1-7
排泄以外でソファから動くことなく、浅い眠りと覚醒をくりかえす。朝食を食べたきりなにも摂っていない。腹が減ってきた気もするし、喉はずっと渇いていた。指先がかすかに痺れている。
けれど、なにも摂る気力が起こらなかった。灯真は好きに飲み食いしてもいいと言っていたけれど、そんな恐れ多いことできるはずもない。せめて水道から水を掬って飲もうかとは思いはしたが、それすら面倒だった。それよりも眠りたい。寝ているはずなのに、どうしてこんなにもまだ眠いのか、不思議だった。
テレビからはあいかわらず、人の声が流れつづけている。こちらの意思に関係なく聞こえてくる他人の声が、体の中にぐずぐずと蓄積していくみたいな気分だった。まどろむたび、それを妨げるように声が耳につく。気にはなるが、灯真のつけていったテレビだから消していいのかもわからなかった。
寝て起きてをくりかえしているうちに、気づけば部屋の中が暗くなっていた。テレビは煌々と光ったまま、黎に向かって声を流しつづけていた。
遠くのほうからがちゃんと鍵のひらく音がして、黎ははっと目を覚ます。いつのまにかまたまどろんでいたらしい。物音のしたほうへ意識を向ける。テレビの声に混ざって、かすかに水の音が聞こえる気がする。それが止まってすぐ、足音がこちらへ近づいてきた。ドアがあき、部屋がぱっと明るくなる。まぶしさに目をつむるのと同時に、「あっ」と小さな声が聞こえた。
「寝てたのか? ごめん、まぶしかったよな」
急に謝られ、黎は重たい体をのっそりと起こし、首を横に振った。灯真が謝らないといけないことなんてどこにもないのに、なぜ謝ったのかわからなかった。ゆるく眉を下げた灯真がこちらへ寄ってきて、黎はわずかに身構える。けれど灯真は黎のそばを素通りし、そのまま窓辺へと向かった。
「電気、つけててよかったんだよ」
灯真は言いながら、朝からひらきっぱなしだったカーテンを閉めた。まだはっきりしない頭で灯真の動きを追う。振りかえった灯真と目が合った。灯真の頬にえくぼができる。
「ただいま、レイ」
やわらかな笑みとともに声をかけられ、「おかえり」の言葉が反射で喉元まで出かかる。けれど音にすることはできないまま、黎はわずかな唾と一緒にそれを飲みくだした。灯真は特に気にした様子もなく寝室へ入っていく。灯真の姿が見えなくなってから、黎はぐっとくちびるの内側に歯を立てた。
どうして、おかえりくらい言えなかったんだろう。これまでの飼い主たち相手なら、「おかえり、おつかれさま」とねぎらうことができたのに。前の飼い主にだって、捨てられる前はまともに奉仕できなくなっていたものの、それくらいはかろうじて言えていた。もう少しまともに会話もできていたはずだ。
けれどなぜか、灯真の前だと喉が凍りついたように言葉が出てこなくなってしまう。話しかけられているのに返事もできないのは失礼なことだ。うまく話せない自分が嫌になる。対価も渡せないままこんな態度を取っていては、なおさら世話してもらう価値がない。ちゃんとしなければ、すぐに捨てられる。頭ではわかっていても、体がついてきてくれなかった。
寝室のドアがひらき、シャツとスラックス姿になった灯真が戻ってきた。そのままソファへと近寄ってくる。
「ん」
灯真は、レジ袋を持った手をこちらへ伸ばしてきた。どうしたんだろう、と灯真の手を眺める。数秒互いに無言で見つめあったあと、灯真がふはりと小さく噴きだした。
「おまえのだよ。受けとって」
そう言って、灯真が目元にかすかな皺を寄せた。まさか自分に対してのものだと思っておらず、黎は面食らう。そろそろと手を伸ばしてレジ袋を受けとり、中を覗くと、新品の下着がふたつ入っていた。
「服ならいくらでも貸せるけど、下着はさ、ほら、やっぱ、ちょっとな。だから、これからはそれ使って」
灯真はわずかに気まずさを見せながら、指先で頬を掻いた。黎は黙ったまま、手元の袋と灯真を何度も見くらべる。
「もうすぐ風呂沸くから、ゆっくり入っておいで。そのあいだにメシ作るわ。昨日と同じで、今着てる服は洗濯かご。おまえが昨日着てた服は洗濯機の上に畳んで置いてあるから。タオルも隣に置いてあるし、それ使いなね。で、その新しい下着はいったん洗濯しちゃって。昨日穿いてたやつあるから、今日は大丈夫だろ?」
確かめるように言われ、黎はのろのろとうなずいた。顔を上げると、灯真がにっと歯をのぞかせる。風呂が沸いたことを告げる自動音声が流れてきて、灯真がぽんと黎の肩を叩いた。身構えることもできず、ただ息だけを詰める。
「んじゃ、行っといで。ごゆっくりー」
