1-5
キッチンから流水音が聞こえてくる。しっかりと腹が満たされたからか、なんともいえない眠気に包まれていた。もれそうになったあくびをなんとかこらえる。ソファの足元にはさらりとした肌ざわりのラグが敷かれていた。眠気覚ましも兼ねて足の裏をそうっとすべらせ、その質感を確かめる。何度か往復したころに、流水音がぴたりと止まった。控えめな足音が近づいてきて、黎はそちらに顔を向ける。
「腹いっぱいになった?」
男は黎に訊きながら、流れるように黎の足元のラグへと座った。予想外のことに反応が遅れる。なぜそこに座るのか。なぜソファには座らなかったのか。自分はこのままここに座っていていいのか。家主であるこのひとを見下ろしていていいのか。頭の中で一気に疑問がふくれあがる。男は気遣わしげに黎を見ていた。あの質問の答えを求められているのだ。黎はそれを察し、ひとまずぎこちなく首肯した。黎がうなずいたのを見て、男が頬をゆるませる。
「おまえ、この先どっか行くあてあるの?」
黎がどうするべきかわからずもたついているあいだに、男は次の質問をしてきた。いよいよ動くタイミングを失ってしまい、黎はできるだけソファの隅に体を寄せる。この質問にも返事をしないといけない。けれど、行くあてなんてどこにもない。そんなもの、どこにも。返事できずにいると、男はなにかを察したらしい。男の眉尻がまたゆるやかに下がった。
「行くとこないなら、ここにいれば?」
おいで、と黎を呼んだのと同じ声音で男が言う。黎は静かに息を詰め、男の様子をうかがった。それはつまり、このままここで飼ってくれるということなのだろうか。それならば、対価を渡さなければ。黎は笑顔を作ろうと試みる。けれど顔はこわばったようにうまく動かず、笑うどころか口角を上げることすらできなかった。黎は表情を作るのをあきらめ、男から目線を外したまま小さく息を吸う。
「……なに、してほしい?」
しばらくまともに話していなかったからか、自分でもいまいち聞きとれないくらい声がかすれていた。そのせいか、男が「ん?」と首をかしげる。黎はあらためて息を吸いなおし、喉の奥から声を絞りだした。
「……おれは、なにをすればいいの」
「なにを?」
さっきよりもまともな声を出せたからか、今度こそ男に伝わったらしい。男は黎の言葉をなぞりながら、ぱちくりと目を丸くした。一拍遅れ、男が緩慢に頭を振る。
「そんなこと聞かれてもな。別に、なんもないっていうか、なんもしなくていいけど……」
心底不思議そうな声音で言われ、今度は黎が瞠目してしまった。なにもしなくていい、とは、どういうことだろう。黎が驚いているのが解せないのか、男が腕を組み、首をかしげる。
「え、だって俺、なんかしてほしくておまえのこと連れてきたわけじゃないし。してほしいこととか、なんにもないよ」
重ねて否定され、黎の心臓が途端に早鐘を打つ。焦りからか、さっきまで固まっていた口角が勝手にひきつったのが自分でもわかった。
「なにか、ないの。してほしいこと。俺、なんでもするよ」
「いや、そう言われても……ないもんはないし……」
黎の勢いにけおされたのか、男が少しだけのけぞる。その困惑した表情を見るかぎり、ほんとうになにも求めていないのだろう。それなのにこの男は、黎をこの家に連れてきて、風呂に入れ、食事まで食べさせてくれたのだ。しかも、このままここにいればとまで言っている。黎には、なにも求めていないのに。
黎は急に、目の前のこの男がおそろしくなってしまった。理解ができない。なぜ対価を求めてくれないのか。してほしいことを言ってもらえなければ、なにをすればいいかわからない。対価が渡せない。なにもできないのに、なにも渡せないのに、誰かの世話になるなんて、そんなのは、知らない。それならここにいてはいけない。いていい理由がない。
「……おれ、いいです。かえります」
「どこに?」
