6-10
三年生になって、黎はふたたび学校へ行きはじめた。担任の先生が変わったと母が教えてくれたからだ。どんな先生だったかはあまり覚えていない。とにかくあの先生じゃなければ誰だってよかった。母は黎がまた学校へ行くことに対してなにも言わなかった。
けれど黎は、すぐにまた学校を休みがちになった。授業にまったくついていけなかったからだ。
他の子たちが二年生で習ってきたことを、黎はひとつも理解していなかった。黎が置いてけぼりになっていても、三年の先生は他の子たちに合わせて授業を進めた。それでも二年の先生のように、黎に合わせて授業を中断されるよりよっぽどよかった。
決定打となったのは、絵の具セットを買うように学校から言われたことだった。授業に必要だから、みんな買わないといけなかったらしい。チラシを配られ、黎は愕然とした。絵の具セットがとんでもなく高かったから。こんなものを買ってほしいなんて、母に言えるはずがなかった。
黎は母に絵の具セットのことを黙っていた。チラシは机の奥に隠した。先生に急かされてもわからないと言いつづけた。
そうしたら先生は、母に直接連絡してしまったらしい。母は仕事から帰ってくるなり目の吊りあがった真っ赤な顔で黎の頬を叩いた。母のそんな表情を見るのは、久しぶりだった。
「なんでさっさと言わないのよ。わたしのこと馬鹿にしてんの⁉︎」
母に怒鳴られ、黎は必死に首を横に振るしかできなかった。母を馬鹿にしたことなんて一度もなかった。黎はただ、こんなものを買ってもらうよりも、母が新しい服を買ったりするほうがいいと思っただけだった。
「もう学校行かないから、いらない」
泣きながらそう言うと、あんなに怒っていた母は一転して無表情になった。
「じゃあ買わなくていいね」
母に訊かれ、黎は何度もうなずいた。母が怒るくらいなら、お金を使わせるくらいなら、学校なんて行かなくてよかった。
そうして黎はその日からまた学校を休んだ。母はあの日怒っていたのが夢だったかのように、今までどおりに戻ってくれた。黎は母が仕事に行ったあとの静かな部屋で膝を抱えながら、これが正解だったんだと誇らしい気持ちになった。黎が正解したから、母は怒らなくなったんだと思っていた。
三年生の冬のころだった。母はその日スナックが休みだったのか、昼の仕事から帰ってきたあと床にぺたんと座ったまま動かなくなった。母の買ってきてくれた弁当を食べながら、母の様子がなんだかいつもと違うと感じていたのを覚えている。
母はしばらく無言で座りこんでいたあと、「ねえ」と黎を呼んだ。
「もう疲れちゃった。あんたの学校にかかるお金、払うのやめる。あんたももう学校行かないんでしょ。それでいいよね?」
黎はそれに対し、すぐさま「いいよ」とうなずいた。そのころの黎にはもう学校へ行きたいなんて気持ちは残っていなかった。
母は黎の返事を聞き、のろのろとシャワーを浴びたあと、お酒を飲まずに眠った。黎も母の隣でランドセルを抱きしめながら、いつもよりずいぶんとはやい時間に眠った。
学校に行かなくても、母がいてくれて、母のくれたランドセルがあるならそれでいいと思っていた。母が疲れてしまったのなら、学校なんてどうでもいいから母にいっぱい休んでほしかった。
黎はそれきり学校へ行くのをやめた。学校から母になにか連絡があったのかは知らない。母はなにも言わなかったし、黎もなにも聞かなかった。また鳴るようになったドアチャイムもずっと無視しつづけたら、しばらくしてまた鳴らなくなった。
母は「疲れちゃった」と言ったころから、黎をスナックに連れていってくれなくなった。黎はとうとう家から出ることがなくなった。起きているあいだはずっと座ったまま、ランドセルを眺めて過ごした。学校で使っていた教科書やノートなどは、部屋の隅で埃をかぶっていた。
母が夜に出かけるのは変わらなかった。真っ暗な家でひとりぼっちの夜を過ごすのはこわくてさみしいと、そのときに初めて知った。母が帰ってくる物音がするまで、黎はランドセルを抱えて浅い眠りをくりかえしていた。
母は夜に出かけるとき、今までよりも丁寧に髪を整えて、少し雰囲気の違う化粧をするようになった。そんな母の姿を見て、きれいだな、と思っていたのを覚えている。
黎は母がスナックへ行っているのだとずっと思っていた。夜のさみしさに耐えかねて、「ぼくも一緒にお仕事行ってもいい?」と母に訊いたら、母は目を泳がせて「やだ」と黎を拒んだ。
「家にいて。いいこにしてて」
母はそう言って、黎を置いて出かけてしまった。
黎は母にとっていいこでいたかった。だから母に言われたとおり、家でおとなしく母の帰りを待つことにした。
母は夜中に帰ってくることもあれば、外が明るくなりはじめてから帰ってくる日もあった。
母が帰ってきたら黎は飛びおきて、「おかえりなさい」と出迎えるようにしていた。母に少しでもはやく会いたかったから。けれど帰ってきてすぐの母はいつもどこかぼんやりとしていて、黎の姿など見えていないみたいだった。
黎はそれでもよかった。母が返事をしてくれなくても、黎を見てくれなくても、母がそばにいてくれるだけで、夜のあいだずっと黎にまとわりついていたさみしさがどこかへ消えるような気分だった。




