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かすかな物音が聞こえ、黎は浅い眠りから目を覚ます。まぶたはおろしたまま隣にいる飼い主を抱きよせようとして、その手が空を切った。あれ、と黎は違和感を覚える。もう彼女は起きたのだろうか。様子をうかがおうと薄目をあけた黎は、そのまま目を瞬かせてしまった。
ここは、どこだろう。彼女の部屋ではない。知らないにおいが鼻先をかすめる。状況が把握できずにぼんやりしていると、背後からドアのひらく音がした。それからすぐに部屋のカーテンがあき、射しこんでくる日差しのまぶしさに目を閉じる。
「わっ」
閉じた視界の中、男の声が聞こえてきて黎の肩が小さく揺れた。静かな足音が近づいてくるのに気づき、黎は目を閉じたまま息をひそめる。
「……ああ」
ふたたび声が聞こえ、誰かの気配がぐっと近くまで寄る。その直後にそっと頭を撫でられ、黎は思わず息を詰めてしまった。鼓膜の奥で心臓の音が激しく鳴っている。淡く笑ったような吐息の音がしたあと、黎の頭を撫でた誰かが、今度は毛布を肩までかけなおした。そのまま誰かの気配が遠ざかる。黎のそばには、寝起きに嗅いだのと同じにおいだけがほんのりと残っていた。
遠くでドアの音がして、部屋の中から他人の気配がなくなる。そこでようやく黎は詰めていた息を静かに吐き、目をあけた。まだてのひらの感触が残る自分の頭にそろりとふれる。……そうだ。昨日、彼女に捨てられて、それから、灯真に拾ってもらったのだ。寝る前の記憶がよみがえってくる。黎は灯真がかけなおしてくれた毛布に、鼻先まで潜った。ゆっくりと鼻で息を吸うと、あのにおいが肺を満たしていく。
黎は毛布にくるまったまま、今のできごとを思いかえす。なぜあのひとは、黎を起こすこともなく、頭を撫で、さらに毛布をかけなおしたのだろう。わからない。寝起きでうまく働かない頭では、灯真の行動の意味をさっぱり理解できなかった。
ぼうっとしていると、廊下のほうから足音が聞こえてきた。灯真が戻ってくるのだと気づき、黎はのっそりと体を起こす。すぐにドアがひらき、「お」と灯真が声を上げた。
「おはよ。眠れた?」
寝起きを感じさせないさっぱりとした笑顔で灯真が訊いてくる。黎はその気安さにどう返せばいいかわからず、曖昧に首を動かすしかできなかった。それを見た灯真がふっと苦笑する。
「起きたなら、歯磨いて顔洗っておいで。洗面台に新品の歯ブラシ出してきたから、それ使いな」
灯真にうながされ、今度はうなずくことができた。ソファから降り、のたのたと洗面所へ向かう。灯真の言葉どおり、洗面台には新品の歯ブラシが置かれていた。黎はそれをそっと手に取り、見つめる。
これは、わかりやすいな、と黎は思う。起きたら、歯を磨き、顔を洗う。置いてある新品の歯ブラシを使う。これなら、従うだけでいい。ぜんぶこれならいいのに、と思いながら、黎はパッケージから歯ブラシを取りだした。
灯真の指示どおり身支度を整えてリビングに戻ると、灯真はキッチンにいた。灯真がつけたのか、テレビから知らないひとの声がいくつも聞こえてくる。
「レイ、コーヒー飲む? デカフェだけど」
灯真に声をかけられ、黎は小さく首をかしげた。コーヒーはわかるし、飲んだこともあるが、デカフェとはなんだろう。初めて聞く言葉だ。飲むかどうか訊かれているのに、返事ができないでいると、灯真がやんわりと苦笑した。
「ま、ついでだから淹れるよ。朝メシ作ってるから、そこ座って待ってな」
そう言って、灯真がついとダイニングチェアを指さした。昨日黎が座っていた椅子だ。黎は浅くうなずき、指示された椅子に腰かけた。