逃げだすように腰を浮かせかけたが、すかさず男に問われ、黎の体は固まってしまった。半端な姿勢で止まっている黎を見て、男が苦笑する。
「とりあえず、座ったら?」
組んだ腕をほどいた男が黎にうながす。そう言われてしまったら、それを断る勇気なんてない。結局黎はすごすごと座りなおすしかなかった。
「で、結局どっか行くところか、帰るところはあんの?」
あらためてはっきりと訊かれてしまい、黎は今度こそ観念するように首を小さく横に振った。それを見た男が「ふうん」と息を吐く。
「行くあてあるならおまえの好きにしたらいいと思うよ。けど、ないのにこんな時間に外出ていって、おまえになんかあったら、寝覚め悪いじゃん。気になるよ、やっぱ」
男が苦笑まじりに言う。黎自身は夜に外で眠ることにも慣れているし、いまさらなにかあるとは思えないが、仮になにかあったところで、なぜそれをこの男が気にするのだろう。この男の言動がまったく理解できない。
「でも、おれは」
「おまえ、なんて名前なの?」
おれはここにいちゃいけないから。そう言おうとしたのに遮られてしまい、黎は息を呑みこんだ。男は黎の動揺を気に留めた様子もなく、なにやらスマホを操作しはじめる。
「俺はね、久我灯真って言います。久しぶりに、我慢の我、で、久我。灯台の灯に、真ん中の真で、灯真」
男は目元に皺を寄せ、黎にスマホの画面を向ける。そこには男の——灯真の名前が打ちこまれていた。
「おまえは? 名前、なんていうの?」
人好きのしそうな笑みを浮かべた灯真が、再度黎に名を尋ねる。どうして今、名前を知りたがっているのかもよくわからなかった。もしかしてほんとうに、飼い主になってくれるつもりなんだろうか。だから名前を訊いているんだろうか。だとすれば、どうしてなにも求めてくれないのか。あるいは、この質問に答えることが対価のひとつなんだろうか。こんな、名前を答えるだけのことが? 黎はどうするべきなのかしばらく考えこんだあと、おずおずと口をひらいた。
「……黎」
黎が正直に名前を告げると、灯真の表情がいっそうほころんだ。なぜ、と黎はわずかに目を見ひらく。
「レイね。覚えた。どんな漢字書くの?」
屈託なく漢字を訊かれ、黎はくちびるの内側を嚙む。訊かれても答えられない。自分の漢字は難しくて、黎自身正しく書けないから。黙りこんでいると、灯真の眉尻がゆるやかに下がった。その表情から灯真を困らせてしまっていることに気づき、くちびるを嚙む力が強くなる。
「ちなみに、レイはいくつなの?」
黎が答えられずにいるのを見かねたのか、灯真が質問を変えてきた。正直に答えるべきか迷い、目線が揺れる。
これまでの自分なら、新しい飼い主に同じことを訊かれたとき、「いくつに見える?」などと言ってごまかしていた。今回も同じようにすればいい。頭の片隅でそう思ったものの、なぜか灯真相手にそういうごまかし方をするのがためらわれてしまった。そもそもこのひとは、暗がりにいたにもかかわらず黎がまだ若いことに気づいているのだ。それならよけいに、ごまかしたところで意味はないだろう。黎はぎゅっと手を握りしめ、くちびるを薄くひらいた。
「……十九、歳」
正直に言うと、途端に灯真が「げ」と表情をくもらせた。
「十九って、ひとまわり下じゃねえか。こどもじゃん。……いや、今って十八歳超えてたら成人扱いなんだっけ? いや、どっちにしろこどもには変わりねえか。まいったな」
灯真はひとりごとのようにつぶやいたあと、小さなため息とともに後頭部を掻いた。やはり白状するべきではなかったのかもしれない。黎が体を縮こまらせていると、灯真が悩ましそうなうなり声をもらした。
「えー……やっぱ、警察連れていくか」
「や、やだ」
灯真の口から、警察、という言葉が出た瞬間、黎の全身からさっと血の気が引いた。思わず拒絶してしまったせいで、灯真が怪訝なまなざしを向けてくる。
「警察、嫌なの?」
さっきまでよりも少しだけ低くなった声で訊かれ、黎はためらうことなくうなずいた。警察はだめだ。連れていかれるわけにはいかない。そんなことをすれば、母、が。
