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毎日気が滅入りながらも学校へ通いつづけ、黎は二年生に進級した。
新しい担任は、声も体も大きな男の先生だった。母の顔すらはっきりと思いだせないのに、自分を見おろす先生の顔は今でもよく覚えている。一年生のときの先生と違って、その先生は黎と話すときに決してしゃがんでくれなかったから、いつも首が痛かった。先生は、他の子と話すときはしゃがんで目を合わせていた。
そのころの黎は、毎日とにかく眠くてしかたなかった。昼間は学校へ行き、夜は母とスナックへ。帰ってきたら母の介抱をして、ふとんで眠れるのは夜中になってからだった。そのせいか、学校でうとうととしてしまうことが何度もあった。先生はそれに気づくと、授業を止めて黎を激しく叱った。
「どうせ家で夜ふかししているんだろう。なまけているんだ」
先生に怒鳴りつけられ、黎は自分がなまけているんだと知った。なまけているというのがどういうことなのかはわからないけれど、なまけているから先生にも、母にも怒られるんだと思っていた。
先生は、どんなことでも黎ができるまでやらせつづけようとするひとだった。大きな声で返事ができるまでやり直し。つっかえずに音読できるまでやり直し。授業で当てられたら、黎が答えられるまで授業は中断した。
「みんなが困ってるだろ。はやくしなさい」
先生は黎に向かってよくそう言った。みんな迷惑そうな顔をして黎を見ていた。
そんなことを言われても、黎にはわからないのだからどうしようもなかった。他の子たちはわからなくて困っていたら先生がヒントをくれたり助けてくれたりしていたけれど、黎のことは助けてくれなかった。自分が先生にとってわるいこだからだと思っていた。
みんなの前でも先生が黎を叱るからか、二年生のクラスメイトにはあからさまに敵意を向けられることが多かった。からかわれることも文句を言われることもしょっちゅうあった。
「お前、迷惑なんだよ」
そう言って、同じクラスの男の子が帰り道に黎を突きとばしたことがあった。そのとき地面にランドセルを思いきりこすったせいで、かすり傷がいくつもできた。母から大事に使うよう言われていたのに。傷ひとつつけないよう大事に大事に使っていたのに。
家に帰ってから、黎は小さな傷をなぞりながら泣いてしまった。自分のてのひらにできている傷よりも、ランドセルにできた傷のほうが痛かった。
それでも黎は、先生が自分にだけ嫌なことを言ってくるのなら耐えられた。自分は怒られてもしかたないわるいこで、「おかあさんのためにもちゃんとしなさい」と言われても当然だと思っていた。
けれどある日先生は、黎を怒っている最中に大きなため息をついて「おかあさんも働いてて大変かもしれないけど、ちゃんとしてもらわないとこっちに迷惑がかかるんだよ。芹沢だって困ってるだろ?」と言いはなった。黎にとってそれは、あまりにも衝撃的な発言だった。どうして怒られていたのかは覚えていないけれど、それを言われた瞬間、頭のてっぺんまでかっと熱くなったのは覚えている。
黎は母が毎日どれだけがんばっているのかを知っている。朝から夜中まで働いて、たくさんお金を稼いでくれていることを知っている。たしかに先生に迷惑をかけているかもしれないけれど、それは黎が悪いのであって、母のせいだと思ったことも、ましてや母のせいで困ったと思ったことすらも一度もなかった。
母のことをなにも知らないくせに母に対してひどいことを言った先生が許せなかった。たぶんあのときが黎にとって、初めて怒りを覚えた瞬間だった。
だからといってその場でなにかを言いかえせるほど、黎は口がうまくなかった。どこにも発散できない怒りを悶々と抱えていたからか、夜中に母が寝ついてからも、黎はなかなか眠ることができなかった。