灯真は軽やかに言って、キッチンへと行ってしまった。黎は言われたとおりレジ袋を持ち、浴室へと向かう。洗面所に入ると、確かに洗濯機の上に黎が昨日着ていた服とタオルが置かれていた。今着ている服は洗濯かごへ。下着を開封し、それもかごに入れる。洗面台のわきにごみ箱があるもののそこにごみを捨てていいのかわからず、黎はレジ袋の中にごみだけを戻した。
昨夜と同じように、全身を洗ってからそうっと湯船に浸かる。朝から寝てばかりいたからか、体を起こしているとわずかに目が回る気がした。ソファで小さくなっていたためにこわばっていた体が、あたたかな湯のおかげでゆっくりとほぐされていく。黎はそっと息を吐きだし、浴槽の中で膝を抱えた。
流されるまま風呂に入れてもらっているが、ほんとうにここで飼ってもらえるということなんだろうか。そうだとすれば、今日こそ、自分がなにをするべきなのか聞かなくては。なにをしてほしいのか、なにをすればいいのか、はやく答えがほしい。なにを言われたとしても、すべて従うのに。してほしいことはなにもないと心底困った様子で言った灯真を思いだし、くちびるを嚙む。
対価を渡させてほしい。そうでなければ、いっそ捨ててほしい。
黎は昼間と打って変わって静けさに満ちた浴室で、そっと目を閉じる。まぶたの裏には、ただいま、と笑った灯真のえくぼがくっきりと残っていた。
昨日よりも長く風呂に浸かってから、部屋へ戻る。しかし灯真は今日も「はやかったな」と苦笑した。これでもまだゆっくりには足りていないのかと黎は内心驚く。
「あの、これ」
ごみの入ったレジ袋をおずおず差しだすと、灯真が目を瞬かせた。受けとったレジ袋の中を見て、灯真の眉がますます下がる。
「ああ、なんだ。ごみか。ごみ箱あっただろ? あの中、捨ててよかったのに」
灯真はくつくつと笑いながら、レジ袋をキッチンのごみ箱に捨てた。捨てればよかったのか。それさえわからず灯真の手を煩わせてしまったことが申し訳なくて、黎は左の肘をつかむ。
「髪、まだ濡れてんじゃん。さっき使ったタオル持っておいで」
灯真が苦笑したまま言う。黎は理由を考えることもなく、灯真の指示に従って洗面所にタオルを取りに戻った。湿っぽいタオルを手に、あらためて灯真のところへ行く。灯真はキッチンから出て、食卓の近くの少し空いたスペースにいた。
「ちょっとここしゃがみな」
ここ、と灯真が自分の足元を指ししめす。言われたとおり灯真の足元にしゃがむと、灯真が黎の手からするりとタオルを持っていった。かと思えば、そのタオルで頭を拭かれ、黎は静かに瞠目する。
「昨日も気になってたんだよな。ちゃんと拭かないと、風邪ひいちゃうよ」
灯真は言いながら、黎の頭をわしわしと拭いていく。遠い遠い記憶が刺激され、黎は硬く目を閉じた。力強い動きで頭が揺れる。黎は心臓がどきどきと鳴っていることに気づき、膝を抱える腕に力をこめた。
「まあ、こんなもんか?」
灯真が手を止め、乱れた髪を手櫛で整えてくれる。額や頬に当たる髪はまだ湿り気を帯びてはいるものの、もう水滴が垂れてくることはなかった。指先が頭に当たるたび、体が勝手にこわばってしまう。
「髪長いから、拭くの大変だろ。目も悪くなりそう」
指先が額にふれ、伸びきった前髪を搔きわける。一瞬だけ視界を遮るものがなくなったけれど、すぐにさらりと髪が落ちてきてしまった。灯真が淡く笑った気配がする。
「んじゃ、俺も風呂入ってくる。そんなとこじゃなくてどっか……いや、ソファにでも座ってて」
まるで仕上げのように黎の頭をぽんぽんと撫で、用意してあった着替えとともに濡れたタオルを持って部屋を出ていった。
灯真の姿がすっかり見えなくなってから、黎は長く静かに息を吐く。頭にも、額にも、まだ灯真の手の感触が残っているような気がした。
黎は言われたとおりソファに座り、ぼんやりとテレビに目を向ける。昼間となにも変わっていないはずなのに、今はもうテレビの音は大して気にならなかった。ふわ、とかすめたにおいをたどるように、黎は自分の着ている服を嗅ぐ。今まで着ていたスウェットのはずなのに、馴染みのない香りがした。毛布からするにおいともどこか違うように感じる。さっきまですぐそばにいた、灯真のにおいとも。
黎は服だけでなく、自分の腕や、髪のにおいも嗅いでみる。それから今度は、ソファの座面でくしゃくしゃになっていた毛布をそっとつまんだ。鼻を近づけ、すん、と息を吸いこむ。馴染みのないにおいばかりだ。どれもぜんぶ少しずつ違う。けれど毛布がいちばん灯真のにおいに近いかもしれない。気がつけば、さっきまで暴れていた心臓はもうすっかりと凪いでいた。
オリジナル小説は初めての作品です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
感想・コメントなどいただけると励みになります。