「あっ、そうだ。おまえ、アレルギーあったりする? 食べられないものは?」
キッチンから声をかけられ、黎はまたしても知らない言葉に眉を寄せてしまった。アレルギーとはなんだろう。あるかないかもわからない。それでも、続けて訊かれた食べられないものに関してはなかったので、ひとまず首を横に振った。灯真は「わかった」と軽く返事をし、朝食作りを再開する。黎は言われたとおり椅子に座って待ちながら、ぼんやりと灯真の姿を眺めた。
キッチンから、コーヒーのにおいがふうわりとただよってくる。それからこれは、パンの焼けるにおいだ。灯真はてきぱきと動き、あっというまにふたりぶんの朝食とコーヒーを用意してくれた。今朝も黎の向かいに座り、ぱちんと手を合わせる。
「いただきます」
挨拶をしたあと、灯真は朝食を食べはじめた。黎は手をつけず、自分の前に並べられた皿を見つめる。トーストと目玉焼き、野菜のたっぷり入ったスープ。豪華だ、と黎は何度も目を瞬かせる。
「コーヒーさ」
ふいに声をかけられ、黎はぱっと灯真へ視線を移す。
「ブラックで用意したんだけど、砂糖欲しかったら持ってくるし。調味料の棚にあるから、勝手に持ってきてもいいよ。冷蔵庫に牛乳もあるから、それも使いたかったら使っていいし。朝メシいらなかったら残しといてくれれば、俺が夜に食べるから大丈夫だよ」
灯真は黎が口を挟む隙もないくらいにぽんぽんと話してから、ふたたび朝食を食べはじめた。もしかしたら、またなにか困らせたのかもしれない。黎はかぶりを振ってから、トーストへ手を伸ばした。
トーストの角をひとくちかじると、さくりと音がした。焼きたてなんだろうか。まだほんのりと熱い。昨晩夕飯を食べられたから空腹ではないと思っていたが、食べはじめると止まらなくなってしまった。食べながら、なんでだろう、と疑問に思う。腹が満たせればなんだってありがたかったはずなのに、灯真の用意してくれた食事はなにかが違う気がする。あたたかいからだろうか。考えてみても、理由はよくわからなかった。
灯真は今回も、食べおわっても席を立たなかった。黎が完食したのを見てから「ごちそうさま」と言い、食器をまとめて下げはじめる。あわてて残りのコーヒーを飲みほそうとすると、灯真がふはっと笑った。
「いいよ、ゆっくり飲みな」
そう言って、灯真はマグカップ以外の食器をシンクへ持っていく。黎はぬるくなったコーヒーを少しずつ飲みながらも、キッチンへ意識を向けていた。
手早く洗い物を終えた灯真が寝室へ行く。その姿がすっかり見えなくなってから、黎は静かに息を吐きだした。まだ中身がわずかに残っているマグカップに視線を落とす。朝からこんな悠長にコーヒーを飲むなんて、ゆるされるのだろうか。これを飲みおわったら、次はどうなるんだろう。これからのことは明日起きてから考えれば、と灯真は言っていたが、自分がどうするべきなのかはまだわからないままだった。
黎が悶々としていると、寝室のドアがひらいた。中から身支度を整え、スーツにコートを羽織った灯真が出てくる。灯真は壁の時計を一瞥したあと、ダイニングテーブルに寄ってきてなにかを置いた。鍵だ、と認識した途端、黎は瞠目する。
「俺、仕事行くし、どっか行くなら鍵だけかけていって。下の集合ポストに鍵入れてくれればそれでいいから。俺の部屋の番号のところね。ポストに鍵ついてるから簡単にあけられないし、たぶん大丈夫。昨日も言ったけど、行くとこなければここにいてもいいからな。寝ててもいいし、なんかしててもいいし、レイのやりたいようにすればいいよ。そのカップはシンクに置いて、水につけておいてくれれば洗わなくてもいい。で、あとは……ああ、腹減ったら適当にあるもの食べていいからな。冷蔵庫の中も備蓄も好きに食べていいし、好きに飲んでいい。あ、酒だけは飲むなよ! 未成年なんだから!」