そのせいか、はっと目を覚ましたときにはもうすぐお昼の時間だった。その日はたまたま母も昼の仕事が休みだったから、母も寝ていたのだ。ずる休みしてしまった、と黎は青ざめたけれど、同時に、先生と顔を合わせなかったことにわずかな安堵も覚えていた。
「あれ、あんた学校は?」
黎が起きてから少しして、母ものっそりと起きてきた。怒られると身構えながらも、黎は素直に寝坊したことを白状した。母はそれを聞いて、ふうんと息を吐いた。
「今から行くの?」
母に訊かれ、黎はもぞもぞと組んだ手指をいじった。たっぷりと時間をかけてから、「行きたくない」と呟くと、母はそれにもふうんと返事をしてくれた。
「なんで?」
理由を問われ、黎は一生懸命考えた。先生が母にひどいことを言ったから。そんなひどいことを言う先生の顔を見たくないから、行きたくなかった。けれど正直に理由をうちあけたら、母が悲しむかもしれないと思った。母は毎日がんばっているのに、あんなこと聞かせたくない。
「……先生、きらい」
だから黎はせいいっぱい濁して答えた。嘘ではなかった。自分で口にして初めて、先生を嫌っているんだと気がついた。
母はそれを聞いて少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。気が抜けたような母の笑顔を見たのは久しぶりで、黎は驚いてしまった。
「会いたくないなら、休めば?」
母があまりにもあっけらかんと言うので、黎はますます驚いた。そんな理由で学校を休んでいいと思っていなかった。「いいの?」と黎が訊くと、母は薄く笑って続けた。
「いいんじゃない? わたしもあいつ嫌いだし。無視してなよ。あんたが学校休むなら、あいつもそのうちなんにも言ってこなくなるでしょ」
「おかあさんも、きらいなの?」
「嫌い。むかつくじゃん」
母の顔は苦々しく歪んでいた。もしかしたら先生は、黎の知らないところで母になにか言っていたのかもしれない。そう思うと、ますます先生を許せなかった。黎はおそるおそる母を見る。
「……おかあさんがいいなら、学校、休む」
「いいよ、あんたの好きにしなよ。そっちのほうがわたしも楽だし」
母はあくびまじりにそう言って、洗面所へ向かった。黎は母の背中を見ながら、組んだままだった手指にきゅっと力をこめた。
嬉しかった。怒られるかもしれないと思ったのに、母は自分の味方をしてくれた。黎のしたことを受けいれて、ゆるしてくれた。母と嫌いなものが同じだったことも嬉しかった。なにより、母とこうして話せたことがいちばん嬉しかった。これだけ長く穏やかに話せたのは、ずいぶん久しぶりだった。
その日から黎は学校を休んだ。夏が終わっても、冬になっても休みつづけた。二年生のあいだは絶対に行かないと決めていた。先生から直接なにかを言われることはなかった。もしかしたら母にはなにか言っていたかもしれないけれど、母も黎になにも言わなかった。
学校を休んでいるあいだ、何度か家のドアチャイムが鳴った。でもぜんぶ無視した。無視していいと母に言われていたから。
そうしたらそのうち鳴らなくなった。あれが先生だったのかどうかは、今も知らない。どっちだってどうでもいいと思っている。
学校を休むといいことばかりだった。先生に怒られない。クラスメイトに迷惑をかけない。なにより、母に怒られることがぐっと減った。学校に行くとあれこれ買ってもらってばかりだったけれど、その必要がなくなったというのがいちばん大きかったと思う。ときどき機嫌の悪い母に怒られることはあったけれど、なにかを買ってもらわないといけなくて怒られることは休んでいるあいだ一度もなかった。
母は前よりも少し穏やかになった。あいかわらず会話はほとんどなかったけれど、母が怒ったり泣いたりせずにいてくれるならそれでじゅうぶんだった。
学校に行かないから給食が食べられなくて、おなかが鳴りっぱなしだった。でも、そんなこと別に気にならないくらい、そのころは穏やかだった。ずっとこのままがいいと黎は思っていた。




