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いったい今は何時なんだろう。駅前の路地裏。遠くにざわめきを聞きながら、黎は膝を抱える腕に力をこめる。
行くあてもなくここにしゃがみこんでから、どれくらいたったのか。気づけばあたりはすっかりと夜の闇に包まれていた。店の照明や街灯のあかりは、この路地裏まで届かない。知らないどこかの室外機にもたれるようにして、冷えた腕を服の上からさすった。
寒い。ほうと吐いた白い息が夜に溶けていく。くたびれたスウェットの下は鳥肌が立っていた。上着があったら、と黎は思う。暖房の効いた部屋から着の身着のままで追いだされたから、よけいに寒さが沁みるような気がした。彼氏ができたから出ていって、という声が耳の奥で鳴る。もう会うことのない飼い主——元、飼い主か。彼女が最後に見せた、なんの情も見えない表情を思いだし、くちびるの端がかすかに歪んだ。それでも、なにもできなくなった自分を長く飼ってくれたのだから、感謝しなければ。
焦点の合わない瞳でぼんやりと宙をなぞる。冬の夜は外で眠るのに適していないと、身をもって知っていた。……また、誰かに拾ってもらわなければ。そうは思うけれど、もう、全部面倒だった。動くのさえ面倒だ。このまま、朝を迎えることなく眠りつづけたい。どうでもいい。全部、どうでも。
黎は息を吐き、うなだれるように腕に額を押しつけた。視覚を遮断したからか、さっきよりも喧騒が際立って聞こえるような気がする。足音。話し声。車のエンジン音。もっと遠くからは電車の発着ベルがかすかに聞こえる。話し声。足音。足音。足音。足音が、ひとつ、だんだん近づいてきて。
「……うわっ! びっくりした!」
すぐそばで、男の低い声が聞こえた。路地裏の静けさにその声がわあんと響く。
「えっ、に、人間……? 生きてる……? 生きてますか……?」
どうやら自分に話しかけていると気づき、黎はのっそりと頭を上げた。前髪の隙間から、目の前に立つ男を見る。男は立ったまま上体を倒し、黎の様子をうかがっているようだった。知らないひとだ、と黎は無言のまま男を眺める。
「あの、大丈夫ですか? こんなところで……。体調とか、悪いんですか?」
男に尋ねられたが、黎は返事をしなかった。声を出す気力がない。体調だって悪くはなかった。寒さは感じるけれど、その程度だ。それよりも、ほうっておいてほしかった。今は誰とも話したくない。このまま眠ってしまいたい。
「もし体調悪いなら、病院とか、ついていきましょうか? それか、救急車呼びますか?」
男はほうっておいてくれないどころか、あからさまにうろたえながらさらに話しかけてきた。病院、という言葉に、指先が小さく揺れる。病院に行くお金も、保険証も持っていないのに、救急車なんて呼ばれてはいけない。黎は重たい頭をなんとか動かし、緩慢に首を振って断った。黎が反応を見せたからか、目の前の男がほっと息を吐く。見上げているのに疲れてきて、黎は目線を落とした。動く気配のない男の革靴とスーツの裾をぼうっと見つめる。
「えっと……家まで帰れそうですか?」
おそるおそる訊かれ、黎は思わず薄く笑ってしまった。そんなこと訊かれても、帰るところなんて、もうどこにもないのに。どうしてこのひとは自分に構ってくるのだろうか。ほうっておいてほしい。黎は抱えた膝に額をつけ、体を丸める。そうしてみても男はどこにも行かず、黎の前に立ったまま黙りこんでいるようだった。静かになった路地裏に、遠くの雑踏がかすかに響く。
しばらく黙っていた男が、「……あの」とふいに声をかけてきた。
「失礼かもしれませんが、もしかして、未成年、ですか……?」
突然の指摘に、黎の肩が勝手に跳ねた。なぜ、と思考が止まる。背が伸びてからは、初対面でこどもだと気づかれたことはなかったのに。
「え、まじ?」