警察に連れていかれるくらいならなりふりかまわずここから逃げだすことも覚悟しながら灯真の様子をじっとうかがっていると、灯真がため息のなりそこないのような息をこぼした。
「嫌って言われてもな……なんか悪いことしたの? おまえ」
あからさまに訝られ、黎は勢いよく頭を振って否定した。黎自身はなにもしていない。だから嘘はついていない。黎の反応を見て、灯真が今度こそため息をついた。
「それなのに警察行くのは嫌なのか?」
今度は必死に何度もうなずく。灯真は疑っているのを隠すことなく黎を眺めまわしていた。体中から冷や汗が噴きだしている。どうか見逃してほしい。それがむりなら、ここから出ていかせてほしい。祈るような思いで灯真の次の言葉を待つ。灯真はたっぶりと沈黙したあと、さっきよりも大きなため息をこぼし、腕を組んだ。
「ちなみにさあ」
硬い声で話しかけられ、黎はそろりと灯真を見る。
「帰るところねえって言ってたけど、家出ではないのか? 親は、おまえがいないこと知ってるのか?」
親、という言葉に、黎の心臓が大きく跳ねた。黎がいないことなんて、知っているはずがない。だって、先に、いなくなったのは。黎は顔を歪め、今度は口をひらいて答えた。
「いない、から」
絞りだすようにそれだけ言うと、灯真の片眉がぴくりと動いたのがわかった。重苦しい沈黙がふたりのあいだに流れる。黎はおちつかない気持ちを紛らわすように目線をさまよわせながら、灯真の口が動くのをじっと待った。長い長い沈黙のあとで、灯真が息を吐く。
「……おまえは、悪いことしたわけでもねえけど警察行くのは嫌で、行くとこも帰るところもねえ。あってるか?」
灯真が、ひとつひとつの言葉をはっきりと音にする。黎は小さくうなずきながらも、親についてはなにも言及されなかったことにわずかな安堵を感じていた。黎の首肯を確かめた灯真の眉が寄る。けれど灯真はそれきりなにも言わず、また口をつぐんでしまった。
「……レイ」
長い沈黙のあとで急に呼ばれ、黎の肩が跳ねる。それを見たからか、灯真が険しかった表情をふっとほどいた。
「行くとこないなら、ここにいていいよ」
穏やかな声音で先ほどと同じことを言われ、黎ははっと灯真を見る。
「いたくなかったら、それでもいい。ここにいてもいいし、どっか行ってもいい。おまえのしたいようにすればいいよ。でも、出ていくなら朝になってからにしな。夜は寒いから」
そう言って、灯真はやわらかく瞳を細めた。黎は返事もせず、緩慢に瞬きしながら灯真を見る。
これは、つまり、黎を飼ってくれるということでいいのだろうか。灯真の発言の意図を汲みとれない。したいようにすればいいと言われても、どうしていいか黎にはさっぱりわからなかった。したいことなんて、これまで考えたことすらないのだから。
黎は目線を落とし、さっきの灯真の話を頭の中でなんとか整理する。とりあえず今夜は、ここで眠っていいらしい。それならやはり、対価を渡さなければ。眉を寄せ、灯真を見る。目が合ったからか、灯真が「ん?」と小首をかしげた。
「ここで、寝ていいの?」
「いいよ。もちろん」
「……おれはそのかわり、なにしたらいいの」
「いや、だから、なんもしなくていいって、なんかの見返りを求めて連れてきたわけじゃないし」
すがるような思いで訊いたにもかかわらず、灯真は苦笑しながらあっさりと答えた。これ以上訊いたとしても、なにも言ってくれそうにない。黎は困りはて、くちびるの内側に歯を立てた。
なにもしなくていい、なんて、そんなことがあるはずない。だってこれまでの飼い主たちは、みんな黎を世話する見返りを求めてきた。実際になにもしなくていいと言われたことはあるけれど、彼ら彼女らの言う、なにも、の中にセックスは含まれていなかったのだろう。みんな対価として黎の体を、恋人の代わりとしての奉仕を求めてきたのだから。
