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1-3

 塗りつぶしたような夜空の下、前を歩く男の背中をふらふらと追いつづける。空腹と寒さに耐えかね、呼ばれるままについてきたものの、この選択が正解だったのか、どんどんわからなくなっていた。自分から探さなくても次の飼い主が見つかったと思えればいいのに、なにか間違えている気がしてしかたない。だからといっていまさら逃げだす勇気もなく、黎はただひたすらに目の前の男を追って歩いていた。

 イツキのマンションを出てからしばらく歩いたあと、男がさっきとは別のマンションのエントランスへと入っていった。黎もそのうしろをついていく。今度は階段を上がり、静かな廊下を抜けた先の角部屋で、男が足を止めた。数歩の距離をあけ、黎も立ちどまる。


「おいで」


 鞄から鍵を取りだした男が、こちらを見て黎を手招く。そのはずみで、ビニール袋ががさりと揺れた。どうやら今度こそ、この男の家に着いたらしい。呼ばれたから、と自分に言いきかせるように、家の中へそうっと足を踏みいれた。背後でドアが閉まった音がして、小さく肩が跳ねる。


「寒かっただろ。上がりな」


 先に靴を脱いだ男が、上がり框から黎に笑いかけてくる。右頬にえくぼがあるのが見えた。黎は小さくうなずいてから、サンダルを脱ぐ。冷えきったフローリングが足の裏に直接当たり、思わず身震いしてしまった。それを見ていた男にふっと苦笑され、黎は気まずさから目を逸らす。


「風呂沸かすから、先に入ってあったまってこいよ」


 さも当然というような軽い声音で言われ、黎はわずかに目を丸くする。なにか食べさせてもらえるかもとは思っていたが、風呂までは考えていなかった。大丈夫、と断る隙も与えてくれず、男が続ける。


「身長変わんないし、服は俺の着られるだろ。風呂入る前に持っていって。悪いけど新品未開封のパンツなんてないから、今穿いてるやつそのまま穿くか、俺の洗濯済みのやつ穿くかして。それも一緒に渡すよ。今着てる服は洗濯するし、かごの中入れておいて。明日の朝には乾いてるから。シャンプーとかボディーソープとかは、見ればわかると思うよ。まあ、なんか困ったことあったら呼んでくれればいいから。ちゃんとあったまるまで、ゆっくりしておいで」


 男はてきぱきと風呂の準備をしながらも、矢継ぎ早に黎へ指示を出していく。一気に言われすぎて理解が追いつかない。上がり框に立ちつくしたまま呆気に取られていると、男が黎を見て眉尻を下げた。


「あ、ごめん、そんなところ立たせっぱなしで。もうすぐ風呂沸くし、用意してるあいだ部屋入ってな。おいで」


 そう言って、男が廊下の先へと進んだ。黎は男のペースに呑まれるまま、その後ろ姿についていく。ドアの先には広々とした部屋があった。男は黎を招くだけ招いて、部屋の奥にあるもうひとつのドアの向こうへ消えていった。見知らぬ部屋の入り口にひとり取りのこされ、黎はうろうろと目を泳がせる。

 部屋を入ってすぐのところにキッチンがあり、その隣にはふたりがけのテーブルが置かれていた。部屋の奥にはテレビと、ソファと、ローテーブル。物が少なく、こざっぱりとした部屋だった。ごみはどこにも落ちていないし、ひとの気配も他にない。……今度は、ここで飼われるのだろうか。ぼうっと考えているうちに、男が部屋に戻ってきた。入り口にいる黎を見て、また困り眉になる。


「はい、これ。着替えとタオルね。気にせずゆっくり入っていいからな」


 男が黎に、きちんとたたまれた服とタオルを手渡す。それとほとんど同時に、どこかから『お風呂が沸きました』という機械音声が聞こえてきた。急な音に黎の指先が揺れる。服の下に隠れていたから、どうやら男は気づかなかったらしい。男は目元に皺を寄せ、黎の二の腕をぽんと叩いた。それにも驚いてしまい、黎は静かに息を呑む。


「風呂沸いたから、行っておいで」


 男は柔和にほほえんだまま、そううながしてきた。黎はなんとかうなずき、男に案内されるまま浴室へと向かう。脱衣所のドアが閉まってから、黎はずっと詰めていた息をようやく吐きだした。両手に持たされた服とタオルを見て、わずかに眉を寄せる。

 風呂に入って、これに着替えて、今着ている服は洗濯すると言っていた。ということは、少なくとも今夜はここに泊めてもらえるということで、いいのだろうか。あのまま路地裏でうずくまっているよりはよかったのかもしれないが……まだ体が冷えているせいか、空腹のせいか、思考がうまくまとまらない。

 黎はくちびるを結び、男に渡された服を洗面台のふちに置いた。言われたとおりに脱いだ服をかごに入れ、浴室に入り、全身を洗い、湯船に浸かる。自分で思っていた以上に体が冷えきっていたらしく、あたたかな湯に浸かると小さな息がこぼれおちた。浴槽の中で膝を抱え、もうもうと立ちこめる湯気をぼんやりと見つめる。

 あのひとが次の飼い主になるんだろうか。なにも言われなかったけれど、体の準備は必要なんだろうか。あのひとはなにをしてほしいんだろうか。ゆっくり入るって、どれくらいのことを指すんだろうか。なにもわからない。考えたくない。ぜんぶ決めてほしい。これからのことも、ぜんぶ。

 水面からはみだしている膝に、そっと顎を乗せる。かすかに揺れる水の音が浴室を満たしていく。

 あのひとはどうして、自分をここに連れてきたんだろう。

 おいで、と自分を呼ぶ声がやけに耳に残っていて、黎はてのひらでぐいと耳をぬぐった。


オリジナル小説は初めての作品です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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