
言いおわらないうちに、灯真の手が黎のほうへ伸びてくる。体をこわばらせる隙もないまま、灯真の指の背が黎の頬をするりとくすぐった。
「おまえ、顔色悪いし、痩せすぎ」
黎の頬から手を離した灯真の瞳が、ゆるやかに弧をえがく。
「してほしいこととか、なんもないからさ。まずはその顔色どうにかするために、ゆっくり休みな。今日はもう歯磨いて、とっとと寝なさいねー」
灯真は軽い調子でそう言って、おもむろに立ちあがった。そのまま廊下のほうへ向かう。黎ははっと我に帰り、足がもつれそうになりながらもその背中を追った。灯真が黎を振りかえり、微苦笑を浮かべる。
「おまえも歯磨きすんの?」
問いかけられ、黎はぎこちなくうなずいた。追いかけてきたものの、自分がほんとうに洗面所へ向かうつもりだったのかは自分でもよくわからなかった。
そのまま並んで歯を磨き、寝支度を整える。灯真のうしろをついてリビングに戻ると、灯真がテレビを消した。朝からずっと流れていた他人の声があっさりとなくなる。
「んじゃ、電気消すね。おやすみ」
灯真はあくびまじりに言って、リビングを消灯し、寝室へと入っていった。ドアの閉まる音が静かな部屋にかすかに響く。黎はのたのたとソファに横になり、毛布にくるまると、ようやく人心地ついたような気分になった。ゆっくりと、長く、長く、肺の中の息を吐ききる。
どれだけ考えてみても、なぜ灯真がここまでしてくれるのか、さっぱりわからなかった。これだけ世話になっているのに、明日もここにいさせてもらえるようなのに、なにもできない。なにも求めてもらえない。のんびりするって、ゆっくり休むって、どういうことなんだ。そんなの、知らない。わからない。
黎は腹の奥がぐるぐると気持ちわるいのを紛らわせたくて、腹を抱えるように体を丸める。目をつむると、頬にまだ灯真の指の感覚が残っているような気がした。
オリジナル小説は初めての作品です。
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