けれど、と黎は灯真を盗みみる。このひとは、たぶん、ほんとうにそういう奉仕を求めていない。黎を見る視線は最初からずっと乾いたままだ。これまでの飼い主たちのじっとりとしたものとは明らかに違う。
だとすると、じゃあ、本気で見返りを求めずに黎に風呂と食事を与え、ここにいていいと言っているということなのか? 黎の理解の範疇を超えている。このひとがなにを考えているのか、ちっともわからない。だから、こわい。それならいっそ、好き勝手してくれたほうがわかりやすくていいのに。
「ま、そういうことだ」
灯真は話は終わったと言わんばかりに立ちあがり、寝室と思しきドアの向こうへ行ってしまった。広いリビングにひとり取りのこされてしまい、右手で左の肘をつかむ。灯真は少しもしないうちに、毛布を抱えて戻ってきた。
「悪いけど、うち、客用布団みたいなのないんだよね。だからこれ使って、ソファで寝て。寒いかもしんねえけど、エアコンはちゃんとつけとくから。俺、あっちの部屋で寝てるし、なんかあったら起こして」
灯真は黎の反応を待たずに言うだけ言って、黎に毛布を渡してきた。そのままくしゃりと頭を撫でられる。またも予期せぬ灯真の動きに、黎は思わず息を詰めた。
「まあ、とりあえず今日はこのまま寝て、あとのことは明日考えればいいんじゃねえ? 俺も眠たいし。おやすみ。電気、消しちゃうね」
ほんとうに眠かったのだろう。灯真はあくびまじりに言ったあと、ひらりと手を振り、リビングの電気を消して寝室へと行ってしまった。黎は毛布を抱えたまま、呆然と寝室のドアを見つめる。このまま別々の部屋で眠るということは、つまり、セックスをしないということだ。そんなことがあるのか、と黎は何度も目をしばたたかせる。家に連れてきて、風呂に入れて、食事を与え、眠る場所まで用意してくれたというのに、なにひとつ対価を求めないなんて、そんなことが。
黎は視線を廊下へつながるドアへと移す。あの先に、玄関がある。今なら灯真の言いつけを破ってここを出ていったとしても、きっとつかまらない。飼い主の家から自ら逃げだすなんてしたことないけれど、ここは、こわい。今までの経験がなにひとつ通用しないのが、おそろしくてしかたない。ごくりと唾を飲んだ音が鼓膜に響く。
黎はしばらく廊下のほうを見つめていたけれど、ふっと視線を外した。ここまでしてもらったのになにも対価を渡さず逃げるなんて、そんなのは灯真に失礼だ、と思いなおした。ひとまず今夜はここにいるしかない、とこわばっていた体をゆるませる。
しんと静まりかえった部屋の中で、黎は抱えている毛布に目線を落とした。ふかふかとしたやわらかな毛布だった。服越しでもほんのりとあたたかい。こんないいものを、ひとりで使ってもいいのだろうか。理解できない灯真の厚意になにひとつ返せていないことが心苦しい。だからといってこの状況で黎にできることなんて、なにもなかった。
黎はおとなしく、灯真に言われたとおりソファに体を横たえる。黎の体格に対してソファは小さく、体を丸めてもつまさきが肘置きに当たって狭かった。それでも、横になれているだけありがたい。毛布にくるまり、ずっと詰めていた息をようやくすべて吐きだす。今度はそっと息を吸うと、知らないにおいが鼻先にふれた。どうやら毛布から香っているらしい。あのひとの、灯真のにおいだろうか。黎は鼻まですっぽりと毛布で覆ってみる。鼻で息をすると、さっきよりも濃くにおいを感じた。香水のような人工的なものではない。知らないにおいだけれど、どこか心がおちつく気のするものだった。目をつむり、ゆっくりと鼻で呼吸を続ける。そうしているうちに、疲労もあいまってすぐにとろとろとまどろんでしまい、気がつけばふっと意識が途切れていた。
オリジナル小説は初めての作品です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
感想・コメントなどいただけると励みになります。




