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男の数メートル後ろをついて歩いていると、静かな夜道に突如電子音が響いた。どうやら男のスマホから鳴っているらしい。男がコートのポケットからスマホを取りだしたあと、「あ」と小さくつぶやいたのが聞こえた。
「やべ、ごめん、忘れてた、ごめんって」
男は電話に出るなり、しどろもどろで謝りはじめた。どうすればいいかわからず、居心地の悪さを覚える。男はしばらく話したあとで電話を切り、そっとため息をついた。スマホをポケットにしまうのと同時に、こちらを振りかえる。
「悪い。ちょっと寄るとこあるから、ついてきて」
そう言って、男はまたどこかへと歩きはじめた。男の言葉に従い、黙ってその背中を追っていると、男はマンションのエントランスへ迷いなく入っていった。置いていかれないよう、足早に男へついていく。
小さなエレベーターに同乗したとき、初めて男の目線が自分とあまり変わらないことに気がついた。若そうなひとだな、と思う。整髪剤で整えられた髪も、質の良さそうなコートも、蛍光灯のあかりを受けて艶めいている鞄も、なにもかも自分とは遠い世界のひとのように見えた。
男はマンションの一室の前で足を止め、ドアチャイムを鳴らした。けれど誰も応答しない。廊下に沈黙が広がる。男はもう一度ドアチャイムを押したが、やはり誰も出てこないし返事もなかった。黎は男から数歩離れたところで、おちつきなく肩を揺らす男をぼうっと見る。ここが、彼の寄るところだったのだろうか。焦れたのか男がドアチャイムを連打したけれど、ドアの向こうは黎でもわかるくらいに静かだった。
「もー、出てこねえじゃん……」
がしがしとうなじのあたりを掻いた男が不服そうにつぶやく。それから鞄を探り、中からなにかを取りだしたようだった。それがなにか黎が理解するよりも先に、がちゃんという金属音が廊下に響く。どうやら玄関を開錠したらしい。
「すぐ終わるから……」
なにかを言いかけた男が、こちらを見て眉をひそめる。
「もしかして、寒い?」
うかがうように訊かれ、黎は思わず目線を落とした。薄く擦りきれたスウェットだけでは冬の夜気をしのげず、体はかすかに震えつづけている。けれど、自分の寒さはこの男になにか関係があるのだろうか。よくわからず黙っていると、男が小さく息を吐いた。
「……しかたねえ。おいで」
男はそう言って、玄関へと入っていった。男が入っても、ドアは閉まらない。まるで黎が入るのを待っているかのようだった。呆然とドアを見つめていると、男がひょこりと顔だけをのぞかせる。
「おいで、大丈夫だから。寒いだろ」
男が困ったように眉を下げる。呼ばれているのだから従わなければ、と黎も玄関に足を踏みいれた。三和土に男がふたり立っているから狭さを感じる。邪魔にならないよう、体を隅に寄せた。
「斎、いーつきー!」
唐突に、男が家の中へ向かって声を張りあげる。その大きな声に驚いてしまい、黎の肩がびくりと揺れた。しかし男は背を向けているから気づかないらしく、なおも誰かを呼んでいる。少しもしないうちに、家の中から物音が聞こえてきた。
「なんなんだよさっきから。勝手に上がればいいじゃん」
廊下のドアがひらき、文句を言いながら男が出てきた。イツキと呼ばれた男は不服そうに男を見たあと、黎を視界に入れて怪訝な顔をした。
「誰? そいつ」
顎を上げたイツキからあからさまに訝られ、黎は目を泳がせながら右手で左の肘をつかんだ。黎を連れてきた男が黎を見て、「誰……」と声をもらす。男はせわしなく目をしばたたかせて黎を眺めたあと、イツキと呼ばれた男へ顔を戻した。そのままゆっくりと首をかしげる。
「なんか、行くとこないらしくて、拾った……?」
「拾った⁉︎」
男の説明を聞いたイツキが、呆れているのを隠すことなく声を上げる。その大声にも驚いてしまい、黎は肘をつかむ手にぎゅっと力をこめた。イツキがあんぐりと口をあけ、男と黎を何度も見比べる。
「いや、拾ったって……なにそれ、おまえ、大丈夫なのかよ。よくわかんねえけど、誘拐とか、事件性あるやつじゃないよな?」
イツキは言いながら、胡乱なまなざしを黎に向けた。イツキの話を聞き、男がはっと息を呑んだ音が聞こえる。
「え、ど、どうしよう。誘拐って、そんなつもりじゃなかったんだけど」
「どうしようって、おまえさあ……」
