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風呂から出た黎が部屋に戻ると、キッチンにいた男がこちらを見て目を丸くした。
「はやかったな。もっと入っててもよかったのに」
苦笑まじりに言われ、黎はくちびるの内側をそっと嚙んだ。男の言っていた、ゆっくり入る、の正解がわからず、自分で思うよりは長めに浸かったつもりだったが、どうやらまだ足りていなかったらしい。男はエプロンを外し、ワークトップにぽんと置いた。ワイシャツの袖が肘までまくられている。料理をしていたのか、部屋の中には食べ物のにおいがふわりとただよっていた。
「俺も風呂入ってくるわ」
手を洗いながら、男が砕けた雰囲気で声をかけてくる。返事を求められているのかわからず、黎は曖昧に顎を引いた。男は気にする様子もなく、先ほどと同じ奥の部屋へと引っこむ。ここにはベッドや布団が見当たらないから、あの部屋が寝室なのだろう。少しもしないうちに部屋から出てきた男の手には、着替えの他に、財布とスマホが握られていた。
「貴重品は持っていくけど、おまえのこと疑ってるとかじゃないから。置きっぱなしにしておいたら、斎に怒られそうだし。風呂終わったら、一緒にメシ食おう。それまで、適当にそのへん座ってて」
男はなぜか申し訳なさそうにそう言って、黎の横を通り、廊下へと出ていってしまった。ひとり残された黎は、部屋をくるりと見まわす。適当に、と言われても、どこに座るのが正解なのかわからない。考える気力も湧かず、黎はリビングの隅にそっと腰を下ろした。ジャージ越しに床の冷たさが伝わってくる。けれど暖房がついているのか、部屋の中はあたたかった。
広い部屋だ。どこを見ていいかわからない。黎は膝を抱えた腕に額をくっつけ、体を丸めた。濡れた髪が頬に張りつく。男に借りたスウェットを濡らしてしまうのが気になって、ぐいと袖をまくりあげた。
あらためて体を小さくし、静かな部屋の中で、できるだけ息をひそめる。そのまま目をつむり、じっと耳をすませて男が戻るのを待った。
ほどなくして、廊下のほうからかすかな物音が聞こえてきた。意識が一気にそちらへ向く。控えめな足音が近づいてきたあと、ドアがひらいた音がした。「え?」と男の困惑した声が聞こえる。さっきよりもあわただしい足音がこちらに近づいてきたのがわかり、黎はそろりと頭を上げた。男が黎を見て、ぎょっとしたような表情になる。
「なんでそんなとこいんの」
開口一番に言われ、黎は自分が間違えたことを察した。ごめんなさい、と言うよりもはやく、男が言葉を続ける。
「そんな、床座ってたら寒いだろ。せっかく風呂であったまったのに、もったいねえよ。そんなとこじゃなくて、こっち座ってたら?」
男は微苦笑しながらそう言って、食卓の椅子を指さした。どうやら、椅子に座っているのが正解だったらしい。黎は男の言葉に従い、椅子に座る。男はそれを見て、どこか満足そうにうなずいた。
「待ってて、今メシ用意するから」
男はエプロンをつけなおし、キッチンで作業を始めた。手際よく動く男によって、ダイニングテーブルにふたりぶんの食器が並べられていく。白米の盛られた茶碗と、味噌汁のお椀。肉や野菜が使われたいくつかのおかずは、それぞれのぶんにあらかじめ分けられていた。
「これ、斎が作ったおかず。さっきくれたやつ」
男はおかずの皿を指す。あのビニール袋の中身か、と黎は気がついた。
「あいつ、メシ屋の店長やってんだよ。だからあいつの作るメシ、すげえうまいよ」
どこか自慢げな声音で言い、男が歯をのぞかせる。男自身のことではないはずなのになぜそんなに嬉しそうなのかわからず、黎は目を瞬かせた。男は皿を並べおえたあと、お茶の入ったコップと、最後に箸置きと箸を置き、エプロンを外した。そのまま、黎の向かいの椅子に座る。
「いただきます」
男は丁寧に手を合わせ、挨拶をしてから食べはじめた。黎は膝の上で両手を握りしめたまま、自分の前に並べられた皿をじっと見つめる。白米の茶碗からも、汁椀からも、まだ湯気が立っていた。見ただけであたたかいのがわかる。手作りの食事だ。あたたかい食事も、手作りの食事も、ずいぶんと久しぶりだった。前の飼い主のところでは長いあいだずっと、コンビニの弁当やおにぎりを、冷たいまま食べるのが当たり前だったから。
「いらなかったら、置いといても大丈夫だよ。明日の朝俺が食うから」
箸を持とうとすらしない黎を見かねたのか、男が淡々と言った。黎はその言葉ではっと我に帰る。せっかく用意してもらったのに、食べようとしないなんて失礼だ。黎はそろりと箸を持ち、白米をひとくち食べる。次は味噌汁、次はおかずと順に食べているうちに、体が空腹を思いだしたらしい。箸が止まらなくなり、黎は黙々と食べすすめた。
「うまいだろ」
男がにっと歯を見せて笑う。肯定するのが正解だと思ったけれど体がうまく動かず、結局わずかに顎を引いただけで終わってしまった。おいしいのだろうとは思う。けれど、味の良し悪しはあまりよくわからなかった。もうずっと昔からそうだ。腹を満たせるならなんでもよかったから、味について考えたことはほとんどない。いつもは気にもしていないのに、今はそれが、申し訳ないと思った。男は黎の反応を咎めることもなく、いつのまにか食事を再開していた。
遅れて食べはじめたからか、黎よりも先に男のほうが食べおわったらしい。男が箸を置く。しかし席は立たず、そのままのんびりとテーブルに頬杖をついた。どうやらこちらを見ているらしい。視線を感じる。急かされているのかもしれない、と思い食べるペースをあげると、男がふはりと笑った。
「そんな急がなくても。ゆっくり食べな」
そう言って、男がくつくつと喉を鳴らす。ゆっくり、という言葉に、黎は箸を持ったまま目を丸くしてしまった。よくわからないが、このひとはこちらが食べおわるのを待っているのだろう。それならはやく食べないといけないのに。なぜ、と黎は思う。このひとがなにを考えているのか、理解できない。ひとまず男の言葉に従うことにした黎は、気まずさを感じながらも、最初と同じペースで最後まで食べすすめた。
黎が最後のひとくちを食べおえたのを見てから、男は頬杖をほどき、手を合わせた。
「ごちそうさま」
男は丁寧な所作で挨拶をしたあと、ようやく立ちあがった。黎が男の様子をうかがっているあいだに、ふたりぶんの食器をまとめて下げていく。
「洗い物するから、ソファにでも座ってて」
男は穏やかな声音で言ったあと、シンクで洗い物を始めた。黎は男に言われたとおり、ソファに移動する。家主が立っているのに自分はソファに座るという状況に居心地の悪さを覚え、黎はできるかぎり体を縮こまらせた。
オリジナル小説は初めての作品です。
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