灯真は畳みかけるように言ったあと、今度は腕時計を見て、「やべ」と小さくつぶやいた。
「じゃあ、俺行くわ。なんもなければ八時くらいには帰ってくると思う」
そう言って、灯真はぽんと黎の頭を撫でた。不意を突かれ、黎ははっと息を呑む。
「んじゃ行ってきます」
灯真は黎の動揺に気づくことなく、ひらりと手を振って廊下へと出ていってしまった。それからすぐに玄関のドアが閉まった音が響いてくる。あまりにも怒涛の勢いに圧倒されていた黎は、灯真が出ていってしばらくしてからようやく体の力を抜くことができた。そのまま、テーブルに置かれた鍵を見つめる。
鍵だ、と黎は思う。どこからどう見ても、鍵だ。この家の、鍵。……こんなものを、どうしてこんなにも無防備に、置いていったのか。信じられない。そもそも黎をひとりで家に置いておくのだって、あぶないとは思わないのだろうか。もし黎がこの家で悪いことをしたり、なにか盗ったり、鍵を持って逃げたとしたら、なんてことを考えなかったのだろうか。そんなことをするつもりはないけれど、あまりにも簡単に信用されているような今の状況を、都合がいいと思うことすらできなかった。これまでの飼い主たちはもっと黎を疑っていたはずだ。
黎は深く息を吐き、鍵から視線を外した。残っていたコーヒーを飲みほし、言われたとおりにシンクで水につける。薄く濁った水で満たされているカップを見ながら、黎は灯真の言葉を思いかえした。
ここを出て行くあてなんてない。たぶん今ここを出れば、今夜は外で眠ることになるだろう。黎を拾って世話してくれそうな誰かを探す気力なんて、どこにもなかった。昨晩灯真が言っていた、なにかあったら気になる、という言葉を思いだす。もしも自分が外で眠って、そのまま目覚めなかったら、あのひとは、気にするんだろうか。まだ昨日今日と世話してもらった礼すらしていないのに、恩を仇で返すことになってしまうのだろうか。……それは、あのひとに申し訳ない。
黎はくちびるの内側を嚙み、廊下のドアと、テーブルの鍵を交互に見た。それからのたのたとソファへ向かう。あのひとが寝ていてもいいと言ったから、と自分に言い訳をしながら、ソファにそっと体を横たえた。灯真の貸してくれた毛布にふたたびくるまる。
昨晩たくさん寝たはずなのに、なぜかまだ眠くてしかたなかった。横になった途端、ふわりとあくびがこぼれる。
なにもしたくない。なにも考えたくない。あの鍵にさわるのはおそろしいし、鍵をかけずに出ていったら、この家が知らない誰かのものになってしまうかもしれない。それはだめだ。だから、灯真が帰ってくるまでいないといけない。
黎はとろとろと瞬きしながら、つけっぱなしになっているテレビの画面を眺める。知らないひとたちが楽しそうに会話している声が絶えずリビングに響いていた。ときおりどっと笑い声が上がり、そのたび黎はもぞもぞとつまさきをこすりあわせる。ここには黎以外誰もいないはずなのに、知らないひとたちに囲まれているみたいだ。自分はその中で透明になっている。耳を塞ぎ、鼻まで毛布で覆いかくすと、灯真の毛布のにおいにくるまれたような気分になった。口の中にほのかな苦味が残っている。コーヒーを飲んだのも、あんなできたての朝食を食べたのも、ずいぶんと久しぶりのことだった。
オリジナル小説は初めての作品です。
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