あからさまにうろたえている男を見て、イツキは大きくため息をついた。
「そんなこと言われても。俺もわかんねえよ。どうすんの。拾ってどうするつもりだったんだよ」
イツキは男に向かって話しながらも、視界の端では自分を捉えているのが伝わってきて、黎はできるだけ体を縮こまらせた。男はちらりと黎を見たあと、首をすぼめる。
「いや、なんか、腹減ってるみたいだし、メシ食わそうかなって思って……」
ぼそぼそとばつが悪そうに男がうちあけたのを聞いて、イツキがふっと苦笑した。
「なんだそれ。そんで、俺とメシ食う約束忘れてた、と」
「ごめん……」
「しかも、どこの誰かもわかんないやつを人の家の中に勝手に入れたのか。どうすんだよ、こいつが強盗とかだったら」
「ご、ごめんってば……」
イツキが腕を組み、男を詰める。男はうなだれているから見えていないのかもしれないが、その表情はまだ呆れているものの、さっきまでよりもずいぶんとやわらかくなっていた。けれどちらりと黎を見た視線は鋭いままで、黎はますます体をこわばらせる。
イツキは大げさなため息をこぼしたあと、「待ってろ」と言いのこして部屋へ戻っていった。途端に玄関が静かになる。男は怒られたからか、しゅんと肩を落としていた。黎はどうしていいかわからず、足元へ目線を下げる。視線の先では、サンダルから覗くつまさきが真っ赤になっていた。
さっきのイツキとこの男の会話が脳内で勝手にリフレインしている。ここで食事をする約束をしていたのなら、電話が来た時点で黎を置いてくればよかったはずだ。それなのに、どうして黎をここまで連れてきたのだろう。この男の考えていることがわからない。ここでなにか悪いことをするつもりはないが、イツキから歓迎されていないことはひしひしと伝わってくる。そのせいでこの男まで怒られているのが申し訳なかった。だからといって、勝手にここから出ていけるような雰囲気でもなくて、黎は気まずい三和土の隅で肘をつかみつづけた。
互いに会話もないまましばらく立ちつくしていると、廊下のドアがひらき、イツキが戻ってきた。その片手にはビニール袋が下げられている。
「もう今日は帰れ。メシはまたいつか。余るぶん持っていっていいから、そいつと食えよ」
イツキはぶっきらぼうに言いながら、男にビニール袋を渡した。男は袋の中を覗いたあと、イツキに視線を戻す。
「ありがと、ごめんな」
男が言うと、イツキは苦笑しつつ腕を組み、廊下の壁にもたれかかった。
「よくわかんねえけど、拾ったならおまえが面倒見ろよ。俺は知らん。巻きこむな」
イツキは渋い顔をして男に言う。けれど男を見るまなざしはやはりどことなくやわらかかった。男は小さくうなずき、「ありがとな」とイツキに向かって軽く手を上げた。そのまま帰るつもりなのか、男が踵を返し、黎と目が合う。それと同時に、イツキが男の背中に向かって「灯真」と声をかけた。どうやら男の名前らしく、男がふたたび振りかえってイツキを見る。
「なんかあったら、いつでも連絡しろよ」
イツキは言うだけ言ったあと、男に向かって追いだすように手を振った。「もう用事は済んだから、とっとと帰れ」とぶっきらぼうに言われたにもかかわらず、男がふわりと笑う。
「ありがとな、イツキ」
男がまた礼を言ったが、その声はさっきまでよりもずっとあどけないものだった。その声に、イツキも瞳を細める。たったそれだけでこのふたりの仲の良さがわかった。同時に自分の異物感が際立ったようにも思え、黎はふたりから目をそむける。
「帰ろうぜ。おいで」
男は黎に声をかけ、今度こそ玄関を出ていった。呼ばれるまま、黎も足を動かす。玄関を出る前にイツキを見ると、イツキの表情からは先ほどまでのやわらかさは消えていた。冷たい視線を向けられ、黎はほとんど反射で目を逸らす。その場から逃げるように男を追ったものの、ほんとうにこの背中についていっていいのか、なおさらわからなくなってしまった。自分さえいなければ、きっと今ごろ、彼らはふたりで夕食を食べていたのに。自分さえいなければ、この男が怒られることもなかったのに。腹の奥が疼くように痛い。頭の中では、彼らのやりとりとあの冷たいまなざしがぐるぐると渦巻いていた。
オリジナル小説は初めての作品です。
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