返事はしていなかったのに、黎の反応を見て男は確信したらしい。気の抜けた声をもらしたあと、大きなため息をついた。心臓がどくどくと鳴っている。ほうっておいて。ほうっておいて。体をぎゅっと縮こまらせて願ってみたものの、男はどこへ行くこともなく黎の前にしゃがみこんでしまった。
「きみ、まじでこどもなの? こんな時間にこんなとこでなにしてんの」
男が呆れた口ぶりで言う。そんなこと言われたって、他にどうすればいいのかわからない。
「なに、もしかして家出? 今日帰るとこねえの?」
男は黎がこどもだと確信しているからか、最初よりもずいぶんと砕けた口調で話しかけてきた。帰るところなんてない。でも、このひとには関係ないはずだ。……昔の自分なら、にこやかに笑って「そうだよ」と肯定していただろう。「だから拾って」と続けられたかもしれない。でも、今は、もうできない。やり方がわからない。顔も、口も、うまく動いてくれない。
どうしていいかわからず、結果的に男の質問をすべて無視することになってしまった。男がまた口をつぐむ。けれど男は、立ち上がることもなければどこかへ行こうともしなかった。いっそ逃げてしまおうかと思ったが、男と外壁に挟まれるかたちになっているから身動きが取れず、黎は男が去ることを祈りながらひたすら膝を抱えつづけた。
「……なあ」
さっきよりも長い沈黙を破るように声をかけられ、黎の体がびくりと揺れた。
「きみさ、もうメシ食ったの? 腹減ってねえ?」
なにを言われるのかと身構えていたのに、脈絡のないことを訊かれ、黎は膝を抱えたままわずかに目を丸くする。
「今日寝るとこあんの? メシ食うあては? お金持ってんの?」
黎が黙ったままでいると、男が矢継ぎ早に質問を重ねてきた。なぜそんなことを訊かれているのかわからない。けれどその優しい声色からは、こちらを心配しているのが伝わってきた。悪意はどこにも感じられない。なんで、と黎は思う。なんで、なにも話していないのに、心配しているんだろう。ほうっておいてくれればそれでいいのに。いいはずなのに。
黎はかすかに息をもらしたあと、一度だけ首を横に振った。それだけで察したのだろう。男は「ふうん」と息を吐いたあと、また黙った。目の前にいる男のふるまいのすべてが理解できず、黎の心拍数が上がっていく。
「なあ、きみ」
こちらを呼びかける声には、どこか気安さすらにじんでいる気がした。黎はそろそろとおもてを上げ、前髪の隙間から男をうかがう。暗がりの中で、男はずいぶんとやわらかな苦笑を浮かべていた。
「俺、今から家帰るつもりなんだけど、一緒にメシ食うか? 食いたかったらついておいでよ」
男は言いながら、黎の頭をくしゃりと撫でた。あまりにも突然のことで、身構えることすらできなかった。男はそのまま何事もなかったかのように立ちあがり、路地の向こうへ歩いていく。黎はその場から動けずに、小さくなっていく男の背中をただじっと目で追った。
あの男に、ついていっていいのか。彼は自分を拾ってくれるんだろうか。彼が次の飼い主になるんだろうか。頭の中で疑問だけがぐるぐると巡っている。小さくなる背中から、目を、逸らせない。
男は少し歩いてから立ちどまり、顔だけ振りかえってこちらを見た。
「いらないなら、俺、このまま帰るよ」
軽い調子で声をかけられ、黎ははっと我に帰る。それと同時に、低い音で腹が鳴った。朝に少し食べたきりだから、腹が減っていた。それに、とにかく寒い。黎はまだ考えがまとまらないまま、ふらふらと立ちあがり、男のほうへと向かった。男はそれを見てふっと笑い、またどこかへ歩きはじめる。その背中を追いながらも、頭を撫でた彼のてのひらの感触がまだ残っているような気がしていた。
オリジナル小説は初めての作品です。
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